猫の額








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『前途多難』 #ロベルト
恋愛エンドの後のお話です。




****************


 さらさらと淀みなく美しい文字が綴られていく音を聴きながら、こっそりため息をついた。
 困ったものだと、ちらりと目線を上げる。紙面に目を落とした彼の横顔は、最近知った表情かおだ。
 ギャンブルに興じているときとは違う。敵を前にしてるのとも違う。私に甘えるあの子どものような表情かおとも、もちろん違う。
 たった二五日の付き合いの中で知ったそれらは、婚約を約束してしまうほど、どれも大好きな彼の姿だ。
 だというのに、ここに来てまた。まさか、こんなことで頭を悩ませる日が来るとは思わなかった。

「……アイリーン?」

 どきりと、心臓が音を立てる。

「もう終わったんですか?」
「あ、えっと」

 こちらに気づいた彼から目を逸らし、わたわたとペンを握り直す。頬の熱さを自覚して、誤魔化すように髪を掻き上げる。

「ちょ、ちょっとわからないとこがあったから――」
「え、すみません。訳間違えちゃったかな」

 ずい、と近くに寄ったロベルトの気配に思わず緊張してしまい、もう一度ため息をつきたくなる。

 ――結婚するっていうのに、こんな調子でどうするのよ。

 問題の箇所を指し示しながら、また書面に向き合ったロベルトを盗み見る。
 彼の長い睫毛も通った鼻筋も、形の良い唇も、さっきよりも近いことに動揺しながらも目が離せない。
 とはいえ、私を悩ませているの彼の容姿ではない。その、中身だ。
 字の美しさも、様々な言語に通じていることも、何も知らなかった。当然だ。だって、私と彼はまだ出会ったばかりと言っても過言ではないほどの期間しか過ごしていない。
 頭の回転が速い人だ。必要なものと、そうでないものを切り捨てる判断力もある。
 ロベルトのことを、見た目だけなら王子様に見えなくもない、と思ったことがある。それが、時期国王候補。
 彼は興味がないと断言していたが、中身が統治者として相応しいものだと確信している。
 国王として君臨する彼はどんな風だろう。
 きっと、ギャンブルをしている表情とは違うはずだ。勝負に己を賭け、表面上は楽しそうに見えて、その瞳の奥は冷静に状況を見極める。ギリギリのところでスリルを楽しむ彼の姿は、余裕そうに見えて、実に危うい。それこそを楽しむ姿を思い浮かべて、先程と同じぐらい胸が高鳴ってしまい――。今度こそ、ため息が我慢できなかった。

「……さっきから、どうかしたんすか? プリンセ――じゃなかった」

 名前で呼んで、と言ってからまだ日も浅い。彼は一つ咳払いをして、畏まりながら言い直す。

「アイリーン」

 やや照れながら言い直す姿すら、胸が締め付けられてしまう。

「――大丈夫じゃないかも」

 これから先この人に、何度恋に落ち続けるのかしら。畳む

アラビアンズ・ロスト 編集

『幸せの鍵』
アラビアンズ・ロストの、ロベルトルートの鍵をもらった後の小話です。
以前コピー本として頒布したもののWeb再録となります。
Upするにあたり、大幅に加筆修正を行いました。企画用に書き下ろしました。糖度高めを目指して書きました。




****************





夢を見た。

 私は女王でも何でもなくて、太陽とともに起き、生きるために畑に出る。
 風も、土の匂いもギルカタールとは違う。
 農耕で荒れた手に、粗末な服。
 それでも、私はどこか満たされていて、家族や、たくさんの人と笑いながら過ごしている。

 私が望んだ、普通の生活。

 だった、はずなのに。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「やっぱりどうしよう、これ」


 誰もいない自室で、私は寝台に倒れこむなり呟いた。
 陽も沈みかけ、部屋の中は淡い闇に包まれている。
 手元には、ごく普通の、鍵。
 とは言っても、鍵というものを持っていないため、珍しいというか変な感じがする。
 部屋は世話係が管理しているし、鍵がかかるような場所に出入りすることもない。そもそも、鍵を使わずにこじ開ける訓練すら受けているのだ。
 だから、自分が所持する唯一の鍵、ということになる。
 そういった意味で特別な鍵だ。
 そして、この鍵が特別な理由がもう一つ――。

「他人の部屋の鍵なんて…」

 冷やかされてはたまらない、と今日ロベルトから渡されたもの。
 なくすかもしれないと言っても、構わないという。心配しないで使えばいい、とも。
 了承して受け取ってきたものの、冷静に考えてみれば使えるわけがない。

