タグ「早安」を含む投稿[5件]
『猫とあなたと』 #早安
#三国恋戦記・今日は何の日 『猫の日』
エンド後定住前の二人です。
****************
『猫とあなたと』
(お題:猫の日)
「早安って、ちょっと猫っぽいよね」
秣陵を出て、二人で暮らす場所を探す中、そこそこ大きな街に立ち寄った。初めて訪れた場所だが活気もあり、治安も良さそうだ。──しかし、暮らすにはやや人の流れが盛ん過ぎる。
道の端に腰を下ろし、そんなことを考えながら竹筒の中の水を煽ったときだった。両手で頬杖をついた花が、何の脈絡もそんなことを言うものだから、思わず顔をしかめて聞き直す。
「……何?」
花の視線の先を追えば、道行く人の隙間を器用にすり抜け歩く野良猫。薄汚れた、どこにでもよくいるようなやつだ。
「……」
ごくりと水を飲み込みながら、ああ確かにと納得する。居場所もなく、誰かと馴れ合うこともない。猫一匹、誰一人気に留めることなどない。いてもいなくても、同じ――。
自嘲するように口角を上げると、花もくすりと小さく笑いをこぼした。
「動きがしなやかで綺麗なとことか。身軽で、高いとこにもさっと登れ
ちゃうし」
花の言葉に合わせたかのように、猫はたたっと斜めに立てかけられた板を駆け上がる。花の横顔を見遣れば、目を細め頬を緩ませていた。
「……」
「懐くまでは素っ気ないけど、でもちゃんと見てるんだよね。こっちのこと」
かわいいなあ。
愛おしげに呟いたその言葉に、頬が熱くなり、思わず手で口元を覆った。
猫に向けられた言葉だろうとしても、だ。そこに俺を重ねた上での発言に、動揺しない方が無理だというものだ。それに――。
「……お前だけだしな」
「ん?」
花が首を傾げ、俺を見る。
野良猫なんて、誰も気にしない。煙たがられる方が自然なくらいの存在を、慈しむのは花ぐらいだ。
俺と一緒にいようと思うのは、花だけ。
「――懐いた後は?」
「へ」
「懐いた後は、どういうとこが可愛いわけ?」
自分ばかり乱されたのが悔しくて、花の顔を覗き込むように近づける。
花はまずはその距離に驚き、己の発言を振り返ったのか、じわじわと
顔を赤く染めていく。
「え、っと」
「どこ?」
「う……や、優しい、とこ?」
俺に訊かれても。
軽く吹き出しながらも、花から目線は逸らさない。
「優しい、ねえ。それって猫が?」
「……今は意地悪だよ」
頬を染めたまま口を尖らせた花に、今度こそ声を上げて笑った。
#三国恋戦記・今日は何の日 『猫の日』
エンド後定住前の二人です。
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『猫とあなたと』
(お題:猫の日)
「早安って、ちょっと猫っぽいよね」
秣陵を出て、二人で暮らす場所を探す中、そこそこ大きな街に立ち寄った。初めて訪れた場所だが活気もあり、治安も良さそうだ。──しかし、暮らすにはやや人の流れが盛ん過ぎる。
道の端に腰を下ろし、そんなことを考えながら竹筒の中の水を煽ったときだった。両手で頬杖をついた花が、何の脈絡もそんなことを言うものだから、思わず顔をしかめて聞き直す。
「……何?」
花の視線の先を追えば、道行く人の隙間を器用にすり抜け歩く野良猫。薄汚れた、どこにでもよくいるようなやつだ。
「……」
ごくりと水を飲み込みながら、ああ確かにと納得する。居場所もなく、誰かと馴れ合うこともない。猫一匹、誰一人気に留めることなどない。いてもいなくても、同じ――。
自嘲するように口角を上げると、花もくすりと小さく笑いをこぼした。
「動きがしなやかで綺麗なとことか。身軽で、高いとこにもさっと登れ
ちゃうし」
花の言葉に合わせたかのように、猫はたたっと斜めに立てかけられた板を駆け上がる。花の横顔を見遣れば、目を細め頬を緩ませていた。
