猫の額








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『季節』 #孟卓 #夢
魁四周年記念で書いたものの一つです。
名前変換はなく、オリジナルの夢主です。




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「君は、好きな季節はあるのかい?」
 少し離れた場所で手仕事に集中していた彼女が、ぴたりとその手を止めた。ゆっくりとこちらに向き直り、首を傾げる。
「……急に何のお話でございますか」
「いや、別に。少し気になっただけさ」
 卓に頬杖をつきながら、格子窓の外を眺める。ここからは見えないが、生垣には鮮やかな花が咲き誇っているはずだ。
 その花が咲くと、彼女──妻──に出会った頃のことを思い出す。あの花の前で、緩やかに微笑んだ姿を。
 そしてその記憶はほんの少し、俺の罪悪感を刺激する。
「……人並みにはございます」
「へえ。いつだい?」
 彼女らしい回りくどい答え方に笑いが漏れる。そして、贈り物と関係なく好みついて訊ねること自体、初めてかもしれないことに気がついた。そもそも、口数の少ない彼女
とは会話自体が少ないのだ。
 更に妻は表情の変化も乏しい。笑顔など、記憶の中にあるそれぐらいだ。
 それでいて冷たい印象は与えない。ただ、そこに静かにいる。
 そんな彼女と共に過ごすのは、とても心地良かった。きっと、彼女が俺には何も求めていないからだろう。
 それが、俺が初めて迎えた妻だった。
「……私の好きな季節などを聞いて、楽しいのですか?」
「楽しい、楽しくないではなく、ただの暇つぶしだよ」
 "彼女好み"の返答を返す。君個人に大して興味はないのだと示す方が、彼女は落ち着くように見えるからだ。
 想い人がいながら、張家に嫁がなければならなかった彼女に対して、俺が出来る数少ないことの一つ。
「……今の季節、です」
 珍しく戸惑いの色が混ざったその言葉に、彼女を盗み見た。
 彼女の視線は格子窓の方へと向けられているせいで、表情まではよくわからない。
 ──庭にある花は、彼女の想い人が好きな花だった。
 二人が、あの花の前で笑いあう姿を、今でもはっきりと覚えている。
「へえ」
 思いの外冷えた声が出て、慌てて身を正す。面白くないなどと、一瞬でも思った自分に動揺する。
 今の声音に妻が気づいたのかはからないが、居心地の悪さに適当なことを言って誤魔化そうと口を開きかけたときだった。
「あなたの」
「え」
「好きな花が満開になりますから」
 それだけ答えると、また彼女は手元の針仕事に意識を戻した。
 その様子を、卓越しにぼんやり眺める。
「……そうか」
「はい」
「そう、か」
「はい」
 間抜けに言葉を繰り返しながら、一度停止した思考を懸命に動かそうとする。
 ──俺が好きだから?
 あの花を好きだと思ったことなど一度もないのだが、とかく彼女にはそう見えているらしい。
 彼女は話しかける前と寸分違わず、淀みなく手を動かしている。
 ほんの少し薄れた罪悪感のせいだろうか。思わず緩みそうになる頬を手で抑える。
「……そっか」
「はい」
 意味のない言葉にも律儀に返す相槌が心地よくて、自然と上がる口角に素直に従った。

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『無意味の意味』#公路 #夢
できれば甘め……ということで目指しましたが、大分控えめになってしまいました。今回は現パロで。。




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 この時間に、一体何の意味があるのだろう。手元のカップからは、あっさりとした控えめな香りが届く。
「いい天気ですね」
「……そうですね」
 『仏頂面』というには可愛らしすぎるシワを眉間に刻みながら、彼が答える。目線は落としたまま、こちらを見ることはない。月に一度、こうして両家の取り計らいによる『無駄な』お茶会がある。理由は、彼が私の|婚約者《フィアンセ》だからだ。
『…………』
 晴れているせいで、沈黙がやたらと目立つ。雨でも降れば、ガラス張りのテラスは音で満ちるのに。彼を見遣れば、また眉間のシワが増えている。手持ち無沙汰にカップに口をつけ、一人紅茶を堪能する。
「学祭は、どうでしたか」
 唐突に口を開いた彼に瞬きを返し、思考を巡らせる。ちょうど彼と私の学校の日程が同じで、特に彼は生徒会役員ということもあり、先月会った彼は疲れた表情だった。概ね順調であったこと、そちらの学祭も見てみたかったと伝えれば、彼はため息をこぼした。
「来年は、重ならないよう進言します」
「――そこまでして頂かなくても」
 そこでやっと、彼が目線を上げた。深緑色の瞳が、私を捉える。どんな小さなことにも向けられる真剣な瞳は、出会った頃から変わらないものの一つ。
「いえ、やります」
 一度『美味しい』とこぼした紅茶が定番になった頃から、何のてらいもなく、交わされる先の約束。緩んでしまった口角のまま、彼に微笑みかける。
「一緒に回れるの、楽しみにしていますね」
「――っ、はい」
 彼は目元を赤く染めて、また視線を逸らす。|無駄なお茶会《こんなもの》があるから、約束しなくても、会えてしまう。
 本当に、何て意味のない時間。

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『ひねもす』 #公路 #夢
魁四周年で書いた話の一つです。トップバッターで公開しました。




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 朝も昼も夜も。
 日がな一日飽きもせず、よくそこまで一生懸命になれるものだと、彼女が滞在する庵を眺める。
 風に乗って流れてくる琴の音は、お世辞には上手いとは言い難い。けれど、耳に入れば傾けずにはいられない不思議な音色だった。
 音が聞こえては、自然とそちらへ向きそうになる足を何度か抑えた後。このままでは仕事に支障をきたすと、意を決して彼女の元へ向かった。
 

 
 ――琴を教えてやって欲しい。
 彼女の父親がそう言ってきたのは、ふた月ほど前のこと。
 思惑は色々あるのだろうが、父親同士で決められたそれに異を唱えられるわけもなく、そうとは見えぬように渋々と了承した。
 一方で、彼女の方はわかりやすく不機嫌だった。

「琴の名手と名高い方ならともかく、何故この方に学ばねばならないのですか」

 こちらを見ることもなく言い捨てられたそれに、口端が引き攣る。
 確かに、確かに彼女の言う通り、自分は琴は弾けてもとりたて得意というわけではない。だが、彼女にそれを言われる筋合いはない。
 父の顔を立てとりあえず笑ってみた顔は、自分でも相当ひどいものだったと、今でも思う。
 
 最初は、自宅に帰れば琴の音が聞こえるだけで苛々した。あの時、私に教わることを嫌がっていた彼女の顔を思い出しては、はらわたが煮え繰り返るようですらあった。
 しかし、いざ手ほどきを始めてみれば、彼女は至って真剣で素直にこちらの言うことを聞き入れる。
 技術は心許ないが、一度言えば理解はする。そして言われた通りにできない己に対して、眉根を寄せながら悔しそうにする顔を見ていれば、自然と溜飲は下がった。

「何故、そこまで琴を?」

 一日一回の手ほどきが終われば、そのまま茶の時間になる。最初こそ苦痛でしかなかった時間も、彼女に対し何の感情も持ち合わせなくなれば、こちらから話しかけることも増えた。

「……父上が、琴の一つも弾けぬようでは駄目だと」

 手ほどき以外の会話では相変わらず顰めっ面を崩さない彼女が、気まずそうに視線を逸らして言った。父親に言われたから。ただそれだけで、あのような眼差しで取り組むだろうか。
 ふと、琴に向き合う彼女の姿が浮かぶ。
 盤面に落ちる目線を縁取る睫毛。付け爪から伸びる細い指先。没頭するあまり、結い上げた髪がはらりと一筋崩れる瞬間――。
 思い浮かべてしまったそれらに、琴とは何の関係もないではないかと頭を振る。
 どうにも、最近ふとした拍子に彼女のことを思い出すことが増えてしまった。

「公路様も――」

 硬い声音。それでも出会ったときよりは棘はない。ただひたすら真っ直ぐな性格故のものなのだろうと、彼女のことが少しわかり始めていた。

「琴も弾けぬ女子は、駄目だと思われますか?」

 じっと見つめられる。その瞳が不安そうに揺れたように見えて、思わず息が詰まった。

「――私は、」

 手元の茶器を握りしめる手に、汗が滲むのがわかった。何故、こんなにも緊張しているのかわけがわからない。

「弾ける、弾けぬよりも――。その、どれだけ懸命に向き合えるかどうかの方が、大事だと思うが」

 言い終え、どっと早まった心臓に動揺し、一気に茶を煽る。彼女の方を見ていられなかったが、ちらと視界の端に映った顔は。――少し、赤かったように思う。
 
 
 その日からだろうか。
 日がな一日。朝も昼も夜も。
 家にいてもいなくても、琴の音が聞こえても聞こえなくても。
 ふとした拍子に彼女のことを思い浮かべてしまう。
 一日一回の手ほどきの時間が、待ち遠しいとさえ思う。
 今日の分は、すでに今朝方終えてしまった。
 だから、今これから向かう理由を、彼女の前に出るまでに考えておかねばらない。

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『常春の花園』 #公路 #夢
夢主視点です。名前変換はありません。
2話で完結です。




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 そこそこ裕福で名のある家に生まれたので、笑ってさえいえれば何不自由なく暮らせた。
 どんなに面倒なことでも、笑えば何とかなった。わからないと無知を装えば事が済んだ。
 だから、彼に初めて会ったときは驚いたのだ。こんなにも笑わない人がいるのかと。普通は笑いかければ多少は相好を崩すものだというのに、逆に彼は眉間の皺を深くした。
 彼に会う頻度がそう多かったわけではないけれど、会うたびに増えそうな眉間の皺も、言葉数の少なさも、そう大して気にはならなかった。
 多分、表情は硬くても、私の話は聞いてくれる人だったからかもしれない。
 それから。
 『兄』のことを話すときだけは、とても柔らかく笑う人だったから、かもしれない。


   ◆◆◆


 公路様はその日、いつもよりも険しい顔をしていた。気持ちはわからないでもない。
 今日は、私と公路様の婚儀の日。
着慣れない服が嫌なのかしら。それとも賓客の相手をするのが面倒なのかしら。はたまた、この婚儀自体が嫌なのか――。
 贅を尽くした婚儀を前に、『いつも笑ってばかり』と言われる私もさすがに顔が引きつりそうだった。あとこれを数日も続けるのかと思うと、漏れそうになるため息を堪えるだけで精一杯だ。
 それにしても、と思う。この人のお顔が険しいのは元からだけれど、あまりにも不機嫌そうな態度を隠そうともしない。もしかしたら私に思う所があるのかもしれない――。
 婚儀は長いし、いくら家同士で決められたものとはいえ、これから共に暮らすことになる人だ。奥の部屋へ一度控えた際に、意を決して訊ねた。

「……お疲れですか?」

 彼は眉間の皺そのままにこちらを向いた。

「何故ですか」
「……その、何か、苦々しい顔をしておいでなので」

 その言葉に、ああ、と彼はため息をこぼした。整えられた前髪を掻きあげようとして――崩してはならぬと思ったのか、そのまま手を下げた。

「疲れているわけではないのですが」
「……はい」

 ということは何か不満があるのだろうか。今まで不機嫌そうな顔をしていたことはあれど、彼から私に対して小言を漏らすようなことはなかっただけに、自然と息を詰めた。
 彼はもう一度大きなため息をつき、とても嫌そうな声で話し出した。

「あなたのその美しい姿を、婚儀とはいえ見せなければいけないのが腹立たしいだけです」

 あまりにも予想外の言葉に、一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。

「? どうかしましたか」
「え、あ、いえ……」

 涼し気な、いつも通りの彼の顔を見ることが難しくなってきた。指先が冷え、代わりに頬が熱くなるのがわかる。さっきの言葉が聞き間違いでなければ、彼が私のことを――。まるで、好いているようではないか。

「あの――」

 何と聞くべきだろうか。

「……私の衣装、似合って、おりますか?」
「は!?」

 ものすごく驚かれてしまったものだから、ぱたぱたと手と首を振る。

「いや、その……!」

 大した意味はなくて、と続けようとしたところで、彼が答えた。

「――まあ、はい」

それだけ絞り出すように、頬を染めて。この人は、誰なのだろう。先ほど感じた気恥ずかしさも忘れて、思わず首を傾げてしまった。

「……あ、あの、公路様もとてもお似合いで」
「私はどうでもいいです」

 にべもなく返され、ああいつもの彼だ、と思ったら何だかおかしくてくすりと笑ってしまった。

「……」
「あ、すみません」
「いえ」

 じっと私を見つめたかと思うと、彼がふわりと笑った。

「やっと、笑ってくれたので」
「……やっと?」

 彼の笑みと、意味の分からない言葉に呆ける。私は朝からずっと笑っているのだけれど。

「婚儀が嫌なのかと思っていました」
「そんな……」

 嫌だなどと、そんなことはどうでもいいのではないだろうか。これは家同士が決めたもので、そこに私たちの意思は関係がないはずで。そういうことを気にする人だとは思っていなかったから、思わず本音が漏れてしまった。