 ――やっぱり、返した方がいいわよね。

 あくまでも両親との取引に勝つために、協力してもらっているだけなのだ。ロベルトは取引後も使えと言ったが、そういうわけにもいかないだろう。
 掌の鍵を握りしめそう決意する。が、一瞬でそれは揺らいでしまった。

「……返すのも、失礼よね」

 もし自分が逆の立場ならば、傷つくと思う。仮に、鍵をくれたことに大した意味はなくても、だ。

「……明日考えましょう」

 溜息をついて天を仰ぐ。薄暗い天蓋を見つめながら、ぐらぐらと意思が定まらない自分を情けなく思う。
 ロベルトは、軽薄そうに見えて硬派だ。私に関しては、お得意のポーカーフェイスも発揮できない。だから、――彼に好かれている自信はある。
 それでも、一国のプリンセスとお近づきになれて浮かれているだけではないのか、という思いはぬぐえなかった。その好意はどういう種類のものなのだろう。もし、ただの憧れだったりしたら……。

 ――ああ。

 両手で顔を覆う。
 もし、彼が今の現状に浮かれているだけだとしたら。そんな仮定にこんなにも傷ついている事実に、泣きたくなってしまった。

「“一生”なんて――」

 鍵を貰ったときの明らかに高揚した気持ちがじわじわと甦り、喉元まで迫り上がってくる。もらった瞬間の私は、冷静さを欠くほどこの事実を嬉しいと思ってしまったのだ。

「軽々しく言わないでよ……」

 ロベルトのばか。呟いた言葉は、いつの間にか溢れていた涙とともに零れ落ちた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「おはよーございます、プリンセス」

 朝。すっきりしない気持ちを抱えたまま王宮を出ると、すでにロベルトが待っていた。
 にこにこと、いつも以上に機嫌のいいロベルトに、思わずたじろいでしまう。

「お、おはよう……。今日は、ちゃんと起きられたのね」
「はい。わざわざ来てもらっちゃ悪いんで」

 ロベルトは嬉しそうに答えたあと、帽子のつばを持って赤くなった顔を隠すように傾けた。
 本当は、今日ロベルトに会う気はなかったのに――。

「……行きましょうか」
「あ、はい!」

 会いたくなかったはずなのに、胸が弾んでしまう。
 慌てて後ろをついてくるロベルトを背に感じながら、こっそり溜息をついた。


 
「この辺りで休みます?」

 すぐ横に水場があるというだけで、精神的にも体力的にも余裕が出る。
 だからオアシスを選んだのだが、今日は勝手が違った。

「……大丈夫よ。先を進みましょう?」

 休憩を提案したロベルトにろくに向き合わず、早足に立ち去る。

「……大丈夫ならいいっすけど」

 朝とは打って変わった不機嫌そうな声に、元から重かった気分が更に沈み込む。
 ちらと後ろを振り返れば、眉根を寄せてそっぽを向きながら歩くロベルトが見えた。
 鍵の一件をどう切り出すべきか、それともこのまま黙って持っておく方がいいのか、答えが出ないまま頭の中でぐるぐると回っている。
 あの鍵に特別な意味があるのか、ないのか。私のこの気持ちと、ロベルトの気持ちの方向性は同じなのか、違うのか――。
 昨日感じた胸の痛みが蘇るものだから、ロベルトに対する態度も素っ気なくなり、彼の機嫌はますます悪くなる。
 レベルも大分上がったことだし、今日は一人で適当な近場で過ごそうと思っていた。なのに、彼が上機嫌でやってくるものだから、断ることも出来なかった。

 もう少し、頭を整理してから会いたかったのに。
 頼んでもないのに勝手に来たロベルトが悪いのよ。そう自分の中で文句を言っても、気分は晴れないどころか罪悪感で余計に気分が重くなる。
 唇を噛みしめ、とにかく足を動かす。あぁ、何だってこういうときにモンスターが出てこないのよ。間がもたないじゃない。
 行き場のない怒りを、姿の見えない敵にぶつける。
 その時だった。

「プリンセス!」
「?」

 鋭いロベルトの声にびくりと身体が緊張する。敵? 気付かなかった?
 慌てて辺りを見渡そうとした瞬間、腹の底が抜けるような感覚に、喉が張り付いた。

「ちょ、プリンセス!」

 最初に聞こえたのは、何かが破裂するような音。と共に、全身が固いものに叩きつけられ、すぐに飲み込まれる。
 どこか他人事のようにそれらを感じていたのも束の間、慌てて腕を動かした。