「……」
「懐くまでは素っ気ないけど、でもちゃんと見てるんだよね。こっちのこと」
かわいいなあ。
愛おしげに呟いたその言葉に、頬が熱くなり、思わず手で口元を覆った。
猫に向けられた言葉だろうとしても、だ。そこに俺を重ねた上での発言に、動揺しない方が無理だというものだ。それに――。
「……お前だけだしな」
「ん?」
花が首を傾げ、俺を見る。
野良猫なんて、誰も気にしない。煙たがられる方が自然なくらいの存在を、慈しむのは花ぐらいだ。
俺と一緒にいようと思うのは、花だけ。
「――懐いた後は?」
「へ」
「懐いた後は、どういうとこが可愛いわけ?」
自分ばかり乱されたのが悔しくて、花の顔を覗き込むように近づける。
花はまずはその距離に驚き、己の発言を振り返ったのか、じわじわと
顔を赤く染めていく。
「え、っと」
「どこ?」
「う……や、優しい、とこ?」
俺に訊かれても。
軽く吹き出しながらも、花から目線は逸らさない。
「優しい、ねえ。それって猫が?」
「……今は意地悪だよ」
頬を染めたまま口を尖らせた花に、今度こそ声を上げて笑った。
『あなたと一緒に』 #早安
この頃から早安は書きやすい&楽しいなと思っていました。
****************
窓といっても格子しかないこの世界では、屋内にいても外の音や風が容易に入り込んでくる。虫の鳴く声、どこか遠くで嘶く馬、人が地面を踏みしめる音、笑い声……。こうして静かに作業していると、ああ誰か来た、と人の気配は感じられるものだ。――ただ一人を除いては。
「ただいま」
「……あ、お帰り」
急に戸が開いたために、慌てて振り返る。そこには、薬草が入っているであろう籠を背負った早安が立っていた。一緒に暮らし始めてから少し経つが、彼が帰ってくる気配に気づけたことは一度もない。
「何か変わったことはあったか?」
「ううん。特にないよ」
荷を下ろしながら、ふと台所に目を向けて早安が顔を顰めた。
「――お前、俺がやるって言ったのに」
「えっと、そろそろご飯の用意しないとと思って……」
くつくつと煮える鍋を睨むように見ながら、早安が溜息を吐いた。
「手、濡らすなって言っただろ」
「そう、なんだけど……」
反射的に手を重ねて指先を隠してしまう。板の間に上がってきた彼が近づいて、そっと手を取られた。
「ほら、また酷くなってる」
修復と傷を繰り返し、皮が剥がれ赤く腫れあがっている指先を指摘され、俯いてしまう。
「これは出来るだけ濡らす頻度を減らすしかないんだよ」
「……ごめんなさい」
指の傷は、花自身が傷つけたものだった。最初は、少し痒い程度だったのだが、気が付いたら無意識に引っ掻くようになり――この有様である。初期から早安は薬を用意してくれていたが、痛痒い衝動には逆らえず、悪化する一方であった。
早安は溜息を一つついて立ち上がると、早安が調合した薬と、それから先ほど持って帰ってきた籠からも薬草を持ってきた。古布を割いて作った包帯も。
無言のまま薬を塗られると、染みて痛むが息を止めて堪える。その上から、いつもはしない薬草を生のままぺたりと貼られ――何だかその様が子どもの頃に「絆創膏だ」と言って遊んだ時のようで、くすりと笑ってしまった。
「? 痛くないのか」
「痛いけど、何か葉っぱが可愛かったから」
「葉っぱ……」
花の表現に呆気に取られた後、早安も軽く噴き出す。
「お前の方が面白い」
怒っていたような無表情が柔らかく変わって、約束を破ったことと、手間をかけて申し訳ないという罪悪感が薄れていく。
「ありがとう、早あ――」
もうこれで処置はお終いだろう、と手を引こうとすると、手首をしっかと掴まれた。
「まだ終わってない」