「――私、いつも笑ってますよね?」

 その言葉に、彼は不思議そうに眼を瞬かせた。

「そうですか?」
「公路様。奥方様。そろそろお時間が――」

 不意に外から声をかけられ、婚儀の最中であったことを思い出した。慌てて鏡に向き合い確認を終えたところで、彼が傍に立った。

「行きましょうか」

 私に目を合わせ、手を差し出される。彼の目尻がほんの少し下がっていて、ああそうかと胸が痛くなった。
 この人が、こんな風に笑うことがある。特に彼の“兄”の話をするときだ。
 本当に兄を慕っていることが伝わってくるその姿が、――私は好きだった。

 今更。本当に今更、彼からの好意を自覚して、気づいた。
 今まで何度も顔を合わせ言葉を交わしたのに。形ばかりの婚姻だと、それ以上踏み込むことが怖くて、何も見ようとせず蓋をして。この人からの好意に気づかなければ、私はその他大勢と同じように、公路様を扱うところだった。
 彼の顔をしっかりと見上げる。いつもはきつく見える眼差しが、とても優しく見えるのは、彼のことを好きだと自覚したからだろうか。

 ――今からでも、遅くないだろうか。

「公路様と一緒になれて、嬉しいです」

 彼はその言葉に呆けた後、瞬く間に顔を真っ赤に染め上げた。

「本当に、嬉しいです」

 もっと、早くに気づいていたら良かった。そうしたら、今この時がもっと幸せだったかもしれないのに。もっと、この人のことを思って生きる時間が長くなったかもしれないのに。
 耐えきれなくなったように目線を逸らした彼に、胸の辺りが締め付けられるようだった。こんな風に誰かを想うことがあるなど、思いもしなかった。
 扉が外から開けられ、名前を呼ばれる。差し出されたままだった手を取ろうとしたところで公路様が何かを言った。

「え?」
「――私も、嬉しいです」

 たった、その一言に。先ほどの比ではないほど胸が痛んだ。
 ――良かった。今日、まだほんの少しだけれど。この人に向き合えて良かったと、彼の冷たい手を取りながら心から思った。


   ◆◆◆


「ですから、それは日用品の類でしょう」

 夫が、眉を顰めて咎めるような声を出す。夫婦になってから口調は気安いものに変わったけれど、たまにこうして出会った頃のような話し方に戻ることがある。感情的になると、特にそうだ。

「以前は墨が良いと言うし」
「ええ。とても良い墨でした。やはり公路様に頂いたものが一番ですわ」
「そ、それは良かった――ではなくて、私は!」

 思わず荒げてしまった声に気づき、気まずそうに視線を逸らす。その姿すら愛しくて、頬が思わず緩む。

「袁家として相応しい装いに関しては、もう十分足りていますもの。むしろ使い切れないほどですわ」

 年に数回ほど、贈り物に何が欲しいかを訊ねられることがある。夫婦になる前からを数えると、何度目かのやりとり。その度に彼はこうして難しい顔をする。

「……でも」
「それより、毎日使うものが良いんです」
「……」

 不服そうに口を尖らせ、そして息を吐く。きっと彼は『わかりました』と言うだろう。

「……わかりました。筆、ですね」
「はい。ありがとうございます」

 予想通りの返事に笑いを堪えつつ、きっと心の限りを尽くした品が贈られるのだろう、と思った。

「実用重視の、使いやすいものでお願いします」
「……」
「あ、公路様とお揃いの物がいいです」
「……はあ。わかった」

 贈りたいものがあるのならば、訊かずに押し付けてしまう方法だってあるだろうに、彼は律儀に欲しいものを訊ねる。『私が本当に欲しいものではないと意味がない』と、いつだったか言われたことがある。
 こうして、言葉の端々に彼からの愛情を感じるのだ。言葉だけではない。目線も、表情も。気づいてしまえば、存外彼は表現豊かな人だった。

「お茶にしましょうか」
「ああ、頼む」

 お茶に誘えば、柔らかな笑みが返ってくる。私の淹れるものを好いてくれるのがわかる。
 そうして一口飲んで、何度も聞いたことのある彼の“本音”が漏れた。

「……お前の淹れる茶はうまいな」

 初めてこの人からの好意に気づいたときと同じように、零れた言葉。本人も気づいていない、本当の言葉。

「……何を笑っている」
「ふふ。秘密です」

 言葉に、声音に、表情に。意図せず表れる彼の心が見えるとき。
 あなたのことを好きになったことを思い出して、その度に幸せが溢れる。
 まだ、私だけの宝物にしておきたくて、今日も笑って誤魔化した。

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『春が来るまでには』 #公路 #夢
オリジナルの夢主。名前なしのため変換はありません。




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「なあ、あいつは大丈夫なのか?」

 渋い顔をしながらも、結局茶に付き合ってから帰った公路の背中が見えなくなったところで、孟卓が話し始めた。

「大丈夫、とは」
「嫁のことだろ。娘が生まれたとかなんとかは聞いたが――。それ以外はとんと話を聞かない」

 孟徳の言葉に、数回会ったことのある彼女――公路の嫁――の顔を思い浮かべる。柔らかな雰囲気によく似合った衣や小物を身に着けているのが印象的だった。

「趣味の良い娘だぞ」
「お前はよく会うんだろ」
「それはまあ、本家に行けば顔を合わせないこともない程度だが。婚儀の時も入れて三回ほどだな」
「――あいつが婚儀をあげたのは二年前だが?」
「従兄弟でさえその程度か」

 やれやれ、と二人がため息をついた。

「婚儀の時の不機嫌そうな顔しか印象に残ってないんだよな、俺は」
「ああ、あれは笑ったな」

 そうだっただろうか、と記憶を巡らせるけれど、弟の晴れ姿が嬉しかったことしか思い出せない。兄上より先に申し訳ない、と苦い顔をさせてしまったことは心が痛んだので覚えているが。

「別に嫁が出来たからといって何も変わらなかっただろう。話題にも上らない。かといって次を娶る気配もない」
「それを言うなら本初の方が問題だけどな」
「……私のことはいいだろう。そんなに心配なら聞いておこうか」
「やめとけ、やめとけ。機嫌を損ねるだけだ。どうせまた一人嫁を迎えるから聞いただけだろう、孟卓」
「ああ。公路の嫁と遠縁らしくてな――」

 それから話は流れ、時折二人の笑い声が東屋に反響する。
 耳を澄ませば鳥のさえずりが響き、茶を口に含めば豊かな香りが広がる。
 実に穏やかな昼下がりだった。


   ◆◆◆


 幼い頃は、兄上のことを本当に“兄”だと思っていた。兄弟とは大抵は同じ場所に住むものだと知った頃、兄上は“兄”ではなかったことを理解した。
 しかし血の繋がりが半分だろうが、優しく聡明なあの人を尊敬していたから、周りに何と言われようが呼び方を改める気にはなれなかった。
 誰も彼も私の前では兄の陰口を、私がいないところでは私の陰口を言う。皆どちらにつくべきかを見計らい、愛想笑いを浮かべ、本当に信じられるのは嘘偽りを述べることのできない兄だけだった。
 ――彼女に会うまでは。


「あら、お帰りなさいませ」
「……ただいま戻った」

 自室の前まで来たところで、足音を聞きつけたのだろう。いつものように彼女が戸を開け顔を覗かせた。まるで春の木漏れ日のような柔らかな笑顔に、肩の力が抜ける。

「今日はお早いのですね」
「ああ、まあ……。兄上たちと、――その、少し話をしただけだ」
「そうなのですか。お茶になさいますか?」
「ああ、頼む」

 頷けば彼女がふわりと笑い――、急にむっと眉根を寄せた。

「公路様」
「な、なんだ」
「兄君とお会いになられたのなら、お茶を召し上がっているのではありませんか?」
「う、まあ、少し――」
「ではお茶はやめておきましょう」
「いやでも」
「あまり飲みすぎてはなりませんよ。代わりに私の自慢話に付き合ってくださいませ」

 ね、と小首を傾げられれば、頷くほかない。
 茶など、どこで誰と飲もうが同じだと、そう思っていたのに。彼女が淹れるものだけは、特別だと思う。やはり断って帰れば良かったと、今更の後悔をする。

「今日はやっと衣に入れていた刺繍が完成したのです。もう嬉しくて」

 彼女の部屋へと招き入れられる。どの部屋も一流と呼ばれるような細工の家具をそろえてはいるが、どこか薄ら寒いと常々思っていた。けれども、彼女の部屋だけは違う。色とりどりの小物のせいだろうか。それとも彼女自ら手を加えたものが並んでいるからだろうか。どれも、彼女が愛情をもって手入れをしているのがわかる。
 自室よりも、妻の部屋にいる方が好きだった。

「ほら、見てください」
「……これはすごい」

 正直、すごいということしかわからない。自分には到底できる芸当ではないことは確かだ。蝶が数匹、小さな衣の裾に舞っている。

「あの子、蝶が好きなのかよく目で追いかけているのですよ」
「……なるほど」

 娘のことを思い浮かべたからだろう。彼女の目尻が一層下がる。
兄上なら、この刺繍をいかに素晴らしいのか言葉を尽くして伝えることができるのだろう。きっと、この蝶の種類まで当ててしまうとさえ思う。

「喜ぶだろうな」

 まだ最近寝返りを打てるようになったばかりの娘が、これを理解できるとは到底思えなかった。けれど、嫁の笑顔を見ていると、そうであったらいいなと心から思う。
 ふと、妻の視線を感じて顔をあげる。

「どうした」
「いえ」

 何だかとても嬉しそうに、くすくすと笑いだす。

「……何だ」
「秘密です」

 彼女は、よくそう言っては嬉しそうに笑う。否、嬉しそうにしているときに『秘密』だと口にする。これが彼女以外ならとても受け入れがたいことだろうが――。
 目を細めて穏やかにそう言われれば、追及する気にはなれなかった。と同時に、この謎めいたやりとりのくすぐったさを、好ましいと思う自分がいる。
 彼女だけは、特別なのだ。何においても。

「――でも、あまり無理はしないように。産後の肥立ちが良かったとはいえ、そんなに働いていいものではない」
「はい」

 つい生来のきつい言い方になっても、彼女は変わらず笑って返す。あの頃から同じ、凍てついた心が溶けるような笑みを浮かべて。


 彼女の笑顔を初めて見たのは、兄の話をしたときだった。
 “こちら側”に着くといち早く決断した彼女の父によって早々に決められた婚姻。許嫁になったと顔合わせをした初めての日に出会った彼女は、他の者と同じだけれど少し違う笑みを浮かべていた。
 愛想笑いには違いなかったが、私だからというよりも、誰に対してもそうしているようだった。
 数回顔も合わせれば話題も尽きる。ちょうどそこに、兄の部屋で聞いたことのある鳥の鳴き声がした。彼女があっという間にその種別を当ててしまったので、思わず兄の話をしたのだった。
 兄のことは変わらず尊敬していたが、兄の話になると皆一様に困ったようにする。仕方のないことだ。わかってはいても不快なことには変わりない。だから極力話さないようにしていたというのに、その時は兄と同じく鳥に詳しい彼女に対して気が緩んでいたのだろう。
『兄君のことを尊敬していらっしゃるのですね』
 話し終えた私に対し、彼女はいつもと違う柔らかな笑みを浮かべた。
 彼女のことを、初めて意識した瞬間だった。


「公路様?」

 呼びかけられ、目の前の彼女に慌てて意識を戻す。

「どうかなさいました?」
「……昔のことを思い出していた」
「まあ、いつのことでしょう」

 彼女が今のように笑うようになったのは、夫婦になってからだ。何がそうさせたのかはわからないが、今こうして笑う彼女の笑顔を見る限り、幸せにできているのだろうとは思う。
 他人をあまり信じられない自分がそう思えるほど、彼女は全身で、言葉を尽くして愛情を伝えてくれているというのに。
 自分は何一つ好意を伝えたことがない。
 正式に許嫁になることが決まったときに。婚儀をあげることが決まったときに。共に過ごすことになったときに。娘が生まれたときに――。
 機会はいくらでもあったというのに。それでも彼女は変わらず私の傍にいる。

「お前と出会ったときのことを」

 彼女が少し目を見開いて、そして相好を崩した。
 いつか。――いつか。
 与えられたものを彼女に返したいと、想いばかりが降り積もる。

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『延長線』 #華陀
華×巴で「ハッピーエンドな終わり方」を目指して書きました。