「大丈夫ですか!?」

 すぐに腕を引かれ、大きく息を吸い込む。動悸が激しく、足にも力が入らない。

「プ、プリンセスっ」
「だ、大丈夫………。びっくりしただけ」

 そう言うと、更に力が抜けてしまい、水辺から引き揚げてくれたロベルトにすがりつく。乾いた衣服が頬に心地良い、と場違いなことを思いながら、息を吐く。
 下を見れば、何て事はない、膝下くらいまでしか水のない池がある。

 ……こんな深さで溺れかけるなんて。

 余所見ばかりしていたといっても、これはないだろう。どうやら足を踏み外してしまったらしい。あまりの馬鹿さ加減に息を吐くように笑うと、いきなり顎を掴まれ上を向かされた。

「いっ」
「怪我は? 大丈夫すか、プリンセス!」

 必死なロベルトの顔。その頭には、帽子がない。どこかで落としてしまったのかしら、とまた現実味のない感想が出てくる。

「……大丈夫よ。こんな浅瀬で溺れたりしないわ。ちょっと、不注意だっただけ」

 そう言っても心配そうに眉尻が下がった顔に、笑いが漏れる。

「……それよりも、あんたの手が痛いわ」
「へ? ……あ、あっ、すみません! わ~、ちょっと赤くなって……」

 今度は違った意味でパニックに陥るロベルトに頬をさすられる。……くすぐったい。
 そのうち消えるわ、と言ってもいや! と人の話を聞く様子もない。

「すみませんっ、俺、」
「気にしないでよ」

 ロベルトが慌てれば慌てるほど、冷静になっていく。

「それより……。助けてくれて、ありがと」

 今更だけれど距離の近さが気恥ずかしくて、目線を外しながらお礼を言う。やっと、頬を撫でる手が止まった。
 見上げれば、赤い顔をしたロベルトが笑うところだった。

「どういたしまして」
 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 
 ロベルトはともかく、私の方は全身ずぶ濡れで休憩することにした。
 私は出来る限りの薄着になり、ロベルトの上着を羽織っている。はっきり言ってはしたない格好ではあるが、濡れたものを着たくなかったことと、ロベルトならまあ、いいかと思ってしまったというのもある。
 そのロベルトはというと、池に落ちてしまっていた帽子を乾かすようにくるくると回しながら、こちらを見ようとしない。はずだが、時折彼の視線を感じる。
 ヘタレ。
 彼らしいと言えば彼らしいし、堂々と見られてもむかつくが、鍵の一件もあって、煮え切らないはっきりしない態度に苛々した気持が戻ってきている。

 ――そんなだから、私が池に落ちちゃうんじゃない。

 けれど、これでは八つ当たりだと罪悪感の悪循環が始まる。
 さっき池に落ちて助けてもらったときには、すっかり消え去っていた嫌な自分も、時間が経てば戻ってくる。

 ――私って、こんなに嫌な奴だったかしら。

 別に善人というわけでもないが、はっきりと物を言うタイプだと思っていた。こんなにぐちぐちと悩んだりなんかしない。
 こんな風になってしまうのは、きっと相手がロベルトだからだ。
 嫌われたくない。その思いが先行して、いちいち行動にストップをかけてしまう。それが裏目に出ているのだ。
 ふとロベルトを見ると、目が合った。慌てて顔をそらす彼。ギャンブラーお得意のポーカーフェイスは、やはり私には発揮されないらしい。
 期待、させないで欲しいと思うのに。

「……ねぇ、ロベルト」
「い、み、見てないっすよ! 本当です! 見てないです!」

 誰もそんなことは聞いていない。動揺しすぎてせっかく乾いた帽子をまた水辺に落としているが、彼は気づいていないらしい。

「そうじゃなくて、鍵、のことなんだけど」
「っ! え、鍵っすか?」

 彼は更に顔が赤くしながら、へらっと口の端を下げた。

「ほんと、好きなときに使ってくださいね。俺、朝弱いですけど、プリンセスが起こしに来てくれるなら頑張って起きますし、って、あ! いや、俺から出向けばいいだけの話なんですけど! だから、その…」

 自分で何を言っているかわからなくなっているんだろうな、というような慌てぶりのロベルトに、ますます言いたかったことが言えなくなる。

「……うん、あのね、ロベルト」
「はいっ」

 これ以上にないくらい赤い顔をしたロベルトが、勢いよく返事をする。自惚れたい。あの鍵に、特別な意味があると。私と同じ方向を見ていると、思いたい――。

「……やっぱり、鍵、返すわ」

 けれど、口をついて出てきたのは、考えていたのとは正反対の言葉だった。
 ロベルトの顔を見ることができず、手を握りしめて一気に喋る。

「怖いのよ、なくしちゃいそうで。私、鍵を持つっていうこと自体に慣れてないし、それに、大抵の鍵なら道具で開けられちゃうのよ。だから、用事があるときも鍵がなくったて不便はないし、」
「それじゃ、不法侵入じゃないっすか」

 呆れたように返されて、言葉に詰まる。もっともだ。

「う、え、でも、ロベルトが承認してれば問題ないでしょ?」
「……プリンセスは、本当にそれでいいんすか?」

 鍵を、返してもいいと。私は本当にそう思っているのだろうか。

「よくは、ない、けど。でも……」

 ――私たち、付き合ってもないでしょ?