そう言うなり器用に花の指先を包帯でくるくると巻いてしまった。――四本の指ごと。
「……早安。これじゃ何にもできないんだけど」
「だからだよ」
にやりと笑われて、随分と近い距離で話していたのだと、急に意識してしまう。
「このくらいしとけば、無理もできないだろ」
「う、うん。そうだね……」
早安の笑う顔が好きだ。そう思っているのは本当なのだけれど。たまに見せる、こちらをひたと見据えるような笑みは――、とても、心臓に悪い。
目を逸らし気味に返事をすると、早安が肩を震わせ――声を出して笑った。
「今更――っ」
「だ、だってっ」
きっと早安にもわかるくらい顔が赤くなっているのだろう、と思うと何を言っても無駄な気がした。繋がれたままの右手に触れる早安の手はひんやりと心地よくて、熱いのは自分ばかりなのだと思うと余計に恥ずかしい。
「お前は、本当に面白い」
年相応の少年のように笑う彼に、羞恥心がじわりと形を変える。”今”を見てくれるようになった幸せそうな早安が、そこに居てくれる。
「――早安」
「うん?」
「ありがとう」
「いつでも治してやるよ」
未だ優しく触れられたままの手のことではなかったけれど。微笑んで頷いた。
この頃から早安は書きやすい&楽しいなと思っていました。
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窓といっても格子しかないこの世界では、屋内にいても外の音や風が容易に入り込んでくる。虫の鳴く声、どこか遠くで嘶く馬、人が地面を踏みしめる音、笑い声……。こうして静かに作業していると、ああ誰か来た、と人の気配は感じられるものだ。――ただ一人を除いては。
「ただいま」
「……あ、お帰り」
急に戸が開いたために、慌てて振り返る。そこには、薬草が入っているであろう籠を背負った早安が立っていた。一緒に暮らし始めてから少し経つが、彼が帰ってくる気配に気づけたことは一度もない。
「何か変わったことはあったか?」
「ううん。特にないよ」
荷を下ろしながら、ふと台所に目を向けて早安が顔を顰めた。
「――お前、俺がやるって言ったのに」
「えっと、そろそろご飯の用意しないとと思って……」
くつくつと煮える鍋を睨むように見ながら、早安が溜息を吐いた。
「手、濡らすなって言っただろ」
「そう、なんだけど……」
反射的に手を重ねて指先を隠してしまう。板の間に上がってきた彼が近づいて、そっと手を取られた。
「ほら、また酷くなってる」
修復と傷を繰り返し、皮が剥がれ赤く腫れあがっている指先を指摘され、俯いてしまう。
「これは出来るだけ濡らす頻度を減らすしかないんだよ」
「……ごめんなさい」
指の傷は、花自身が傷つけたものだった。最初は、少し痒い程度だったのだが、気が付いたら無意識に引っ掻くようになり――この有様である。初期から早安は薬を用意してくれていたが、痛痒い衝動には逆らえず、悪化する一方であった。
早安は溜息を一つついて立ち上がると、早安が調合した薬と、それから先ほど持って帰ってきた籠からも薬草を持ってきた。古布を割いて作った包帯も。
無言のまま薬を塗られると、染みて痛むが息を止めて堪える。その上から、いつもはしない薬草を生のままぺたりと貼られ――何だかその様が子どもの頃に「絆創膏だ」と言って遊んだ時のようで、くすりと笑ってしまった。
「? 痛くないのか」
「痛いけど、何か葉っぱが可愛かったから」
「葉っぱ……」
花の表現に呆気に取られた後、早安も軽く噴き出す。
「お前の方が面白い」
怒っていたような無表情が柔らかく変わって、約束を破ったことと、手間をかけて申し訳ないという罪悪感が薄れていく。
「ありがとう、早あ――」
もうこれで処置はお終いだろう、と手を引こうとすると、手首をしっかと掴まれた。