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「あ、それ僕が持つよ」
 何の予定もない、のんびりした午後。食事も食べ終え、散歩に出かけることにした。テーブルを片付けようと食器に触れると、華陀さんが白いシャツを着た腕を伸ばし持っていってしまう。キッチンは小さいのだけれど、一緒に片付けようと彼の後ろをついていった。
「洗ったやつ拭いてくれる?」
 頷けば、よし、と声を出して彼が腕をまくる。その姿に、思わず目をみはり――くすりと笑いがこぼれた。何? 何でもないです。そんなたわいもないやりとりが、くすぐったい。
「巴ちゃ〜ん?」
 彼が拗ねてしまう前に、まくられた袖口を指す。
「何か、懐かしいなって思って」
 彼が不思議そうに顔を傾けたれど、あの頃みたいに、束ねた髪がさらりと音を立てることはない。服だって、今日みたいに白じゃなくて様々になった。
「腕まくり。久々に見たなあと思って」
「ん、あー……。まあ普段はあんまりしないか」
 彼と過ごしたあの世界での日々は、現実だとわかっていても夢のようにおぼろげな輪郭しか残していない。けれども、こういうちょっとしたことで思い出す。
 彼が水道をひねれば、水が小さな飛沫を上げる。あの頃は、食器を洗うのだって一苦労だった。
「学校では腕まくりしてるんですか?白衣ですよね」
「ああ、まあそうかも。言われてみれば」
 ――やっぱり。スポンジを掴む彼を眺め口元が緩む。
「見てみたいです」
「ええ? くったくたの白衣だし、かっこよくないよ」
「それでも、見たいです」
「……いや、そんなことないですって否定してよ」
 情けない声に笑って、咎められるように名前を呼ばれて。あの日々の繋がりを想って、胸の奥に灯った熱が、ただただ嬉しかった。

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『お決まりの』 #華陀
エンド後の華巴です。『色っぽいお話書きたい』アンケートで書いたので甘めです。




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「あ~、巴ちゃんが可愛すぎてつらい」
「なんですかそれ……」

 彼の部屋に置いているパジャマを着て、淹れてもらったココアを一口飲んだところだった。髪を乾かし終えた華陀さんが、私が持っていたコップをテーブルに戻して、私を抱きしめる。
 出会ったときより短くなった彼の髪が、頬をくすぐる。シャワーを浴びたばかりの火照った身体に更に熱が籠るのを自覚して、気恥ずかしさに華陀さんの肩口に顔を埋めた。何かとすぐ『可愛い』と彼は言うのだけれど、ちっとも慣れない。言われる度に、胸がきゅっと苦しくて痛くなるのに、それが心地良くもある。それでも楽になりたくて、手を伸ばして華陀さんの袖を引き寄せるように掴めば、もっと息が詰まった。どうしたらいいんだろう。一緒にいると幸せなのに、そうであればあるほど大きすぎる感情に潰される。

「巴ちゃんてさ、良い匂いするよね」

 顔を見なくてもわかるほど、幸せそうな彼の声。私の頭をゆっくりと撫でる手が心地良い。と同時に、そんなに嬉しそうに言える余裕にむっとする。

「……華陀さんのシャンプーの匂いですよ」

 私のじゃない。これは、華陀さんの匂いだ。
 そうじゃなくてさあ、とのんびり返す彼に口を尖らせる。『可愛すぎて辛い』なんて、嘘。現に彼はとてもご機嫌ではないか。いつもいつも、私ばかりが苦しい。

「華陀さん」

 現状に痺れを切らして、彼の胸に手を押し当て距離をとる。優しげな瞳を覗き込み、息を吸う。
 余裕なんて欠片もない私の、切り札。

「キスしてください」

 明らかに走った動揺に満足して、目を閉じる。さっきよりも鼓動は早くなってるのに、ちっとも苦しくない。
 昔は拒んだそれを、今の彼は絶対に断らないと知っているから。

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『きっと、いつまでも』 #華陀
#三国恋戦記・今日は何の日 『ネクタイ・メガネの日』
エンド後のお話。




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「ねえ、これなんてどう?」

 華佗さんの顔には見慣れぬ眼鏡。やや大きめの銀のフレームが、店内の照明を受けて光を反射する。映画を観て食事をした定番のデートコースから、いつもは立ち寄らない眼鏡屋にいるのは、何だか不思議な感じだ。

「良いと思いますよ」
「じゃあ、さっきとどっちがいい?」
「え、っと――。どっち、でしょう?」

 さっきのは細いタイプ。どちらもよく彼に似合っているから、咄嗟に選ぶことができなかった。

「……真剣に考えてくれてる?」
「勿論ですよ! ……でも、何で急に伊達眼鏡なんて」
「知的な感じを演出しようかな、と思って」

 至極真面目な顔と、彼らしいと言えばらしい答えに、思わず噴き出した。

「……巴ちゃーん?」
「ご、ごめんなさい。――でも、どれも本当に似合いますよ。かっこいいです」
「そ、そう?」

 途端に照れ臭そうに頬を掻く彼に、今度は愛しさで胸がいっぱいになる。

「――私も、眼鏡買おうかな」
「え、本当? 見たい見たい」

 興味を示した華佗さんに笑いかけて、今彼が掛けている色違いを手にとってみる。

「お揃いにしたいので、二人とも似合うものを考えてください」

 予想通りの彼の反応を、眼鏡を掛ける度に思い出すのだろう。

三国恋戦記 魁 編集

『冬』 #華佗
エンド後のお話です。魁四周年記念の際に書いたものの一つです。




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「華佗さんは何の季節が一番好きですか?」

 彼女を迎えに行った帰り道。制服姿の彼女が振り返る。再開したときより少し長くなっていた髪を肩口に切り揃えていたものだから、ふと出会った頃のことを思い出した。

「巴ちゃんは、いつが好きなの?」
「……私が訊いたんですけど」

 質問に質問を返せば、彼女が唇を尖らせる。ごめんごめん、と返せば華陀さんてそういうとこありますよね、と拗ねてしまった。

「あー、……ごめんってば」
「別にいいですよ」
「いやいやいや……。全然怒ってるよね」
「怒ってなんかないですよ」

 と返す言葉が刺々しい。こうして気軽に怒ったり拗ねたり――。もう隠し事のない身になったからだろうか。巴ちゃんはあの世界にいたときよりも気持ちをまっすぐにぶつけてきてくれるようになった。
 彼女と繋いでいた手に、少し力を込めて引き寄せる。足取りが崩れて立ち止まったところで向き直り、彼女の手を胸元で再度握りしめた。

「巴ちゃん」

 彼女がおずおずと目線をあげる。少し困ったような、身構えるようなその表情。

「ごめんね?」
「……だから怒ってないですってば」

 謝れば、少し頬を染め困る巴ちゃんの表情が、とても好きだと思う。

「実を言うとさ」

 僕の言葉に合わせて、伏目がちだった彼女の目線が上がる。

「季節って、あまり意識したことなくって」

 気候を気にせず暮らせるような遠い遠い未来から来た僕にとって、季節はとりたて意識するようなものではなかった。そうなんですか、と驚いた顔をした彼女が小さく呟く。

「あそこに居たときもさ、ああ面倒くさいなあなんてぐらいで。だってさ、暑かったり寒かったり、大変でしょ」

 好きとか、そんなの考えたことなかったんだよね。
 その言葉に、巴ちゃんがほんの少し寂しげな顔をして頷いた。ああこの話はここで終わりではなくて。

「だからさ。一人でずっと巴ちゃんを探しているときにね」

 握った手から伝わる彼女の温もりに、昔を思い出しながら自然と口元が緩む。

「巴ちゃんはこの世界で、花見でお団子食べたり、海に行ってスイカ食べたり、食欲の秋を堪能したり、冬には鍋をしたり」
「――何で食べることばっかりなんですか?」
「いやいや、大事ですよ?」

 不満げに唇を突き出す彼女の頬をつつく。

「食べることは生きることだからね」
「……」 
「まあ、君が食いしん坊であることは事実として――」
「何でですか!」

 抗議の声に笑い声を返せば、繋いでいた手に力を込められた。どうしたの、と聞こうとして言葉を失う。

「それ、全部一緒にやりましょうね」
「……うん」

 涙ぐんで言うようなことかな。
 君は昔からそう。優しくて、優し過ぎて、言葉にしないものまで汲み取って。
 一人、革靴片手に君のことを想っていた僕の時間を、暖かなものに変えてしまう。

「そうだね」

 彼女と、自分の目尻にも滲んでしまったものを拭って、笑い合って。どちらからともなく歩き出す。
 君の好きな季節を共に過ごして、二人の好きな季節を探していこう。

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『夏』 #奉先
エンド後のお話です。
魁四周年記念で書いたお話の一つです。




****************


 雨上がり。草の湿った匂いが辺りに満ちている。それらは陽が落ち、冷え始めた空気には心地良い。
 邪魔する雨粒がなくなったことで、そろそろと夜に活動する虫たちが声を張り始めた。細く高く、見上げる空に吸い込まれていくようだと思う。
 虫の音が季節を感じるのだと教えてくれたのは巴だ。
今は、空に光る星の名前をとつとつと語っている。

「多分、あれが大三角形かなあ」
「へえ」

 星に詳しいわけではないが、巴の言う“星の名前”は聞いたことのない変なものばかりだった。
 空に動物を見ることは同じだが、天帝はおろか人がいない。たまにいたかと思えば、それは神だという。あまり詳しいわけではないけれど、と前置きして話し出したのは、巴にとっても異国の神々の物語だった。
 寝る前に一つ、二つ。最近はそれらを聴いている。

「他にもあったと思うけど、私が覚えてるのはそれくらいかな」

 星読みなどという高等なことは出来ないが、生きていくには欠かせないのが星空だ。中でも天高く濃い空に浮かぶ一点。どこに向かうにも必要な目印。巴の国では『北極星』と呼ぶそれは、名前こそは違えど、標となる星は同じだとわかって少し嬉しかった。

「でもやっぱり、ちょっと違う気がするな」
「そりゃ洛陽からかなり離れたんだ。星の位置も変わるさ」

 リーン、と一際大きく虫が鳴いた。その音に巴の声が重なり、よく聞こえなかった。

「ん?」
「洛陽じゃないよって言ったの」

 いつもと少しばかり違う揺れた声音に、巴の方に向き直る。彼女は天を仰いだままだ。
 洛陽ではない。もちろん、長安でもないはずだ。躊躇いつつも、口を開く。

「……お前の国って、どれだけ遠いんだ?」
「――どのくらい、なんだろう」

 巴が天に向かって手を伸ばす。

「……今光ってる星が、消えるくらい遠く、かもしれない」
「……どういう意味だ?」

 難しくてわからん、と零せば笑い声で返ってきた。

「私も難しくてわかんないな」

 もう寝よう、と巴もこちらへ向き直る。いつも通りの、笑顔。
 敷布にさらりと音を立てて流れた彼女の髪に、手を伸ばした。
 指先に触れる柔らかな髪の感触に後押しされながら、いつも喉元まで出かけていた言葉を押し出す。

「……お前の故郷って、どんなところなんだ?」

 目が、合う。その顔からは何の感情も読み取れない。

「――どうしたの?」

 笑おうとしたのだろうか。失敗したようで、目元が歪んだ巴の頬を手の甲で撫でる。

「お前が嫌じゃなければ、聴きたい」

 彼女の故郷のことなど、以前は気にも留めなかったというのに。いや、違う。ただ聞くのが怖かったのだ。故郷が恋しくなれば、巴は帰ってしまう気がして――。
 しかし、こうして二人で話せば話すほど、巴の考え見ているものの違いは何なのか、彼女の生まれ育った場所のことを知りたくなった。
 今だって、彼女がいなくなる不安がなくなったわけではない。けれど、俺を置いていなくなるとも思えない。何より、巴のことをもっと知りたい欲の方が優った。

「――うん」

 月明かりの乏しい今日、俯き翳った巴の顔はよく見えない。けれど泣いているような気がして、すまん、と理由もわからず謝った。
 首筋に、巴の額が押し付けられる。じわりと伝わる熱を感じながら後頭部を、出来るだけ優しく撫でる。
 違うよ、嬉しいんだよ。虫の音にかき消されそうなほど小さな巴の声が、直接震えて届いた。

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『いつもと違う午後をあなたと』 #本初
エアスケブの本×巴の「学パロで両片思い」というリクエストを元に書きました。クッキーの話気に入って頂けてたので、勝手に続きで(また半端に終わりましたが)




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 熱を含み始めた風が、ふわりとカーテンをなびかせた。夏の始まりを感じさせる心地良いはずのそれが、今はひどく疎ましい。一呼吸ついて、止まっていた手を動かす。茶葉の量は――いつもと違い、二人分。
『本初と食べてくれない?』
 そんなことを言い残し去っていった先輩達の笑顔を思い出し、ため息をつく。お茶請けに、という軽い気持ちで焼いてきたクッキー。どこか不自然なぐらいの様子で帰ってしまった三人が、心変わりで戻ってきてくれないだろうかと願う。
「……もっと、ちゃんとしたの作れば良かった」
 後悔しても、今できることは丁寧に並べる程度。再びため息が漏れたが、廊下の足音に背筋が伸びた。
「すまない。待たせた」
「い、いえ! お疲れ様です……」
 振り返れば、珍しく慌てた様子の本初先輩。――そんなに急がなくても良かったのに。気遣いに胸を熱くしていると、先輩は私の手元を見て眉根を寄せた。
「何だ、茶なら私が――」
 断る間もなく、本初先輩が隣に立ってしまう。ほのかに香った甘い匂いに思わず俯き、意識を逸らそうと必死で耳を澄ませる。けれども、陶器が軽く立てる音も、窓から届く放課後特有の部活動の音も、二人きりである事実をより強調する気がして、手に汗が滲む。しばらくそのままじっとしていると、風がまた部屋の中を通り抜け、香りが薄らいだ。ほっと息を吐き、気がつけば目が柔らかく光を反射するブレザーを辿る。そして亜麻色の髪を捉えた矢先、目が、合った。
 息を忘れるほどの長い一瞬を、電気ケトルの蒸気が動かす。「クッキー、出しますね」と動揺を誤魔化せば、相槌の柔らかさに涙が滲みそうになって自覚する。私、どうしようもなくこの人が好きなんだ。
 涙を堪えて振り返り、すでに並べたクッキーと、目が合ったことの意味を考えて頭を抱えるまであと――。