 とは、言えなかった。好意をもたれていることを知っていて、そう言うのはずるいと思う。砂漠でも、同じことを思ったことがあった。
 それでも、不安ばかりが募る。
 私の勘違いかもしれない。私が考えているほど、ロベルトにとって私には価値がないのかもしれない。態度だけじゃ、思わせぶりな言葉だけじゃ、わからない。

「プリンセス」

 ガサリと草をかき分けて、彼が距離を詰めた。顔をあげれば、ロベルトが至極真面目な顔をしていた。

「……怒ったわよね?」

 ごめんなさいと謝ると、彼はぎゅっと私の手を包み込んだ。

「……プリンセスが、迷惑なら鍵は返してもらいますけど。そうじゃないなら、持っていてください」

 触れている手が熱い。

「プリンセスだから、渡したんです」

 それだけ言うと、ロベルトは黙ってしまった。手から伝わる熱は、さっきよりも熱くなっている気がする。
 期待したい。己惚れたい。
 ロベルトの、特別でありたい。

 じゃあ、私にとってのロベルトは――? 一時の気の迷いだと言えない理由は?

 ふと、今朝見た夢を思い出した。

「……私ね、夢を見たの」
「へ?」

 いきなり変わった話題に、ロベルトが間抜けな声を出す。真面目な顔との対比に、思わず笑ってしまう。

「普通に、暮らす夢。私は女王でも何でもなくて。朝から働いて。大切な家族や友達も、そこに一緒にいるの」

 昔から、そうやって生活したいと願っていたものが、夢に現れた。なのに、目が覚めたとき、私はそれが夢で良かったと思ったのだ。
 夢の中で『普通』に暮らしていた私は確かに幸せだった。
 幸せ、だったけど。

「……あなたが、いなかったわ」
「はい……」

 私が見た『普通』の夢の中に、ロベルトはいなかった。
 夢の中なんだから、ご都合主義に私の望むものだけがあればいいのに。
 彼は、いなかった。
 見上げれば、きょとん、とした顔のロベルトと目が合った。
 もう一度、笑う。

「最近、プリンセスの生まれも悪くないかしら、と思ってるの」
「はあ……」
「まあ、『普通』は目指すけどね」

 そうなるために協力してよね? と首を傾げれば、彼は釈然としない顔を切り替え、もちろんです!と首を勢いよく縦に振った。

「そのためには、あなたを迎えに行く必要があるから……」

 まだ、はっきりと伝えることはできない。そんな勇気はまだない。けれど、彼が私をどう思っていようと。
 私が、ロベルトにそばにいて欲しいという気持ちは確かだ。

「だから……。やっぱり、鍵持ってるわ」
「一生、返さなくていいですから」

 もう一歩踏み出せない臆病な私の言葉に、ロベルトが即答する。その頬と耳は、昨日と同じでほんのり赤い。
 ”一生”なんて軽々しく使わないで欲しいと思っていたのに、やはり目の前で交わされるその言葉は、酷く甘い。
 たったその一言で、降り積もっていた不安が、少しずつ溶けていく。
 包まれたままだった手を、そっと握り返す。

「それより、ねぇ、ロベルト」
「はい?」
「そろそろ服も乾いたと思うから、着替えてもいいかしら?」
「っ!! は、はい!」

 耳まで顔をはっきりと赤く染めて、ロベルトが慌てて離れる。

「あと、帽子流されてるわよ?」
「へ? あっ、あー!」

 風に乗って泉の上を滑っていく帽子。それを追うロベルトを確認して、乾いた服を身につける。そのとき、軽い音を立てて、ロベルトからもらった鍵が落ちた。
 小さな、小さな鍵は、気を抜けばすぐにでも失くしてしまいそうだ。だから、大切にしなければいけない。


 