「まだ終わってない」
そう言うなり器用に花の指先を包帯でくるくると巻いてしまった。――四本の指ごと。
「……早安。これじゃ何にもできないんだけど」
「だからだよ」
にやりと笑われて、随分と近い距離で話していたのだと、急に意識してしまう。
「このくらいしとけば、無理もできないだろ」
「う、うん。そうだね……」
早安の笑う顔が好きだ。そう思っているのは本当なのだけれど。たまに見せる、こちらをひたと見据えるような笑みは――、とても、心臓に悪い。
目を逸らし気味に返事をすると、早安が肩を震わせ――声を出して笑った。
「今更――っ」
「だ、だってっ」
きっと早安にもわかるくらい顔が赤くなっているのだろう、と思うと何を言っても無駄な気がした。繋がれたままの右手に触れる早安の手はひんやりと心地よくて、熱いのは自分ばかりなのだと思うと余計に恥ずかしい。
「お前は、本当に面白い」
年相応の少年のように笑う彼に、羞恥心がじわりと形を変える。”今”を見てくれるようになった幸せそうな早安が、そこに居てくれる。
「――早安」
「うん?」
「ありがとう」
「いつでも治してやるよ」
未だ優しく触れられたままの手のことではなかったけれど。微笑んで頷いた。
『七夕』 #早安
初書き早安でした。
****************
「ふーん」
七夕のことなど、さして彼の興味を惹かなかったのだろうか。薬草を選り分ける手はそのまま、今日の夕ご飯は何にしようかと思ったときだった。
「……笹、取ってくる?」
「え、食べられるの?」
驚いて尋ねると、早安は目を丸くして、そして吹き出すように笑い出した。
「お前、ほんっと食べることばっか」
「え、なんで! そんなことないよ」
ツボにはまったらしい早安は顔を片手で覆いだした。
「――そんなに笑わなくても」
「花が言ったんだろ。"たなばた"には笹を使う
んだって」
「……興味、あるの?」
「うん?」
目尻の涙を拭いながら、早安が柔らかく微笑んだ。
「花のことなら、興味ある」
「……そっか」
おそらく赤くなってしまったであろう頬は、きっと早安にバレているだろうから。
「七夕、したいな」
構わず、わがままを言った。
初書き早安でした。
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「ふーん」
七夕のことなど、さして彼の興味を惹かなかったのだろうか。薬草を選り分ける手はそのまま、今日の夕ご飯は何にしようかと思ったときだった。
「……笹、取ってくる?」
「え、食べられるの?」
驚いて尋ねると、早安は目を丸くして、そして吹き出すように笑い出した。
「お前、ほんっと食べることばっか」
「え、なんで! そんなことないよ」
ツボにはまったらしい早安は顔を片手で覆いだした。
「――そんなに笑わなくても」
「花が言ったんだろ。"たなばた"には笹を使う
んだって」
「……興味、あるの?」
「うん?」
目尻の涙を拭いながら、早安が柔らかく微笑んだ。
「花のことなら、興味ある」
「……そっか」
おそらく赤くなってしまったであろう頬は、きっと早安にバレているだろうから。
「七夕、したいな」
構わず、わがままを言った。
『紅』 #早安
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2022/03/19
****************
干し芋に塩。干し肉もすすめられたけれど、私にはまだ品質の良し悪しを見分ける自信がなくて、とりあえず断った。
早安と二人で暮らす場所を探す道中。店主も行き交う人々も、生き生きとしているこの街は、私達にとってはどうだろうか。
そんなことを、肩に手提げを掛け直しながら考える。