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『知らぬは君だけ』 #本初 #孟卓 #公路 #孟徳
魁の本初ルートの面々を集めた『ティータイムは生徒会室で』https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=...という本を出しており、その設定を使った小話ですwebオンリーイベントで公開していました。




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「クッキーを焼いてみたんです」
 柔らかな日差しが差し込み、少しだけ開けた窓から入った風が、ふわりとカーテンを揺らす。
 そんな穏やかな、ティータイムに相応しい心地良い午後の空気は、私が軽い気持ちで発した言葉で崩れてしまった。
 その場にいた孟徳先輩、孟卓先輩、そして同学年の公路くんが、一斉にこちらを見たからだ。思わず、後ずさる。
「……あ、あの?」
「――それはさあ」
 無表情のまま椅子に大きく背を預けた孟徳先輩が、頭の後ろで組んでいた手を解きながら口を開いた。
「調理実習とかで?」
 横でファイル整理をしている孟卓先輩が、代わりに続ける。
「い、いえ……」
 自宅で、彼らに振る舞うために作ったものだ。……これはもしかして、品質を疑われているのだろうか。
 生徒会に入ってから、最初は驚いたお茶の時間にも慣れてきた。お菓子は大抵持ち寄りで、ある日もあればない日もある。昨日は日曜日で、何だか久々にお菓子作りをしたい気持ちになった。ただ、それだけのことだったのだけれど――。
 途端に居た堪れない気持ちになりながら、無言のままの公路くんに視線を移す。すると彼は、眉間の皺をいつもより更に深くさせているではないか。
「……すみません、いらなかったで――」
「あーいやいや、違うんだ巴ちゃん」
 孟徳先輩が明るい声とともに両手をぱっと広げる。にこりと笑ったその顔に、肩の力がほんの少し抜けた。
「俺たちさ、実はさっきお菓子を食べたばっかりで」
「そうそう。公路はダイエット中だし」
「なっ――!」
「……そうだったの?公路くん」
 それは申し訳ないことをした、と彼を見れば、眉を吊り上げ怒っているような表情。
「そんなわ――」
「っていうことでさ」
 孟卓先輩は、公路くんの両肩を後ろからぐいっと押しやりながら笑う。
「それ、本初と食べてくれない?」


   ◇ ◇ ◇


「勝手に! 人をダイエット中にしないでもらえますか!」
 半ば無理やり、一緒に部屋を出るなり公路が叫ぶ。しかしそれは部屋の中の彼女には聞こえないよう、声量は抑えたものだ。
 『用事を思い出した』と慌てて帰る俺らに、巴ちゃんは困惑の表情を浮かべていたが――。まあ、本初がすぐに駆けつけるのだから、問題ないだろう。横で孟徳がスマホを片手に、「返事はやっ」と笑った。
「だってお前、巴ちゃんを傷つけたいわけ?」
「だからって、僕を理由に使う必要はないですよね⁉︎」
「ないな」
「まあ、ないよな」
 孟徳と二人、仕方ないだろう、と笑えば公路は鼻白む。彼だってわかっているのだ。
「あの場に本初がいなくて良かったな」
「まったくだ」
「……あなた達、兄上を何だと」
「へえ。じゃあお前巴ちゃんのクッキー、食べられたわけ?」
「……」
 無言は何よりもの肯定だ。
「あー、何か甘い物食いたいな。公路、奢ってやるから付き合えよ」
「私は結構で――」
「あ、駅前に出来たカフェ、蜂蜜製品が売りらしいぞ」
「…………仕方ないですね。付き合ってあげますよ」
「よし、じゃあ決まり」
 渋々と、けれど眉根の緩んだ正直な彼の肩から手を離す。

 まあ、きっと。これから本初が味わうほどのものには、ありつけないのだろうが。

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『はつこい』 #本初
エアスケブでリクエスト頂きました『本巴の両片思い』のお話です。



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 何気ない日常が、急激に色付いた。
 


「過ごしやすい季節になってきたな」
「そう、ですね」

 隣にいる本初様の気配に、そわそわと視線を道ばたに逸らす。
 端に植えられた木々は色が抜け落ち、黄色や赤に周囲を飾り立て始めている。
 そんな季節の変わり目の、戦場から屋敷へ戻ったある日のこと。暇を持て余した私を見兼ねてか、本初様が散歩に行かないかと誘ってくれた。戦場とは違い、緩やかな空気の流れる街の中を歩くのは楽しい。食べ物や日用品を売る店も、行き交う人も、私の心も和ませてくれるものだ。
 だというのに。
 私は、今までになく緊張していた。

「……疲れたか?」
「い、いえ。そういうわけでは」
「――そうか?」

 ちっとも納得のいっていない本初様が、足を止め私の顔を覗き込む。――お願いだからあまり近寄らないで欲しい。

「あの、そのっ!」
「ん?」

 見慣れた、と言っても過言ではないほど長く共にいる本初様の顔を、最近はまともに見られない。ましてやこの至近距離は――。

「っ、甘味でも食べませんか!」
「何だ、腹が空いておったのか」

 ……もう、そういうことでいいです。
 勘違いの内容に恥ずかしさを覚えながらも、やっと離れた距離にそっと胸を撫で下ろす。どくどくと早く脈打つ心臓は、まるで自分のものではないようだ。

「となると、引き返すか――」
「あ、すみません」
「いや、よい」

 何かもっと他の口実にすれば良かったと顔を上げれば、目を細めて笑う本初様と目が合った。

「巴と過ごす時間が増えた」

 そして、当たり前のように差し出される手。
 激しく鳴っていた心臓が、今度は止まったように静かになって――。

「……はい」

 そっと、彼の手を取った。
 それから先は無言で、どちらからともなく歩き出す。一歩、二歩。手を繋いでいても、歩きにくさは微塵も感じない。本初様が合わせてくれているからだろう。
 前にも、こうして手を繋いだことはあったけれど、そのときとは明らかに違う彼への気持ち。戸惑ってばかりの日々から、ほんの少しだけ冷静に今の状況を思う。
 好きな人と、手を繋いでいる。
 見上げれば、すぐに気がついて笑いかけてくれる。
 少しためらってから、指先を滑らせ、より深く手を繋ぎ直してみる。そうすれば、彼の方からも当たり前のように握り返された。

 ――もう、夫婦なのに。

 いつの間にかそういうことになっていて、形ばかりで、ちっとも中身が伴っていないから。たった、これだけのことですら幸せに満ちていて、私は泣いてしまいそうだった。

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『この温もりをいつまでも』 #本初
#三国恋戦記・今日は何の日 「恋人たちの日」
エンド後のお話です。




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 気がついたら、隣にいること以外考えられなかった。
 


 こちらの世界でも年の瀬が近づくと、人々はどこか忙しない。店頭に並ぶ商品の数も質も、いつもと少し違う。市場を飛び交う声も、賑やかになる。
 基本買い物は女中の仕事なのだけれど、好きだからとお願いして変わってもらうことも多く、すっかり私の仕事の一つになっていた。何より、〝奥方自ら買い出しに向かう〟ことで守れることがある。少しずつ人が減っていく屋敷に、力を持つ人々は興味を示さないものだ。
 少し重くなってきた袋を持ち直しながら、屋敷に戻ろうと踵を返す。それにしても今日は人が多い。特に男女で連れ添う人が多いような気がする。

 ――イルミネーションでもあれば完璧かも。

 煌びやかな電飾の中寄り添う恋人たち。街中には季節限定の音楽が流れて、寒いのにどこか浮き足立つ心。故郷でよく見た光景そのもの、だ。
 久しく思い出した故郷について耽っていると、すっと首元を通り抜けた冷たい風に反射的に体が震えた。これはいけないと襟元をかき寄せ、小走りに屋敷へと向かった。
 
 
「寒かっただろう」

 出迎えた女中に荷物を渡し、お茶の用意をしますねと笑いかけられるや否や、奥から本初様が顔を出した。心配そうなその顔に、私の帰りを今かと今かと待ちわびていたのだろうと容易に想像がつき、顔を綻ばせた。

「少しだけ。でも、良いお天気でしたから」

 日向ぼっこにはちょうどいいかもしれませんね、と言えば何を呑気なと口を尖らせるものだから、くすくすと笑い声を立ててしまった。

「何がおかしいのだ」
「だって」

 本初様は話しながら、手にしていた大判のストールのようなものを肩にゆるりと巻く。ふわりと漂う金木犀の香りに、いつどんな時でも落ち着くこの匂いが好きだと思った。

「まあまあ。いつまでも仲睦まじい恋人のようで」

 ここも寒いですから、早くお部屋に。荷物を渡した女中はそう言い残すと、一礼してから台所へと向かった。

「それもそうだな。巴――どうかしたのか?」
「え、あ。……いえ」

 恋人。
 そう呼ばれるのは、どこか違和感があった。
 何故そう思ってしまうのだろうと、じっと少し上にある彼の顔を見つめれば、不思議そうに目を瞬かせている。長い睫毛が揺れて、その間から覗く翠色の瞳には、私が映っていた。
 ふと、先ほど思い出した故郷のあの空間に、二人で散策する姿が浮かぶ。そして、私のイメージする恋人像などその程度のものしかないことに思い至り――そもそも本初様と〝恋人〟という期間がなかったことに、今更気がついた。
 今更。本当に、今更なのだけれど。
 そして行き着いた思考に、自然と口元が緩む。

「……巴?」
「今日のお茶は、何にしましょうか」

 私より暖かな手にそっと触れる。当たり前のように握り返されたそれに、冷えも忘れてしまう。

「今日は私が淹れよう」

 それは楽しみです、と心からの言葉を返し、共に部屋へと向かう。
 
 〝恋人〟だろうが、〝夫婦〟だろうが、こうしてこの人の隣にいられれば。それに付随する名前など些細なことでしかないのだ。

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『芳しきは』 #本初
色っぽい話を目指しました。エンド後のお話です。




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 息を潜めて、大きく鳴り響く心臓を隠すように腕を抱え込んで。背中に触れる熱を必死に無視して、固く目を閉じる。でもそうすると、私の頭を撫でる時に付随する衣擦れの音と、彼の吐息がより大きく聞こえてしまう。

「――やはり、眠れぬか?」

 心配そうな声が、直接頭に響いて届く。それくらい、彼が近くにいるという事実に目眩がしそうになりながら、小さく頭を振った。

「今、眠れておらぬではないか」

 本初様が、息を漏らすように笑った。たった、それだけで。ただでさえ苦しい胸がぎゅっと締め付けられる。


 
 連日の暑さのせいなのか、寝付きが悪くなった。何気なく漏らしたその言葉に、では寝かしつけてやろうと言われたのが今日の昼間。勿論断ったけれど、「寝所を元に戻すだけだろう」と言われてしまえば断る理由もない。それに、少しでも長くいられるのは嬉しい――。昼間は、そんな呑気なことを考えていたのだ。
 そして今。やはり大丈夫だと断るべきだった、と小さく丸まりながら、ひたすら後悔をしていた。
 どう考えても、眠れるわけが無い。
 以前一緒に寝ていたときとは、状況が違うのだ。あの時よりも、もっと、ずっと。私の本初様に対する気持ちは、あまりにも大きく変わってしまった。

「あの――」

 せめて、この体勢だけでもどうにかならないだろうか。うっすらと目を開けて、自分の背中の方へと視線を向ける。夏用の薄い夜着越しに、本初様の腕と掌の熱がしっかりと伝わってくる。私は今、本初様に抱き抱えられる形で横たわっていた。
 頭を撫でるだけなら、わざわざ抱きしめなくてもよいと思うのだけれど。それをどう伝えるべきか考えを巡らせるが、肝心の言葉は出てこない。

「ん?」

 声が、近い。本初様から伝わる熱だけでなく、この声も思考を奪う要因になっていた。

「――う、腕、痛くないですか?」

 やっとの思いで出た言葉。私を抱き寄せている腕は、脇腹の下を通っている。つまり本初様の腕を下敷きにしているわけだが――。重く無いだろうか、と気が気ではない。

「心配せずともよい」

 そう言われても、痺れてしまうのではないかなと身じろぎする。すると、背中に触れる本初様の手が擦れるものだから、ぐっと息が詰まった。

「それに、こうしている方が心地良い」
「……」

 幸せそうに言われた言葉に、痛いほどの幸福が胸に満ちる。熱が、耳の端まで侵食していく。
 今の状況はこの上なく恥ずかしい。でも、好きな人からそう言われて嬉しくないはずもなく。この溢れる気持ちをどこに置いたらいいのかわからなくて、再度小さく身を丸めれば、本初様の首元に額を擦り寄せるような格好になってしまった。
 途端、濃くなる香り。
 どくどくと煩い自分の鼓動に耳を塞ぎたくなる。鼻腔に侵食する、知っているけれど知らないもの。甘い、人を惹き寄せる花の香りとはまた違う。熱を孕んだ、胸を揺さぶる匂い。