 もし、なんて言っていたらキリがないけれど。
 
 私が『普通』の国で『普通』の生活を送っていて、その場にロベルトがいたとして。
 彼は、スリルを求めて国を飛び出しただろうか。
 
 
 そうでなければいいな、と大事な大事な鍵を握りしめた。

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アラビアンズ・ロスト 編集

『金の夕陽』 #マイセン
アラビアンズ・ロスト
マイセン←アイリーンの小話です。
以前コピー本として頒布したもののWeb再録となります。
今回upするに辺り、大幅に加筆修正を行いました。




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「攫ってやろうか?」

 光る、金の目が、私を捉えて離さない。
 



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 
 その日は、魔がさしたのだ。

 王宮の廊下も、壁も、何もかもが黄金色に染まる時間。
 幼い頃からから見慣れた夕方の光景も、改めて見ると感動すら覚えるものだ。
 だが、今日はそんな景色もどうでもいいぐらい、今すぐにでも部屋に帰って休みたかった。
 両親――つまり国王と王妃の交わした取引きに勝つために、毎日王都を出てモンスターと戦う日々。期限は差し迫っているが、目標金額まではあと一息といったところだが、余裕を持てるほどではない。
 カジノで一発逆転を狙うか、でも――。

 疲弊した身体を引きずりながらも、頭だけがぐるぐると回転させる状況に辟易してくる。気が付けば、自然と足は自室ではなく、通いなれた客室に向かっていた。
 ほんの少し。ちょっと、雑談するだけ。
 吸い寄せられるように訪れた客室の扉を前に、内心言い訳のような言葉を並べてからノックした。

「マイセン?いる?」

 返事はない。

「ねぇ、マイセン?ミハエル?いないの?」

 少し声を荒げても、扉の向こうは静まり返ったままだ。

「……どこに行ったのよ、って」

 駄目もとで押した扉が小さな軋みとともに開く。
 不用心な。
 そう思うと同時に、開いた扉から差し込んだ光に目が眩む。
 うっすらと目を開ければ、美しい、金色に彩られた部屋が飛び込んでくる。

「……入るわよ?」

 誰もいない部屋にそっと入り込む。
 入るべきではないのかもしれない、そう思いながらも後ろ手で扉を静かに閉めてしまった。
 空気中の塵が、光に舞ってきらきらと輝いている。
 部屋の中は生活感が溢れる程度には散らかっていて、彼らが本当にここで生活をしているのだ、と今更ながらに思った。
 取引が始まる前、彼らはここにはいなかったはずなのに。もう何年もの付き合いのように感じるほど馴れてしまった。
 けれど。
 彼らは客人だ。いつかは、ここを出ていくのだろう。
 ぎゅっと胸が締め付けられる。
 得体の知れない客人など、早々に出て行ってもらうに限るはずなのに。
 用がなくてもこの部屋に通うことが習慣になってしまった今、彼らがいなくなるかもしれないことを思うと寂しくなるほどには、慣れ合ってしまった。

 ――何て、愚かな。

 ため息をこぼし部屋を出ようと踵を返したときだった。何気なく視線を遣った寝台に、目を瞬かせる。

「……マイセン?」

 半ば埋もれているせいで気付かなかったが、豪勢な布の隙間に、誰かが寝ている。
 そっと近付いて、思わず息を呑む。
 大きな天蓋付きの寝台の中、やはり眠っていたのはマイセンだった。だが…。
 どこぞの王族、だなんて言葉。
 今なら信じてもいいかもしれない。
 ぼうっとした頭で、別人のようなマイセンの寝顔を見つめる。
 黙っていさえすれば、丹精な顔立ちなのだ。普段の態度や、ミハエルが横にいるせいで霞んではいるけれど。

『今更気づいたわけ?』

 馬鹿にするようなミハエルの声が聞こえるようだ。
 夕陽で全身を金色に染めたマイセンは、まったく起きる気配がない。すぅすぅと小さな寝息に呼応して、身体が上下するのみだ。
 寝ているところを眺めるなんて、不躾だわ。
 そう思うのに、吸い寄せられるように彼の髪に手を伸ばす。
 触れた前髪は見た目の通り柔らかく、髪型が決まらないと大騒ぎしていたときの光景がよみがえった。
 思わず頬が緩み、ゆっくりと前髪を撫でたときだった。

「っ!」

 突然の衝撃に言葉を失う。マイセンが、前髪に触れていた私の腕を引っ張ったのだ。

 ――まさか、狸寝入り!?