待ち合わせの場所まで辿り着けば、まだ早安はいなかった。とりあえず壁際に寄ると、早安が真剣な顔をして小物屋を眺めているのが目に入り、微笑みながら近寄る。でも、珍しいことに私には気づかない。何をそんなに真剣に――。そっと横から覗いてみれば、そこには女性ものの小物。
「⋯⋯何か買うの?」
「!?」
これまた珍しく驚いた早安に、くすくすと笑えば彼
は気まずそうに頭を掻いた。
「何見てたの?」
「⋯⋯いや」
ちらりと、一瞬私の顔を見て、目を伏せる。
「⋯⋯同じの、あるかなと思って」
「同じって?」
くし、手鏡、髪飾り。
耳飾りも少し。それらの品を横目で眺めていると、「でもまあ」と早安が呟いた。
「お前は」
早安の手が、私に伸びる。
「そのままでもいいな」
その言葉の意味は、私にはちっともわからなかったけれど。目を細めて笑った、柔らかな早安の表情と、少しだけ唇に触れた指先に――。
「行こうか」
笑いを含んだ声に、頬を膨らませてみながら、差し出された手を取る。歩いている内に、顔の火照りも収まるだろうか。
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2022/03/19
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干し芋に塩。干し肉もすすめられたけれど、私にはまだ品質の良し悪しを見分ける自信がなくて、とりあえず断った。
早安と二人で暮らす場所を探す道中。店主も行き交う人々も、生き生きとしているこの街は、私達にとってはどうだろうか。
そんなことを、肩に手提げを掛け直しながら考える。
待ち合わせの場所まで辿り着けば、まだ早安はいなかった。とりあえず壁際に寄ると、早安が真剣な顔をして小物屋を眺めているのが目に入り、微笑みながら近寄る。でも、珍しいことに私には気づかない。何をそんなに真剣に――。そっと横から覗いてみれば、そこには女性ものの小物。
「⋯⋯何か買うの?」
「!?」
これまた珍しく驚いた早安に、くすくすと笑えば彼
は気まずそうに頭を掻いた。
「何見てたの?」
「⋯⋯いや」
ちらりと、一瞬私の顔を見て、目を伏せる。
「⋯⋯同じの、あるかなと思って」
「同じって?」
くし、手鏡、髪飾り。
耳飾りも少し。それらの品を横目で眺めていると、「でもまあ」と早安が呟いた。
「お前は」
早安の手が、私に伸びる。
「そのままでもいいな」
その言葉の意味は、私にはちっともわからなかったけれど。目を細めて笑った、柔らかな早安の表情と、少しだけ唇に触れた指先に――。
「行こうか」
笑いを含んだ声に、頬を膨らませてみながら、差し出された手を取る。歩いている内に、顔の火照りも収まるだろうか。
#三国恋戦記・今日は何の日 『家族』
早安エンド後の話(早花前提の……というCP色薄めの話です)。
当時ほぼ書き上げてましたが、ちょっとテーマとあれかな……と違うもの出してました。
****************
陽が落ちる頃合いが、一番嫌いだった。
鴉の鳴き声は耳障りだったし、どこかに帰り着く人々を眺めるのも、最悪な気分になったから。
もっとも、そんな感情なんてとっくの昔に忘れていた。なのに思い出したのは、薬草を集めた帰り、道端にうずくまる子どもを見つけたせいだ。
「…………」
背格好から察するに、二軒隣のガキだ。どうしたのかと声を掛けるべきなのだろう。
向こうも立ち止まった俺に気づいていないはずはないが、微動だにしない。意味もなく手を上げ口を開きかけ──何と切り出せばいいかわからず、そのまま頭を掻いた。