 ――本初様自身の、匂い。

 平静でいられない一番の理由は、この香りのせいだ。
 いつもの、金木犀の香りだったら、もっと普通に話すことだってできるのに。きっと、本初様の願い通り眠ることだって出来るのに。
 本初様の指が、淀みなく一定のリズムで私の頭を撫でる。
 そして、その指先からも、背中に触れる掌からも。額に触れる彼の熱い首筋から流れる脈も、どこにも乱れたものはない。
 私だけが心疚しく掻き乱され、触れる手の心地よさにも、身を委ねて眠ることができない。
 今、触れられている以上を望んでしまう。

 これ以上どうにかならないように、息を潜めて。この気持ちが漏れぬように身を抱えて。けれども、本初様がそこにいることを確かめたくて、額だけはより深い場所へと潜り込ませる。
 少しだけ乱れた相手の呼吸に、思わず愉悦が滲んでしまったのを自覚して、どうしようもなく泣きたくなってしまった。
 幸せなのに、苦しい。

三国恋戦記 魁 編集

『春』 #本初
ハッピーエンド後の本初×巴です。魁四周年記念で書いた話の一つです。




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 朝の冷たい空気が、弾かれた弓弦に呼応して唸りを立てる。
 続いて的に当たる高い音。
 それを見つめ、目を閉じて。そして、こちらの視線を感じ取ったのか、彼女が振り返った。

「本初様」

 驚いた彼女の顔と声が愛らしくて、思わず頬が緩んだ。

「精が出るな」
「……はい」

 何か言いたそうにしながら近寄ろうとする彼女を制して、庭へと足を踏み出す。ざり、と小石が靴の底で擦れる感触。歩きながら大きく息を吸い込めば、今日は違和感なく冷たい空気が肺に満ち足りた。
 頭上には、細くたなびいた雲が朝陽を受け、その身を淡い紫色に染めている。ふと、どこかで鳥の鳴く声がした。
 春先の、胸がすくような朝だ。

「弓の鍛錬が終わったら、少し出かけるか」
「……大丈夫ですか?」

 彼女の元まで辿り着けば、心配そうに見上げられた。その瞳の奥が不安そうに揺れることが申し訳なく、でも自分の中の何かが満たされてしまうことに気がついたのはいつ頃だったろうか。自嘲して笑えば、彼女がつられるように相好を崩した。

「顔色が良いですね」

 暖かくなってきましたものね、と目を細める巴の頭を撫でた。柔らかな髪が心地よく、指の間をすり抜ける。

「ああ。だからたまには庭以外の散策にも付き合ってくれ」
「はい」

 返事をするなり弓を片付けようとする巴に、慌てて声をかける。

「よい。まだ終わっておらぬだろう」
「でも」
「お前が弓を放つところを見るのも好きなのだ」

 彼女が弓を引く姿は、早朝の張り詰めた空気と、春独特の柔らかな陽光によく似合う。
 本来なら殺生の道具だが、巴が手にすると全く別物のようだ。と思ったところで、それは当たり前かと一人納得する。
 彼女の弓がなければ、己は今こうして生きていなかったのだろうから――。
 巴は少し恥じらうように目線を逸らし、「では」と弓を持ち直した。

「あと十本だけにします」
「よいのか?」

 もう少し遠くから眺めるべきだったかと後悔していると、彼女がこちらを見上げた。

「本初様と早くお出かけしたいので……」

 あまりにもささやかな願いに、今度はこちらが目を見開く番だった。

「……そなたがわがままとは珍しいな」
「わ、わがままでしょうか?」

 焦り出した彼女の頬を笑って撫でた。

「いや、すまぬ。そなたのは違うな。わがままを言っているのは私か」
「そんなこと――」
「では、私のわがままを叶えてから、妻のわがままも聞くとしよう」

 敢えて揃えてそう言えば、彼女は不服そうに眉根を寄せ、「本初様のはわがままじゃないです」と呟く。以前なら見せなかったその表情と声音に、最初は形ばかりの夫婦も、長く寄り添うことで本物になれたような気がして。

「巴」

 溢れ出る愛しさを声に乗せて、名前を呼んだ。

三国恋戦記 魁 編集

『七夕』 #本初
初めて書いた本初様でした。




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「七夕」

「本初様、お庭の竹を一本頂いてもいいですか?」
「構わぬが……。何に使うのだ?」
 書くものなら足りているぞ、と首を傾げられ、思わず笑いをこぼす。どうやら竹簡にするものと勘違いされたらしい。
 七夕について説明すると、風流なものだと本初様が顔を綻ばせた。
「どれ、私が切ってやろう」
「え、いいですよ!私がやりますから」
「……まだ伏せっている日があるとはいえ、女子のお前よりは力はあるぞ」
「そ、れは。……そうかもしれませんが」
 それを実感したときのことが脳裏に蘇り、思わず視線を逸らしてしまった。けれどそんな私に気づくことなく、本初様が立ち上がる。
「確か東の庭に大きいものが」
「あ、あの、立てかけないといけないので、小さめの方が。あと、誰かにお願いしますから──」
「……お前の望みを叶えたいという、私の願いは叶わせてくれぬのか」
 そんな目で、声で。言われて誰が断れるのだろうか。
「……お願い、します」
 根負けした私の言葉に、本初様が目を細めて、至極嬉しそうに笑うものだから。短冊に書く前に願い事が叶ってしまって、何を書こうと困って空を見上げた。

三国恋戦記 魁 編集

『罪』 #仲穎
#三国恋戦記・今日は何の日
『お正月』
ルート途中での、仲巴のお正月(らしさはあまり)。




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 吐く息が白いのは、肺から凍っているからなのかもしれない。
 そんなくだらないことを考えていないと、肌に刺さるような重苦しい沈黙に押しつぶされそうだった。
 仲穎様の後ろに控えるこの瞬間は、針のむしろという言葉がぴったりだと思う。目線をあげることもできないまま、固く唇を引きむすび、震えそうになる手に力を入れることで何とかやり過ごす。
 身じろいだ際にちらりと見えた、知っている赤い髪につられて焦点を合わせ――そして後悔した。彼の顔は以前見かけた時とは全然違う、苦々しいものだったから。
 でも。
 この中にいる誰よりも、私の気持ちに近いような気もして、ほんの少しだけ呼吸がましになる。

「すべては、帝のために」

 けれども、低く、低く底を震わすような声に、あっという間に喉が狭まった。この世界で誰よりも近しいはずの人の声なのに、この壇上で発するものはまだ恐怖に似たものを伴う。
 仲穎様の声を合図に、広間中に衣ずれの音が響き渡る。それぐらいしか音の出るものがないのだ。誰も彼も、息を潜めてこの瞬間を堪えている。震えそうになる手をしっかと握りしめ、恐る恐る目線をあげる。赤い盃を皆が頭上に掲げたその光景は、ある意味圧巻だった。
 今日は新年。新しい年を祝う日。
 広間に集った人々の装いも、目の前に立つ仲穎様の衣も、晴れ着であることが知識のない私にもすぐわかる。
 ただ、『ハレの日』とはとても言い難い雰囲気が重く重くのしかかり、目線をあげることもままならない。
 本来ならば宴会が開かれるらしいのだが、「祝盃のみで終わらせる」とどこか満足そうにこぼした仲穎様の顔を思い出す。敢えて何もしないことが、彼にとっては大事なのだろう。
 唐突に、仲穎様の手がすっと下がり、お酒が注がれた盃が卓の上に戻された。
 一瞬の、声のないどよめき。
 掲げた手とは違い、まばらに下がる手。ことことりと、卓の上に戻される盃。帝のために、と掲げたものをそのまま下ろす意味は、私にはわからない。それでも、いつもと同じように壇上の隅に立ちこの一連の行為に参加しなくてもよい立場を、心の底から良かったと思ってしまった。――きっと、これはとても酷いことだ。

「戻るぞ」
「……」

 立ち上がり踵を返すなり、私だけにかけられた声。え、と思わずもれそうになった声をこらえて、道を開けるために更に後へ下がる。仲穎様が通り抜け、その後についていくために皆に背を向けた瞬間、やっと満足に息をつけた。
 


 
「貂蝉。茶を」

 自室に戻るなり、〝いつも〟の柔らかな声音に戻った彼に、緊張が解けた反動で目尻に涙が滲みそうになる。
 けれども、「はい」と応えた私の声が思った以上に弾んでいて、涙が緊張のせいだけではないことを悟ってしまった。
 私は、嬉しいのだ。今しがたの行為が何を意味するのかわからないと目を逸らしながら、仲穎様のそばでこうして過ごせることを、何よりも愛しく思っている。仲穎様が、他の人にとってどんな存在であろうとも。皆の無言の圧力と、腹の底から冷え切るような悪意を感じても。あの冷たく暗い声が怖くても。

「――どうかしたか」

 湯を沸かす手が止まった私を訝しんだ仲穎様が、わずかな心配を滲ませて声をかける。

「いえ」

 彼の罪を知りながら、それでも胸が弾むほどの喜びを覚える私の浅ましさにがっかりする。

「寒さで手がかじかんでいるみたいで」

 それでも、嘘を織り交ぜたとしても、あなたのそばで笑う私を選んでしまう。

三国恋戦記 魁 編集

『秋』 #仲穎
エンド後のお話。魁四周年記念で書いた作品の一つでした。




****************


 まるで昼間かと見紛うほどの月明かりに、思わず目を細めた。
 そこに涼しい、というには頃合いの過ぎた冷たい風が吹きすさぶ。
 隣を見れば、寒そうに貂蝉が身を震わせていたものだから、思わず笑いが零れた。

「だから言ったであろう」

 風邪を引かせぬ内に戻ろうと背を押すと、もう少しだけ、と彼女は小さく呟いた。
 山間から昇った月を外で見たいと、二人揃って出てきたところだ。
 陽はすっかり暮れているから、私達以外に人影はない。転々と一定の感覚で離れて立つ庵からは灯りと、風に乗って笑い声が漏れ聞こえてくる。

「満月だからなのか、月が近く感じますね」
「そうだな……」

 声だけは穏やかに相槌を返しながらも、組んだ腕に軽く指を食い込ませた。

 ――明るい場所は落ち着かない。

 昼間はさることながら、夜でも眩しいほどの月明かりの元では、同じように心が掻き乱される。ある一点を境に記憶がないものだから、何故こうも明るいと息が詰まるのかはわからない。同様に人前に姿を現すのも、酷く億劫であった。
 貂蝉はそんな私を不審がることもなく、外の用事を率先して引き受ける。
 きっと、〝そうである〟理由を知っているのであろう。

「綺麗ですね」

 ねえ、仲穎様。
 月明かりですら辛いことを知らぬ貂蝉が、私の名前を嬉しそうに呼ぶ。振り向いたその瞳に入り込んだ月光は柔らかく、この世の何よりも美しいと思う。
 気づけば胸のざわめきは散り、力が抜けていた。辺りには、シンシンと鳴く虫たちの声が、高く低く心地よく響いている。

「……そうだな」

 月ではなく貂蝉に向けた言葉だったが、気づくはずもない。彼女はその返事を同意と捉えて一層目尻を下げる。そこに冷えた風が一際強く吹き、周囲のすすきを大きく揺らした。
 やはり寒そうに肩をすくめた貂蝉に、己の肩掛けを掛けてやる。彼女は驚き、首を振り拒否した。

「風邪を引いてしまいますよ」

 その言葉に、僅かな苛立ちを自覚する。
 どうしてこう、己より私のことばかり心配するのだろうか。
 眉を顰めながら、手を伸ばし彼女の頬を挟む。彼女の美しい瞳が驚いたように見開かれた。――何故。彼女の瞳を覗き込むと、深い安堵が広がる。

「そなたの方が冷えているぞ」

 指先から伝わる冷たさを咎めるように口にすれば、貂蝉の瞳が揺れ、明らかな動揺が走った。少し強く言い過ぎたか、と躊躇っていると、彼女の目尻に涙が浮かんだ。

「……どうした」

 悲しいとも違う、怯えですらない。彼女の涙と表情の意味を測りかねて、屈んで目線を合わせる。ゆっくりと頬を撫でれば、とうとう濡れた眼を閉じて、唇を震わせた。
 時折、こうして言葉を失うことがある。泣きそうであったり、今のように涙を溢すこともある。私の知らない、過ぐる日のことを思い出しているのであろう。
 そして、彼女は決してそれについて口にはしない。
 ゆっくりと再び瞳を開けたときには、いつもの貂蝉だった。

「……何でもないんです」

 小さく呟くと、貂蝉の冷えた指先が私の頬を包み込んだ。

「――仲穎様にこうされるの、とても好きです」
「……そうか」

 触れてはならぬものがある。
 こんなに近くにいても、体温を分け合っていても。どんなに心を通わせても。〝それ〟に行き着いてしまえば、終わってしまう。否、終えねばならない。そんな気がする。