 瞬時に沸き上がった怒りに任せて叫ぼうとした瞬間、


「―――」


 マイセンが、誰かの名前を呼んだ。
 いや、誰か、ではない。一度だけ聞いたその名前を、私は知っている。
 マイセンに掴まれたままの腕が熱くて、そこから脈が早くなるようだ。規則正しい寝息が近くて、耳が灼けてしまいそう。
 彼に抱きしめられるような形だから、彼の顔は見えない。ただ、熱だけがじわじわと私を侵食する中、”彼女”の名前を呼ぶ声が、頭の中で反響する。


 ――何で。

 ぎ、と唇を噛みしめる。
 マイセンの腕は動かず、背中までがっちりと固定されている。寝ぼけて人を寝台に引きずり込むなど、最低すぎる。
 そんな最低な奴が。今、私の名前を呼ばなかっただけで。
 何故、こんなにも傷つかねばならないのだろう。
 あんな、聞いたこともない愛おしげな声で、誰を呼ぼうと関係ないのに。
 鼻がつんとする。おまけに、心臓のあたりもずきずきと痛む。

「……なんで、私がっ!」

 泣きそうにならなきゃいけないんだろう。
 理不尽さに、思いっきり腕を振り下ろした。

「起きなさいよ、この変態!!!」




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


「「あ」」

 また、夕陽。忌々しい、と廊下を憤然と歩いていたときだった。
 勢いよく角を曲がった瞬間、今一番会いたくない顔を見て思わず声が出てしまう。それは向こうも同じだったらしい。むかつくことにハモった。

「よぉ、プリンセス。相変わらずお忙しそうでっ」
「えぇ。誰かさんみたいに暇じゃないのよねー」

 あっはは、と表面上だけはにこやかに笑うが、お互いに目は笑っていない。

「先日はどうも。いやぁ、まさかプリンセスが短期間に強くなった証を身を持って知るとは思わなかったぜー」
「客人風情で一国のプリンセスを寝台に連れ込むなんて最低な奴には、当然の仕打ちだと思うけどね」
「いくらプリンセスだからって、客人の部屋に勝手に入っていいってことはないんじゃねぇの?あ、もしかして夜這いにきたわけ?あーあー、かっこいいってのは罪だなぁー」
「マイセンったら、ふふ。一度鏡を見た方がいいんじゃないの?あんたに夜這いをかけるような人間、どこを探したっていないわよ?いい加減現実を見なさいよ」
「あっはははは」
「うふふふふ」

 マイセンに抱きしめられたあの日――。怒りにまかせた渾身の力で彼を殴り飛ばし、逃げるように部屋を飛び出した。
 だからマイセンにしてみれば、いきなり寝込みを襲われた形になる。そして、彼の言うとおり勝手に部屋に入ったのも私で、寝ぼけていたマイセンに罪はない。はっきり言って非があるのは私だけだ。それでも、到底謝る気にはなれなかった。
 あの時感じてしまった胸の痛みを、受け入れたくない。

「じゃあね」

 にっこりと、形だけは友好さを装って通り過ぎようとする。すると、その腕を掴まれた。

「ちょ、」

 何するのよ、と睨みつけようとしたが、真面目な顔をしたマイセンに言葉を失う。

「プリンセス」
「な、によ」

 腕を掴まれたまま、思わず身を引く。心臓の鼓動が速くなったのが、自分でもはっきりとわかった。

「本当に、夜這いじゃないのか?」
「……」
「俺、知らなかったぜ」

 苦しそうな顔で俯くマイセン。

「プリンセスがそんなに俺のことを、ってぇ!痛いっつの!!」
「うるさい、黙れ、とっとと腕離せ」

 蹴りながらも冷たく言い放つが、マイセンは聞いちゃいない。

「何だよ、怒るこたねぇだろ。悪ぃな、プリンセス。俺はお嬢さん方、皆のものなんだ、だから……」

 その言葉に、思わず手が出ていた。
 ――バシン!
 派手な音が、廊下に響き渡る。

「……ふざけんのも、いい加減にしなさいよ!」

 マイセンの頬を殴った手が、びりびりと痛む。それよりも今すぐにも涙が溢れそうなほど、目頭が痛い。堪えるために、必至で唇をかみしめた。
 殴られた頬を押さえたマイセンが、眼を瞬かせる。謝らなきゃ、と頭の片隅で思うけれど、吹き荒れる感情の嵐に飲み込まれそうだ。
 何故、私はこんなにも傷ついてるの?