花に会うまで、人の感情なんてどうでもいいと思っていた。別に、相手が何を考えているのかが、わからないわけではない。寧ろ、思考が読めなければ死が待っているような世界で生きてきた。だから『わかる』
だけに、何と言ったらいいのかわからなくなることがある。これが以前の仕事のまま、誰かになりきっていれば、すらすらと言葉は出てくるのだろうが。
今は『早安』だから、言葉がすぐには出てこない。
もう一度、鴉が泣く。声を掛けることも、置いていくこともできずに、静かにため息をついて彼の隣に座った。
「……」
「……」
俺は空を見上げ、ガキはうずくまり顔を伏せ無言のまま。じきに陽が落ちれば、もっと冷えた風が吹くだろう。それは、帰る場所のない自分を惨めに思っていたあの日々を、蘇えらせる。
「……先生、帰りなよ」
くぐもった声に振り向きも返事もせず、頬杖をついた。
「──何してんの?」
反応がないことに痺れを切らしたのか、近所のガキは顔を上げた。
「いや、疲れたから休憩中」
「……ふうん」
「お前は?」
「──俺は、」
ず、と鼻を啜る音。
「……休憩中だよ」
「そうか」
帰る場所があろうがなかろうが、『帰れない』と思っているのであれば、その気持ちはわかる気がする。
だから、掛ける言葉もない。掛ける必要もない。どうしてそんなことを思うのだろうか、と考えた瞬間、一つの光景が頭をよぎった。すっかり忘れていた遠い日の記憶。──別に、思い出さなくても良かったとい
うのに。
「──帰るか」
気づけば、『あいつ』と同じ台詞を口にしていた。
のろのろと無言で立ち上がる子どもを視界の端に入
れながら、あのとき『あいつ』はどんな気持ちだった
のだろう、と考えて頭を振る。そんなこと、考えたっ
て意味がない。
「あ、お帰り」
花が、かまどの火加減と格闘しながらこちらを振り向いた。その頬には黒い炭。思わず笑ってしまった。
「……何?」
「ん」
袖で擦ってやれば、やや薄くなったものの、湯で落とさないと完全には落ちないだろう。
「子どもみたいだな、お前」
「……そんなことないよ」
半目で口を尖らせる花の頬を摘む。いひゃいよ、と不満を漏らす花を眺めながら、いつも通りに見えるように笑ってみせる。
けれども思い出してしまった昔のことが頭の隅でち
らつく。近所の子どもの寂しそうな背中が、自分もあ
んな風だったのだろうかと心がざわついて仕方ない。
失敗すれば容赦なく叱るくせに、夕暮れに一人佇ん
でいると、いつの間にか静かに隣に立っていた。一度
もその顔を仰ぎ見ることはしなかったから、『あいつ』がどん
な表情をしていたのかはわからない。でも──。
『帰りますか』
必ず、帰る気になった瞬間に一言。ただ、それだけ。
逃げられたら困るから、居場所を把握していただけ。余計な情などないから、黙っていただけ。思いつくそれらは辻褄が合うし、いかにも『あいつ』らしい。
なのにさっき繋げてしまった行動と、その中で起こった己の感情は、噛み合わないのだ。
「……どうかした?」
不安げな花の声に意識が引き戻される。俺を覗き込む瞳が揺れていて、安心させるように目を細めてから抱き寄せる。
「──何でもない」
そう、何でもないことだ。
花の体温に、身体が冷えていたことに気がつく。そんな俺の背中を、遅れて宥めるように花が叩き出した。
子ども扱いされたことに笑いながら、みじめだったあの頃の俺はもういないのだと、肩の力が抜けていく。
『家族』という言葉で思い浮かぶのは母親だった。ずっと、その一人だけだった。そこに今、花が加わったけれど──。
「……何だったんだろうな」
あいつとの関係に、名前でもつけていれば良かったのだろうか。そうすれば、今更面倒なことを考えずに済んだのか。
ぽつりと零した言葉を聞き取れなかったのか、花が身じ
ろぐ。その頭を撫でながら「何でもないんだ」ともう一度呟いた。