「私もだ」

 暴かぬことで彼女が幸せになるのであれば、それで良い。一際甲高く鳴った虫の声が、まるで咎めるように響き渡った。

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『落日』 #伯巴
 
三国恋戦記魁五周年の企画で書いたものです。
伯符バッドエンド。魁はバッドありきなのでこれでも祝ってます。オンリーイベント前で時間がなく、1人ワンドロでした。




****************


 息を吐けば、即座に凍りそうなほどの冷え込みに、首元の黒い羽の外套を寄せ集める。辺りはまだ暗く、僅かな星灯りが頼りだ。けれど周囲は静かに熱気に包まれていた。戦場とは、なんとも忙しい場所だと思う。目の前で鼻息を鳴らす彼の愛馬に手を伸ばせば、すりすりと鼻筋を押し付けられ、自然と口元が緩んだ。
「あなたは、平気なの?」
 小さく抑えた声を受けて、黒いビー玉のような目がひたと私を捉える。この冷え込みについて訊いたつもりだったが、彼はどうも違う風に取ったらしかった。
「……平気なわけないわよね」
 両手を伸ばし、馬の輪郭を指先で辿る。外気にさらされた毛は、冷たいが滑らかだ。目を閉じれば、その感触に力が抜けた。唯一、心が安らぐ瞬間。
 どういうわけだか、皆が私を『伯符』と呼ぶようになってから半年が経った。罰だと思った。実際にそうなのだろう。彼のいない傷を埋めることなく、彼自身になるというのはこれ以上になく罰として適切だと思えたからだ。
 しかし、彼の愛馬だけは違った。急に『主人』を拒否する馬を、周囲は訝しんだ。――この馬は、『彼』を覚えているのだ。胸の奥から熱いものが込み上げ、蓋をしていた感情が一気に溢れた。家臣達は、『愛しい人』を亡くした傷がまだ癒えないのだと、そっとしておいてくれた。私の涙に何かを感じ取ったのか、彼は急に寄り添うように大人しくなった。黒い濡れた瞳は静かだけれど雄弁で、話せば声が聞こえるような気さえした。
「もうすぐね」
 戦が始まる。色々なことがままならなくて、遅れに遅れを取ってしまった。かつては彼と共に向かったこともあるが、あれは戦でも何でもなかったのだと身に染みる。私一つの判断で、声で、人の命の行方が決まるのだ。
「伯符さんみたいに、できるかしら」
 誰にも届かないほど小さな声は、暗闇に紛れてくれるだろう。私が『伯符さん』と呼べるのは、もう彼の前だけだった。その言葉に応えるように、手に彼の鼻面が押し付けられる。湿ったそこは、氷のように冷たいのに温かい。
「伯符様」
 不意に後ろから話しかけられ、振り返る。
「用意が整いました」
「……日の出とともに出ます」
 拱手して下がる家臣の顔は、不安と、主人がやっと戦場に戻った喜びが混ざっていた。
 何だかおかしくなって、くすりと笑いをこぼせば、彼がぶるるっと鼻を鳴らした。その首筋をトントンと軽く叩くように撫でて、手綱を握りあぶみに足を掛ける。足の裏に力を入れ、ぐんと馬上へ跳び上がる瞬間が好きだ。それはかつて、何もわからず引き上げられたときの感覚を鮮明に浮かび上がらせるから。
 馬のいななきや、甲冑の擦れる音が静かに、けれど確実に増えていく。
 ――始まる。彼の、遂げられなかった道への一歩が、ようやく整った。
 馬上から見える遥か先の地平線に、細く赤い線が走ったかと思えば、滲むようにどんどん範囲を広げていく。もっとその上は群青色へと明度を上げていった。
 ――変なの。
 寒さで乾き切った唇を噛み締める。
 
 日が出るはずなのに、今から落ちていくみたい。 

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#伯巴

#三国恋戦記・今日は何の日
『バレンタイン』
三国恋戦記魁 伯符×巴(現パロ)
戦がなければ、日常の中にいる彼女ならば、こんな一面もあったかもしれないなという思いで書きました。多分続きます(書きたい……)。




****************


 消えてなくならないものがいいなんて



 息を吐けば、街灯の下で白く色づき、一瞬で消
えてしまう。
 バタンとドアが閉まる音に、目当てのバスが到
着していたことを知る。これで何度バスを逃した
のだろうかと頭の片隅で考えた。
 ──いい加減、帰らなければ。
 抱えていた鞄を持ち直し、立ち上がる。
 バスを待つより、駅まで歩いた方がマシな気がしたためだ。
「なんだ、今帰りか」
 背後からかけられた声に、頭の先からつま先まで緊張が走った。
 振り返りたくなくて、でも無視するわけにもいかないと、意を決して後ろを向く。
 予想通り、黒いマフラーを巻いた、伯符先輩がそこにいた。今朝見かけた姿と、まったく同じ――。その事実に、目を疑った。
「……お疲れ様です」
「ああ」
 先輩はちらりとバス停の時計を確認し、軽くため息をつく。
「出たばかりか」
「……はい」
「駅まで歩くのか?」
「……そうしょうかなと」
「じゃあ行くか」
 当然のように一緒に帰る流れに戸惑いつつも、別にこれが初めてではないし、と自分に言い聞かせる。
 これに特別な意味なんて、ない。
 先に歩き出してしまった彼の後ろを慌ててついて行きながら、冷え切った手を擦り合わせて間を埋める。

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『冬』 #伯巴

魁四周年で書いたものの一つです。エンド後のお話。




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「一晩で結構積もりましたね」

 ざくざくと足元の雪を踏みしめながら、巴が呟いた。
 冬は面倒だ。狩りにはどうしても不利だし、その年の収穫具合によっては我慢を強いられる。寒さも厳しく、色々と制限がかかる。
 空は鉛のように重い雲が陽の光を遮り、昼間だというのに暗い。そのせいで昨晩から振り続けた雪が溶けない。時折、どさりと雪の塊が屋根から落ちる以外は至って静かだ。

「転ぶなよ」

 こうして床から出られるようになったとはいえ、巴はまだ本調子ではない。弓の鍛錬の代わりの散歩も、今日は冷え込むから止めろというのに聞かず、こうして城内を二人歩いている。
 伯符さんって意外と心配性ですよね。そう言う彼女に誰のせいだと舌打ちを返せば、笑われた。以前と変わらぬ曇りのないその笑みに、俺がどれだけ安堵しているのか、彼女は知らない。知らなくて、良いと思う。

「そろそろ戻るか」
「まだ外に出たばかりですよ。雪だるま作りましょう」

 そう言うなり俺の手を掴んだ暖かなその手に、少しならばと許容する。

「で、ゆきだるまとは何だ?」
「雪で作る人形ですよ」

 俺の手を引く彼女はまるで子どものようだ。この冬の寒さも、彼女には大したことではないらしい。

「こうやって、こうして。段々大きくなりますよね」
「……ああ」

 誰もまだ踏み入れていない雪を掴み、巴が〝ゆきだるま〟の説明を始める。似たようなものなら、幼い頃に作ったことがある。彼女は俺にも同じ物を作るよう指示をした。
 雪に触れてみれば、意外と冷たさは感じない。ふと、遠くに暮らす弟や妹の所にも雪が降ったのだろうかと想いを馳せる。たとえ積もっていたとしても、もう雪遊びなどする年頃ではない。兄がこうして雪と戯れていることを知ったら何と言うだろうか。想像すると笑いを堪えきれなかった。

「……どうかしました?」
「いや、何でもない」

 目を瞬かせるが、気にしないことにしたのだろう。ギシギシと軋む音を立てながら、巴が雪玉を転がし始めた。器用なものでそこそこ整った玉をあっという間に作ってしまう。ああ、あいつらも手先が器用だったな――。
 弟妹が誇らしげに作った物を見せる様子を思い出し、懐かしさに目を細める。父も母も共に暮らしていたあの頃。まだ、冬が面倒だなどと思いもせず、こうして雪が積もれば、心躍らせていた幼き日。

「伯符さんの方は――」

 物思いにふけっていると、あっという間に膝下ほどの大きさの雪玉を作った巴がこちらを振り返り、目を丸くした。

「何だ」
「あ、いえ……」

 目を逸らし、口元を歪める。

「はっきり言っていいぞ」
「……意外と、その。――不器用なんです、ね」

 手元にあるのは歪な雪の〝塊〟。巴と同じものを作ったようには見えないだろう。

「まあな」

 堪えきれなくなった巴は、盛大に噴き出した。

「何だ、人の欠点がそんなに面白いか」
「だ、だって、そんな堂々と――」

 巴は肩を震わせ、しゃがみこむ。不器用云々はどうでもいいが、涙まで滲ませられては、さすがに面白くない。だから目の前にある巴の頬を摘んだ。

「そこまで笑うか」
「い、いひゃいですって――。……あ」

 伸ばされた頬を抑えた巴が、空を見上げた。その視線を追えば、風に流された雲が割れ、筋状になった白い光が降り注いでいた。周囲の雪も、届いた光によってきらきらと輝き始める。
 思わず漏れた感嘆の吐息は白く、鼻の頭は痛いほど。先ほどまで平気だった手は、いつの間にかかじかんでいた。
 けれど、その厳しさと共にある冬の美しさが、幼い頃は好きだったことを思い出した。いつの間にか、どこかに置いてきてしまったもの。
「――お前のお陰だな」
「……何の話ですか?」
 彼女がいなければ見えなかった世界。それをそのまま伝えるのは難しく、何でもないと耳元で囁いた。

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『恋は盲目』 #伯巴

伯符×巴
エンド後のお話。大分いちゃいちゃさせました。




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「……いつまで笑ってるんですか」

 不機嫌さを隠しもせず声音に乗せると、彼はそれすらもツボにはまったらしい。一際大きく肩を震わせた。

「あいつが言い負かされるところを初めて見たんだぞ」

 これが笑わずにいられるか、と震える声を出す彼に、肩を怒らせて抗議する。

「言いまかしてなんかいません!」

 悪夢を見なくなり、日常生活を以前と同じくらいに送れるようになっている。鈍っていた身体も、弓の鍛錬を再開することで少しずつましになってきているし、以前と遜色ないといえるほどの生活を送れるようになってきた。
 婚儀の話も進み城中の誰からも祝福される中、義母、義弟や義妹となる人にも会った。何もなかったとはいわないが、最終的には伯符と連れ添うことを認めてくれ、何もかもうまくいくだろう――。というわけにはいかなかった。
 伯符さんの親友である公瑾さんだけは、未だ婚儀をあげることに反対しているのだ。
 顔を合わせれば必ず新たな問題点を突きつけられ、できるだけ改善しようと努力をしている。けれど、ついさっき〝あまりにも〟なことを言われ、思わずカッとなって言い返してしまった……。
 あの時の公瑾さんの驚き丸くなった目を思い出しては、猛烈に反省しているというのに。二人の自室に帰っても、伯符さんに度々思いだし笑いをされては、後悔も倍に膨らんでいく。

「で、何を話していたんだ、あの時」

 目尻に涙を浮かべるほど笑っている彼だが、目撃したのは公瑾さんが目を見開き唖然としている姿のみだったらしい。
 ごく自然な動作で私の肩を抱き寄せながら問われ、思わず身体に力が入ってしまう。こうした接触は日常茶飯事なのだけれど、ちっとも慣れないし、それを面白がっている節が伯符さんにはある。それが不服で、顔を背けて答えた。

「……特にこれといっては」
「……」
「なんですか?」

 いつもなら揶揄ってくるところなのにと見上げれば、彼は奇妙な顔をしていた。眉根を寄せ、けれど怒っているとも違う。――見たことのない表情だ。

「……伯符さん?」
「……ふむ」

 何か一人納得したらしい彼が、おもむろに大きな手を私の頬に伸ばした。思わずぴくりと身体が揺れる。
 じわりと伝わる伯符さんの体温よりも、自分の方が熱くなっていくのがわかる。それを知られたくなくて身を引こうとするけれど、肩に回されたままの手のせいで叶わない。

「あ、の」
「……存外」

 低い、不満そうな声が落ちる。

「面白くないものだな」
「……?」

 頬に触れられているせいで、首を傾げることもできない。何のことかと聞こうとした時、伯符さんの顔が近づき、唇を軽く合わせられた。
 まさかそうくるとは思わず、一瞬呆けてしまった。ゆっくりと離れていく所で何が起きたのかを理解し距離を空けようとしたところで、再度力強く引き寄せられた。
 今度は、先ほどよりも深く口付けられる。そして、下唇を軽く食まれた。

「っ!」

 条件反射で強張った身体が気に食わないとでも言うように、伯符さんの舌が口内に侵入してくる。あっという間に舌を絡め取られて、背筋にぞくりと震えが走る。思わずきつく目を閉じると同時に声が漏れた。

「っ、ふっ」

 頬に触れていた彼の手がいつの間にか後頭部に回っていて逃げられない。顔の向きすら彼の好きなようにされて、息をするのも忘れてしまう。
 けれど、合わさった場所から鳴った水音に、思わず渾身の力で彼の胸を押した。そこでやっと解放する気になったらしい。反射的に大きく息を吸うと、後頭部を抑えていた手が離れ、代わりに私の髪をかき上げた。