「落ち着けよ、プリンセス。どうしたんだ?最近何か情緒不安定じゃねぇ?」
「うっさいわね!関係ないでしょ!?」

 が、マイセンは怒るどころか、却って心配などするものだから、また頭に血が昇る。
 とにかく離してほしい。いますぐ、ここから立ち去りたい。

「プリンセス、そんなに困ってるなら力を貸すぜ?」
「金貸しの力なんか借りないわ」

 ろくなことにならない、と切り捨てる。

「おいおい、いくら期限まで時間がなくてやばいからって、自棄になるなよなぁ」
「放っておいて!」

 なおも暴れる私に、マイセンが笑う。

「ったく、しょうがねぇの」

 そう言って、腕を掴んでいない手を私の頭の上に置いた。

「だーじょうぶだって。ほら、困ってんならこの流浪の美貌の賢者に相談しな?」

 ぽんぽん、と軽く頭を叩かれる。見上げれば、いつもの胡散臭い笑いはどこにもなく、呆れたように、そして慈しむような目がこちらを見つめていた。

「……で、」
「ん?」

 唇が戦慄く。

「……んな、目で、私を見ないでよ」

 駄目だ、泣きそう。

「……私は、あんたの妹じゃないんだからね」

 震える声を必至に抑えて、マイセンを睨みあげる。私を通して、誰かを見ないでほしい。私は、ここにいるのに。いないみたいに、扱わないでほしい。
 私のその言葉に、マイセンは驚いたように眼を瞬かせた。そして、ゆっくりと息を吐く。色のない表情。

「……そう、だな。プリンセスは、プリンセスだ」

 そう言って自嘲気味に笑ったマイセンの顔は、回廊に差し込んだ夕陽色に染まっている。あの時の、寝ていたときのような、別人の顔。

「――あいつじゃない」

 その言葉に、とうとう涙が堪え切れず溢れた。
 どうしようもなく胸が痛くて、張り裂けそうだ。
 私を通して妹を見られても嫌なのに、彼にとって特別な妹と同じではないと言われるのも、同じぐらい辛い。
 頬を伝う涙が気持ち悪いのに、身体が思うように動いてくれなくて、拭うことすらできない。

「じゃあさ、アイリーン」

 夕陽に照らされたマイセンの瞳が、金色に光って。
 はっきりと、"プリンセス"ではなく私を捉えている。


「攫ってやろうか」


 マイセンが笑う。いつもの軽い笑いではなく、底の冷えるような、笑み。
 何がじゃあ、なんだ。とか、どうしてそういう結論になるんだ、とか。思考が一瞬で駆け巡って、結局何も言えない。“私”に向けられた瞳に、息が詰まって言葉が出ない。

「どうする?」

 選ばせやるよ、と腕を離された。

「……今、すぐに?」
「攫うなら、今すぐ」

 俺の気が変わっちゃわない内にさ。
 目を細めて笑ったマイセンの顔は、やはりいつもとは違う。
 ――ここを、出る?
 ギルカタールを。
 マイセンと、一緒に?
 ぐらりと、自分の中で何かが揺れる感覚。


「……いいえ」


 乾いた口で、それだけを絞り出した。
 攫ってほしいと思ってしまった。でも、同時に沸き上がってきたのは、恐怖だった。

「そっ、か」

 その答えを予想していたのか、マイセンが薄く笑う。いつもの彼の顔になっていた。

「期限までまだ時間もある。途中で諦めるわけないもんな?」
「………」
「じゃあ、今のは、なかったことにしようぜ」

 指きり、と小指を差し出される。躊躇っていると、プリンセス、優しく名を呼ばれ促される。
 ゆっくり差し出したそれに、マイセンの小指が絡んだ。

「約束、な?」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ものすごく長い25日間だった。少なくとも、人生の中で一番密度の濃い期間であったことは間違いない。
 私は、無事両親との取引に勝ち、自由を手に入れた。
 はずだったが、実際は何も変わらなかった。
 『普通』になりたい。ずっとそう思ってきたし、この取引の期間中はその実現に向けて努力したようなものだった。しかし、蓋を開けてみれば、私は『普通』とはまた縁遠くなってしまったような気がする。
 誰もいない廊下を、一人歩きながら重い溜息をついた。いくつもある大きな窓からは、惜しむことなく黄金色の夕陽が降り注いでいる。

 ふと気がつけば、何度も訪れた客室の前に居た。
 何故、自分はあんなにもこの場所に通っていたのだろうか。
 扉を押すが、びくともしない。鍵がかかっている。

『よぉ、プリンセス。何か用か?』

 今となっては懐かしい声が、脳裏に響いた。
 25日。
 それは両親との取引の期間の日数でもあるし、マイセン、そしてミハエルといた日数とも重なる。
 誰よりも、顔を合わせていた。どうでも良い話を、たくさんした。
 急にたまらない気持ちになって、髪の中に潜ませていた細い針金を取り出す。そして、客室の扉の鍵に差し込んだ。
 カチリ、という軽い音ともに、扉はあっけなく開いた。