「本当に慣れないな、お前は」
「っ、……急にするからですよ」

 笑いを含んだ声音に、恥ずかしさのあまり俯いた。
 未だ背に回された手からは、こちらを離す気がないのが伝わってくる。
 この早鐘のように打つ心臓の音も聞かれているかもしれないと思うと、一刻も早く離れたい。――はずなのだけれど。彼の胸に抱え込まれているのは、何とも心地が良い。
 相反する気持ちをどう処理したらいいのか迷っていると、今度は顎を捉えられる。強制的に目が合う形になり、思わず唇を引き結ぶ。
 伯符さんが小さく笑いをこぼした。

「お前は本当にすごいな」
「……何の話ですか?」
「たったあれだけで妬かせるとは」

 ……妬かせる?
 自身の顔の火照りが気になって、頭が回らない。理解していない様子の私を再度笑って、顎を捉えていた手を離して抱き寄せられた。彼の胸板に頬を預ける形になり、ようやく一心地つく。こうして抱きしめられるのは安心の方が勝るようになってきた。そしてそれは、伯符さんにもバレているのだろうと思う。

「あまりあいつと仲良くするな」
「……どこをどう見たらそうなるんですか」

 心底嫌そうな声が出てしまう。

「まあ、いい」

 優しく、甘さを含んだ声。次いで額に口付けを落とされた。
 仲がどうとかいう件について答える気はないらしい。甘やかすことで誤魔化されているような気がして、思わず唇を尖らせてしまう。

「なんだ、不満そうだな?」
「……そういうわけでは」
「俺のことも言い負かしたっていいんだぞ」
「だから違うんですってば!」

 声を荒げるが、彼はくつくつと笑うだけで聞き入れる気はないらしい。
 悔しくて、彼の襟を掴む。
 そう、悔しいのだ。ここまで彼を楽しそうにしてしまう、あの人の存在が。
 伯符さんをこれからも死なせないために、私が出来ることは少ない。けれど、右腕である公瑾さんには力も知識もたくさんある。何より伯符さんが全幅の信頼を寄せる公瑾さんのことが、私は羨ましい――。


 
『あなたがいかに伯符に相応しくないか。わかっていても身を引かないのですか』

 先ほど公瑾さんに言われた言葉がふわりと浮上する。
 そんなの、自分が一番わかっている。けれど、こんなにも自分には足りないものばかりのくせに、私は〝その一点〟だけは揺るぎない自信を持っているのだ。

『それでもいいと、私を選んだのは伯符さんです。だから身を引く必要もありませんし、私にもその気はありません』

 自分の言葉を思い出し、こっそりため息をつく。
 彼が私を求めていること。それだけは揺るぎなく信じられるということが今更恥ずかしくて、伯符さんの胸元に縋り付くように頬を寄せた。

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『うつくしいもの』#伯巴

伯符 伯符×巴(巴ちゃんは出ません)
狩りに行く前のお話




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 いつだったか。
 どちらかというと、可愛らしいと彼女を評したことがある。適齢期とはいえ、その表情はまだどこか幼さを残し、笑顔は無邪気さを含んでいたから。
 けれど。早朝の冷えた空気の中、的を前に弓を引く横顔は――。
 
 タンッ! と聞き慣れた音が建物に反響し、空へと吸い込まれていく。彼女から離れているから聞こえるはずもないのに、弦を弾く音が聞こえそうだ。それほど彼女が一定の間隔で、淀みなく弓を引くからだろう。
 最初こそ的まで当たらなかったが、少し構えを見ただけでわかる。一朝一夕にできる型ではない。何年も修練を積み重ねたものの、それだ。
 タンッ!
 先程と、寸分の狂いもなく同じ音が響き渡る。
 戦でその弓を使うわけでもないのに、彼女は毎日こうして鍛錬を欠かさない。
 生きる世界が違うのだ。
 そんな彼女と、理解し合えるわけがない。したいとも思わないのに――。
 あの顔が悲しそうに歪むと、酷く落ち着かない。
 こちらを見かけた時に、嬉しさを隠そうともしない巴の笑みを見られないのは、嫌だと思う。
「……はっ」
 らしくもなく強くため息を吐き出し、背中を壁に預けた。
 怒鳴るように突き放したときの彼女の顔が脳裏から離れず、度々思考の邪魔をする。鬱蒼とした気分のまま足の向くままに歩いていたら、いつの間にかここにきていた。そして近寄ることもせず、ただただこうして彼女を眺めている。
 ――らしくないにも程がある。
 
 また、巴が弓を一本手に取った。淀みないいつも通りの一連の構えには、何故か苛立ちさえ覚えるというのに、目が離せない。
 弓弦が、限界まで引き伸ばされた。
 彼女の息遣いも、弓を引く瞬間に少しだけ細まる瞳も。ここからは遠くて見えないはずなのに、手にとるようにわかってしまう。
 そして、的を見据え矢を放つ寸前の美しい横顔が――。
 頭に焼き付いて離れない。
 矢が、飛んだ。
 的に当たった音に目を閉じ、再度大きく嘆息した。
 ――いつの間に。
 こんなにも、手の届くところに置いておきたいと、思うようになってしまったのだろう。

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『痕』 #伯巴

夫婦の明け方前のお話




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「……痛そうですね」
 寝起きのぼんやりした自分の声。目を開いてすぐ、起きあがろうとする彼の背中に引っ掻き傷を見つけたものだから、頭で考えるより先に口にしていた。長いのと短いのと複数。どれも細い。治りかけのものもあれば、新しいものもある。私の声に顔だけ振り返った伯符さんが「起きたのか」と小さく笑った。
 彼の背中の小さな傷跡たちに、手を伸ばしそっと触れる。どうやったらこんな場所を怪我するのだろう。これか、と彼が呟いた。
「大したことない」
「どこかでひっかけたんですか?」
 外はまだ明るくなりきっていない。早く目が覚めてしまったものだと、質問をしながら頭の片隅でぼんやりと考える。
「なんだ、わかってないのか」
「え?」
 不思議そうに伯符さんの顔を見上げれば、彼はこちらに向き直り私を抱き寄せた。素肌と素肌が触れ合うと、温もりが直に、でも緩やかに伝わるのが心地良くて。そのまま目を閉じそうになる。
「俺が傷つけた分の代償だ」
「……嬉しそうですけど」
 彼がとても穏やかに言葉を紡ぐ。意味がわからない。
「そうだな」
 ぴたりとくっついた素肌の心地良さに加え、彼の大きな手が私の髪を優しく漉きだす。今度こそ瞼が下がり始めてしまった。
「まだ寝ていろ」
「……伯符さんは?」
 多分、彼が起きようとしたから目が覚めたのだ。目が覚めた時に彼が横にいるのは希だ。わかっていても寂しくて、訴えるように訊いてしまった。
「お前が望むなら、まだここにいる」
 なんてずるい。忙しい彼に、まだ一緒に寝て欲しいなど言えないことがわかっていて、そう言うのだ。ずるい。せめてもの抗議にと、彼の背中に手を伸ばした。
「……私が寝るまでいてください」
 わかった、と伯符さんの優しい声が落ちる。ついでに瞼ももう限界だった。
 少しでも、少しでも長く起きていたいというのに――。

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『いつかのあなたへ』 #伯巴

伯巴にはまって、一番初めに書いた伯巴でした。バッドエンドのお話です。




****************





「もう、舞はおやめになられたのですか?」
 至極残念そうな声音に、思わず眉尻が下がる。
 柔らかそうなまっすぐの金の髪が、陽光を受けてきらりと輝く。その瞬間。ほんの少しだけあの人のことを思い出すときが、僅かな繋がりだ。
「やめたわけではないのよ」
 いつものやりとり。やめたも何も、最初からできないのだ。素直に私を慕うこの子には言えなかった。いつだったか、"彼"に教えを請うたことがあるけれど。下手だと笑われ一向に上達せず、より後が辛くなるだけだったので辞めた。
「⋯⋯この戦が終われば、また姉上と舞をと思っているのですが」
 残念そうな声。でもね、あなたと舞ったのは、私ではないのよ。何度も飲み込んだ真実。あれから何度も時を繰り返し、もう中原制覇は
目前だった。
 やっと、ここまできた――。
 小高い丘に吹き込む風は血の匂いを含んでいて、大きく吸い込めば気分が凪いだ。
 "あの人"から引き継いだ悲願を達成する。ただそれだけで走り続けてきた。達成したその先に何があるかはわからない。今までと同じようにまたあの人に出会い、そして失うだけの日々が繰り返されるのかもしれない。
 それでも。それでも、あの人が追い求めていたものを一度でも達成することに意味はあるように思う。
「仲謀」
「はい」
 少しだけ振り返り、後ろに控える彼の目を見据える。まっすぐにこちらを見上げる瞳は、光が差せばあの人と同じ色なのに、全く違う。感情的になりすぎるところはあるけれど、視野は広く周囲の意見をよく聞くことができる。
"伯符"にはない才がある。
「あなたには、土地を守り保つ才覚がある。それをよく覚えておいて」
「――はい」
 "姉"の言葉に、気迫に怖気付きながらも、真剣な瞳で頷くその姿に安堵して笑みが溢れる。この子なら、大丈夫だ。この先私がいなくなったとしても。
「――きっと、きっと上手くいくわ」
 この先に何が待ち受けているのかはわからないけれど。あなたの願いを叶えることだけが、唯一、私にできること。
 伯符さん――。
 あなたに会いたいなんて言わないから、弱かった私を許して。

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『託すことすらできない』 #伯巴

告白前の、七夕のお話。




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「たなばた?」
 弓の鍛錬が終わると、蝉の声が聞こえるようになった頃。朝夕はとても涼しく、昼間であっても軽く汗ばむようになってきた。制服の袖を折っていれば問題なく過ごせる程度だけれど、この世界にも季節があるかと頬が緩む。
 そして初夏といえば、七夕。
「はい。笹の葉に飾りをつけて、星に願い事をする日です」
「ほう」
 弓の鍛錬が終わる頃を見計らって――というのは私の願望だろうか――伯符さんが話しかけてくるのが日常になりつつある。話の大半は、彼が聞き
たがるので元いた世界のことだった。
「年中行事の一つで、基本的には子どもが楽しむことが多くて――。将来なりたいものとか、家族の健康を祈ったり」
「それはどうやって願うんだ」
「紙に願い事を書いて、笹の葉に結びつけるんです」
「お前の国でも、星は重要な意味をもつのか」
 そう言われてみるとやや違うのだけれど――。それに織姫と彦星の話は中国由来だった気がしたが、何となく説明は躊躇われて曖昧に笑った。
「⋯⋯ここでは、そういった行事はないんですか」
「祈祷師やらの領分だろうな。まあ、縁起を担いで、なんてものはいくらでもあるが」
 なるほどそういうものか、と頷いたところで家臣に呼ばれ彼は行ってしまった。
 大股であっという間に去っていく後ろ姿を眺めながら、一年に一度しか会えないという制約について考える。
 今まで好きな人なんていなかったから、年に一度しか会えないことに何て思いもしなかったけれど――。
「⋯⋯嫌かも」
 思わずぽつりと漏らした言葉に、自嘲する。
 元の世界に帰れば、二度と会えないというのに。



「⋯⋯竹?」
 伯符さんと七夕の話をしてから数日後のことだった。弓の鍛錬が終わるなり、伯符さんに呼びつけられたのだ。言伝通りの場所に着けば、中庭に山と積まれた竹が目に入った。
「"たなばた"とやらに使うんだろう?」
「え」
 後ろから声をかけて振り返れば、満足そうな顔で伯符さんが立っていた。
「で、これをどう使うんだ?」
 まるで少年のように目を輝かせる彼が、何を言っているのか一瞬わからなかった。
「⋯⋯あ、七夕をここでやるってことですか?」
「他に何がある」
「用意、してくださったんですか⋯⋯」
「何、そこらに生えてるからな。たまの珍しい催しは、皆喜ぶだろう。」
「⋯⋯ありがとうございます」
 自分のために集めてくれたのだろう。自惚れでもなんでもなく、あの宴の後に心配して上着を掛けてくれた彼だから、そう思った。
 嬉しくて、でも顔を見るには少し目が潤んでいるのがわかったから、頭を下げる。伯符さんが小さく笑う気配がして、胸がぎゅっと締め付けられた。