「………」

 部屋一面が、別世界のように光り輝いている。思えば、ここに来るのはいつも夕方だった。一日中、取引のために外を駆け回って、用もないのに立ち寄る。
 一歩踏み出せば、空中に舞った埃が、以前と同じようにきらきらと光り輝く。
 なのに、この部屋に人の気配はない。
 当然のことながら、部屋中全て綺麗に整えられていた。ここに誰かがいた痕跡まるごと、何もなかったかのように全てがひっそりと佇んでいる。
 まっさらな寝台にそっと腰掛けると、スプリングが僅かに軋んだ音を立てた。

 ――本当に、彼らはここに居たんだろうか。

 呆然と、空中を見つめる。
 彼らは全部夢で、存在しないのではないか。それを確かめるものを、彼らは何一つ残していかなかった。

『攫ってやろうか』

 あの日の、マイセンの金色の目がちらつく。
 ただの気まぐれ以外の何物でもなかったであろう、その言葉が頭から離れてくれない。
 攫ってくれと頼めば、本当に攫ってくれたのだろうか。
 でも、行けない。だって――。

「やっと、」

 弱々しい声と、涙が溢れた。

「やっと、好きになれたのよ」

 ――何を?
 何故そんなことを呟くのか、自分でもわからない。そして、留めなく溢れる涙の理由も、わからない。

「……あんたが言ったくせに」

 “あんた”とは、誰だろう。

『なかったことにしよう』

 絡まった小指を振り切る感触だけが、やけにリアルに残っている。


 どうせなら、全てなかったことにしてよ。

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『とわに』 #カーティス
「気絶2」の後を想定したお話です。エンド前。


****************


 煌々と輝く月は、昔から好きだった。
 同業者には仕事がやりにくいからと厭う者が多いのは知っている。けれど、強すぎる光故に、闇がいつもより濃くなるのを知らないのだろう。明るさは人の目を眩ませ視界を奪う。これほど、〝仕事〟に向いた日和もない。
 それに、と腕の中の温もりに目を向ける。
 濃く青い髪が、寝台の上に広がっている。月明かりを受けた夜の空の色と同じだ。
 そっと手を伸ばせば、柔らかで滑らかな髪が指の間をすり抜けていく。呼吸に合わせて上下する肩や、月明かりに照らされ白く輝く彼女の頬を眺める。
 まるで陽の光のような月明かりは、彼女によく似合う。
 白い光に照らされた彼女は、女神と呼ぶのが相応しいとすら思う。

「アイリーン」

 呼びかけるけれど、返事はない。代わりに寝息を立てる口が閉じて、また開いただけ。その僅かな変化すらも愛しくて、口角が緩む。

「愛しています」

 今は見えない瞳と同じ色の髪を一房手に取り、口付ける。聞こえぬ愛の告白など、何の意味があるだろうと以前の自分なら思うだろう。
 でも、足りないのだ。
 彼女を前にすれば思いが募って溢れて仕方がない。いくら伝えても、足りない。たとえ届いていなかろうが、構わない。

「……ん」

 アイリーンの長い睫毛が震え、そしてゆっくり持ち上げられていく。

「カー、ティス?」
「すみません、起こしてしまいましたか」

 目を覚まさせてしまったことを心底申し訳なく思いながらも、微睡の抜けきれない彼女の声と、光を反射する美しい瞳に心臓の高鳴りが抑えられない。

「ううん……。もしかして、寝てないの?」
「僕、数日は寝なくても平気ですから」

 まだ、彼女と出会ったばかりの頃、同じことを言ったことがある。あの呆れたような顔も、今なら可愛いと思うだろう。

「……だめよ」

 むっと唇を尖らせた彼女が、僕の頬に触れる。

「ちゃんと、寝て?」

 身体に悪いわ。
 小さい囁き声が、いつまでも頭の中で反響して消えない。僕のことを心配して、その瞳に映るのがたった一人である事実に、胸がしめつけられ息が出来ない。
 闇の中に生きる人間だからこそ、眩しすぎて濃い影を落とす彼女のそばが落ち着くはずなのに。
 どこよりも暗いから、彼女を守ることができるのに。
 ほんの少しの言葉で、あっという間に彼女の横に引き上げられてしまう。彼女の作る濃い影の中ではなく、光の元でもいいから、すぐ側で寄り添いたいと思ってしまう。

「アイリーン」

 先ほどよりも、熱を帯びた声で彼女の名前を呼ぶ。彼女の横は眩しいのに、目を閉じたくない。

「愛しています」

 どれだけ伝えても追いつかないから、このまま彼女への想いに溺れて死ぬのだろう。

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