 この世界では紙は貴重品だ。故郷では安価だから紙で飾りを作っていたけれど、こちらでは不相応なものになってしまう。
 だから各所で余っている布きれを飾りに使うことにした。短冊の代わりは竹を削ったもの。布でも良かったのだが、あまりにも書きづらく不評であったため
更された。
 珍しい催しがあると、城中の人が見学に来ては願い事を書いて吊るしていく。叶うわけはないが、どれ一興、と立ち寄る人々の顔は笑顔で、故郷の催しがきっ
かけでそんな姿が見られることは嬉しかった。
「何だ、お前は書かないのか」
 何とはなしに竹簡を配ったり説明する役をしていたところに、伯符さんがやってきた。
「私は、字が書けないので――」
 書けないどころか、簡単なものでも読めない。漢字から意味が推測できるものもあったが、中々に難しい。
 ふむ、と腕を組んでから伯符さんが言った。
「お前の国の言葉で書けばいいだろう」
 言われて初めて、それもそうかと目を丸くする。
「⋯⋯確かに。そうですね」
 日本語。今はもう、あの不思議な本以外に目にすることもない。読める人がいないのだから、書こうと思うこともなかった。
 おもむろに筆を手に取り、竹簡の上で止め――。墨がぽたりと垂れても、動かすことができなかった。
「どうした?」
「⋯⋯み、見られてると書きづらいです」
「お前の国の文字に興味がある」
 伯符さんが手元を覗き込むものだから、身じろぎしただけでも彼の髪に触れてしまいそうなほど近くにいる。
 やたらと近い距離にそわそわしつつも、手が止まってしまったのは別の理由だった。
 ――元の世界に帰れますように。
 そう、書こうと思ったのに。
 筆を動かすことができなかった。
 何なら書けるだろう。無難なものを――。そこまで考えたところで、思いついた内容に口元を引き結び、筆を握りなおした。
 今度は淀みなく動いたそれに、自分でも呆れてしまった。
「――それは何て書いたんだ」
「⋯⋯内緒です」
「ふむ」
 それ以上は追求されないことにほっとしながら、やはり全て平仮名で書いて良かったと思った。
「伯符さんは書かないんですか?」
「子どもの行事なんだろう? 書かん」
「⋯⋯⋯それは、私が子どもだってことですか?」
「ん? そう聞こえたか?」
 楽しそうに口端をあげた彼を軽く睨んでから、柱に固定された笹の葉へと向かう。
 城内の人々が談笑しながら、思い思いに竹簡をくくりつけている。
 それらを横目に結びつければ、竹簡の重みに耐えきれず笹が大きくしなった飾りは城中からかき集めた布。本来の姿を知っていれば奇怪なものばかり。端的に言えば不恰好だ。
 けれども、自然と微笑んでしまうほどには、この世界の七夕飾りが好きだと思った。
 いつかは、帰るのだ。
 だから――、これで良い。
 ゆらゆらと揺れる、懐かしい文字が並ぶ自分の願い事を。胸の痛みを自覚しながら眺めた。

かえるときまでそばにいられますように


◇ ◇ ◇ ◇

 彼女の国の珍しい慣習を肴に、宴が始まった。
 周囲がほろ酔いで席を立っても気にされなくなった頃。何本も柱にくくりつけられた竹の中でも、端にある一本を目当てに向かう。
 飾りつけられ枝垂れた笹の不恰好さに思わず笑いながら、迷わず目的のものを手にとった。
 几帳面に並んだ、異国の文字。何と読むかはわからないけれど、きっと達筆の部類に入るのだろう。
 柔らかな印象は、そういう形の文字だからか。それとも彼女が書いたからなのか――。
『こちらの言葉を知らないので――』
 そう言ったとき、代わりに書いてやろうかと思った。そうすれば、何を願うのか知ることができたというのに。結局は、聞きたくないと思ってしまった。
 巴を初めて宴に誘ったあの夜。涙ぐみながら元の世界を想う彼女の様子を知っていれば、何を書くかは明白だった。そう、聞くまでもない。
「早く⋯⋯」
 ――帰してやってくれ。
 そう、言おうと思ったのに。どうしても言葉を続ける気にはなれなかった。

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『恋とは厄介なもの』 #伯巴

片思いする巴ちゃんが可愛くて大好きで書いたことを覚えています。




****************



 鏡というにはあまりにも頼りない、ほぼ石のようなそれをじいっと見つめる。
 顔の角度を左右上下変えてみて、手櫛で髪型を整える。以前よりも念入りに身支度に時間をかけるようになった。恋をすると何とやら、は本当らしい。
 本当に綺麗になっているかどうかわからないけれど。あの人に、少しでも可愛いと思ってもらいたい。
 ふと浮かんだ彼の顔に鼓動が早まり、心なしか顔が熱くなる。話したわけでも、見かけたわけでもないというのに。恋心を自覚してからというもの、ずっとこんな調子なのだ。それが情けなく、でも面映い。
 
 いつもより長く鏡面と睨めっこしているのは、今日がより特別な事情があるからだ。
 戦についていくことになり、伯符さんから送られた衣が届いた。刺繍が施された桃色の生地は好みの色味で、これを彼が私にと選んだものだと思うと胸がいっぱいになり、一度深呼吸をしてから袖を通した。
 特別な意味なんてない。だってこれは、戦場についていくと言ったから用意してもらえたもの。そう、何度自分に言い聞かせても、頬が緩んでしまう。
 初めて会ったときに褒めてくれた制服も、名残惜しくて腰に巻いている。
 短く息を吸い込んで気合を入れてから、部屋を出た。
 
 
「よく似合っているな」

 執務室へ入室するなり開口一番にそう言われ、顔を赤らめ俯く。彼のことだから褒めてくれるだろうとは思っていたけれど、実際にそれを聞くと嬉しさが後から後から溢れてくる。

「……あの、ありがとうございます」

 そっと顔をあげれば、満足そうに笑みを浮かべる彼と目が合い、『楽しませるために着飾れ』と言われたことを思い出す。今の私は、彼を楽しませることができているのだろうか。いつだったか、服を贈られるなど恋人のようで恥ずかしいと思ったこともあった。でも今は、こんなにも気分が高揚している。

「あと、これは――」

 伯符さんが近づいてくる。そしてあっという間に詰められた近すぎる距離に、思わず一歩退きそうになってしまう。
 戸惑っていると、彼の長くて綺麗な指先が顔に――。

「っ!」

 触れるかと思ったら、その手は左耳上に。何やらガサゴソと音がして、髪と地肌の間に何かが差し込まれる。近すぎる距離と、何やら髪をいじられている現実に半ばパニックを起こしそうになるが、息を止めて耐える。
 彼がそうしていたのは、時間にしてほんの数秒ほど。用を終えたのか、伯符さんの手が離れていくのを名残惜しく感じる。
 身じろぎすると、左耳上の何かが、しゃらりと音を立てた。自然と気分が高揚する。――髪飾りだろうか。

「……ふっ」

 急に目を細めて笑った彼の顔に、心臓が止まりそうになった。

「こっちは、お前のお守りの礼だ」

 そう言って彼は懐を指す。そこに先日渡したお守りを持ち歩いてくれているのだと、胸が熱くなった。

「ささやかなもんだがな」
「いえ、いいえ!」

 ぶんぶんと首を振れば、左耳上に挿してもらった髪飾りが揺れる。

「……嬉しい、です」

 そっと、髪飾りに触れる。この溢れ出る嬉しさを噛み締めるように、言葉を紡いだ。

「大事に、します」
「……」

 満ち溢れる幸福感に息を吐く。これを超える嬉しいことなんて、ないのではないだろうか――。
 ふと、静まり返った場に気がつき、視線をあげる。すると、伯符さんは口元を抑え明後日の方を見ていた。

「……?」

 首を傾げたくなりながらも同じ方を見るが、特にこれといって何もない。

「ああ、いや……」

 こちらに気づいた彼は咳払いをしつつ、気まずそうに声を零す。

「気に入ったのなら、良かった」
「……はい」

 何だったのだろうと思いつつ、そろそろお暇しなければ仕事の邪魔だろうと立ち去る旨を伝え、踵を返す。

「――巴」
「はい?」

 呼び止められ振り返れば、しゃらりと耳飾りの音が鳴る。ふと、これを直接彼がつけてくれたことを想い、頬がまた火照る。
 今の私は、足の先から頭まで。
 おそらく、彼が気にいるもので満たされている。

「……いや、何でもない」

 横を向き前髪を掻き上げる彼の横顔は、いつもとは違い戸惑いの表情が色濃く心配になる。
 けれど。
 私はそこに踏み込んでいいのかが、わからない。
「……失礼します」
 扉を締めて、息を吐き切るようにため息を零す。
 こんなに満たされているのに。いつもどこか苦しい。

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『水も滴る』 #伯巴

初めてワンライ企画に参加したお話で、初の伯巴公開したお話でした。




****************




 ここに降る雨は、道場のことを思い出させる。
 建物の構造が近いから、雨粒が響く音が似ているのかもしれない。はたまた、土と緑が雨に湿る匂いのせいだろうか。目を閉じると、磨き上げられた床、手入れの行き届いた弓が美しく並ぶ姿が浮かぶ。雨の日の道場の静けさが、大好きだった。
 雨が降っている音さえ聞けば、どんなことも洗い流してくれると思っていた。


 わずかな感傷の間。閉じていた目を開けた時だった。ざわざわと回廊の向こう側が騒がしくなる。
「いや、参りましたな」
「まさか、ここまでとは」
 濡れた髪や肩を手で振り払いながら、見知った兵士達がこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、この通りですよ。巴殿は?」
「私はすぐ軒に入れましたので」
 ついさっきまで、雲ひとつない青空だったというのに。急に風が強くなり、空気が冷えてからはあっという間だった。雨雲が空を覆い、そこそこ強目の雨が降り出したのだ。
 皆が一様に辟易する様子にくすりと笑いを溢していると、後ろから声をかけられた。
「巴?」
 太く、低い声。それだけで誰に声をかけられたのかがわかって、心臓が跳ねた。
 私の名前をそんな風に呼ぶのは、ここではただ一人だ。
「伯符──」
 意を決して振り返った。ところで、声を失った。
「濡れてるじゃないか。女が身体を冷やすなと言っただろう」
 呆然と目の前の彼を見上げる。掻き上げた金色の前髪から、ぼたりと雫が落ちる。濡れた睫毛のせいか、眼光も緩い。これが絵画ならため息を溢していただろうに、と頭の片隅でそんなことを思う。
「──伯符さんの方が、濡れてますよ」
 やっとそれだけを絞り出して、視線を逸らす。
 水も滴る──とはよく言うけれど、居た堪れなくなるほどのものだとは思いもしなかった。
 ――彼のことを好きだから、そう思うのだろう
「伯符様、どうぞ」
 いつの間にか駆け寄っていた侍女達が、雨に濡れた者たちに布を渡しに走り回っている。伯符さんはそれを受け取ると、何と私の方に被せてきた。
「っ、え」
 わしゃわしゃと頭を掻き回されることに思考がついていかず、逃げようとすると頭をがしりと掴まれた。
「動くな。やりづらい」
 ぴしゃりと子どもに言い聞かせるような物言いに、身体が固まる。それなのに、時折彼の指が耳や頬に当たるから――嬉しいはずなのに、こんな形じゃなかったらいいのに、と思ってしまう。
「──はい」
「このくらいでいいか。さっさと着替えろよ」
 これではまるで子どもだ。いや、子どものようなものなのかもしれない。この世界に迷子のように紛れ込み、拾ってくれた彼からすれば、私はそんなものなのだろう。
 そう思うと、ひどく悲しかった。
「──伯符様」
 侍女が新しい布を心配そうに再度渡している。
 そうだ、伯符さんの方が濡れたままだったのに、と思ったところで、今度は手に布を押し付けられた。
「え」
「今度はお前だ」
 そう言うなり屈むと、頭を差し出された。
 ──私が拭くってこと?
 かあっと頭に血が昇る。どうしていいかわからずマゴマゴしていると、「早く」と少し苛立った声が聞こえる。
 早く脈打つ心臓が痛いほどで、手が震えそうだ。──布越しだし、とそっと布を被せて、伯符さんの髪の水分を拭き取ろうと押さえていく。
「それじゃ乾かないだろ」
「──あまり乱暴にすると、髪が痛むんですよ」
 すごく近くにある金糸のような伯符さんの髪。濡れているせいなのか、透明感のあるそれに素手で触れてみたいと思うのに、見ているだけで動くことができない。
 近くに、いるのに。それとも、近くにいられるだけでいいのだろうか。
 この人のことが好きだと思う気持ちは確かなのに、一歩踏み出す勇気がもてない。
 ふと、伯符さんが顔をあげようと力を込めたのがわかり、手を浮かせる。もう少し、こうしていたかったな。そんなことを思いながら、一歩退こうとしたときだった。
 身を起こした伯符さんに、私の髪を一房、掬わ
れた。
「――っ」
「まあ、痛んでないか」
「――い、っかいぐらいじゃ、ならないです」
「そうか」
 柔らかく笑った顔に、泣きそうになる。ただ、頬と耳を掠るように。髪を一房触れられただけなのに。
 それが息が詰まるほど嬉しくて、同時に苦しく
て。後一歩、彼に近づくことができない。


 雨が降っているのに、この気持ちは流れてくれ
ない。

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#三国恋戦記・今日は何の日 とは、2021年9月から2022年3月までTwitter上で行っていた企画です。
お題を予告し、かける時間は自由、また作品は再録でも可としたものでした。
現在は大元となるアカウントは削除しましたが、タグを入力すれば当時皆さんに投稿して頂いたものが見られるかと思います。
ここでは、私が企画向けに書いたものを置いています。

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