猫の額








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『夏』 #奉先
エンド後のお話です。
魁四周年記念で書いたお話の一つです。




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 雨上がり。草の湿った匂いが辺りに満ちている。それらは陽が落ち、冷え始めた空気には心地良い。
 邪魔する雨粒がなくなったことで、そろそろと夜に活動する虫たちが声を張り始めた。細く高く、見上げる空に吸い込まれていくようだと思う。
 虫の音が季節を感じるのだと教えてくれたのは巴だ。
今は、空に光る星の名前をとつとつと語っている。

「多分、あれが大三角形かなあ」
「へえ」

 星に詳しいわけではないが、巴の言う“星の名前”は聞いたことのない変なものばかりだった。
 空に動物を見ることは同じだが、天帝はおろか人がいない。たまにいたかと思えば、それは神だという。あまり詳しいわけではないけれど、と前置きして話し出したのは、巴にとっても異国の神々の物語だった。
 寝る前に一つ、二つ。最近はそれらを聴いている。

「他にもあったと思うけど、私が覚えてるのはそれくらいかな」

 星読みなどという高等なことは出来ないが、生きていくには欠かせないのが星空だ。中でも天高く濃い空に浮かぶ一点。どこに向かうにも必要な目印。巴の国では『北極星』と呼ぶそれは、名前こそは違えど、標となる星は同じだとわかって少し嬉しかった。

「でもやっぱり、ちょっと違う気がするな」
「そりゃ洛陽からかなり離れたんだ。星の位置も変わるさ」

 リーン、と一際大きく虫が鳴いた。その音に巴の声が重なり、よく聞こえなかった。

「ん?」
「洛陽じゃないよって言ったの」

 いつもと少しばかり違う揺れた声音に、巴の方に向き直る。彼女は天を仰いだままだ。
 洛陽ではない。もちろん、長安でもないはずだ。躊躇いつつも、口を開く。

「……お前の国って、どれだけ遠いんだ?」
「――どのくらい、なんだろう」

 巴が天に向かって手を伸ばす。

「……今光ってる星が、消えるくらい遠く、かもしれない」
「……どういう意味だ?」

 難しくてわからん、と零せば笑い声で返ってきた。

「私も難しくてわかんないな」

 もう寝よう、と巴もこちらへ向き直る。いつも通りの、笑顔。
 敷布にさらりと音を立てて流れた彼女の髪に、手を伸ばした。
 指先に触れる柔らかな髪の感触に後押しされながら、いつも喉元まで出かけていた言葉を押し出す。

「……お前の故郷って、どんなところなんだ?」

 目が、合う。その顔からは何の感情も読み取れない。

「――どうしたの?」

 笑おうとしたのだろうか。失敗したようで、目元が歪んだ巴の頬を手の甲で撫でる。

「お前が嫌じゃなければ、聴きたい」

 彼女の故郷のことなど、以前は気にも留めなかったというのに。いや、違う。ただ聞くのが怖かったのだ。故郷が恋しくなれば、巴は帰ってしまう気がして――。
 しかし、こうして二人で話せば話すほど、巴の考え見ているものの違いは何なのか、彼女の生まれ育った場所のことを知りたくなった。
 今だって、彼女がいなくなる不安がなくなったわけではない。けれど、俺を置いていなくなるとも思えない。何より、巴のことをもっと知りたい欲の方が優った。

「――うん」

 月明かりの乏しい今日、俯き翳った巴の顔はよく見えない。けれど泣いているような気がして、すまん、と理由もわからず謝った。
 首筋に、巴の額が押し付けられる。じわりと伝わる熱を感じながら後頭部を、出来るだけ優しく撫でる。
 違うよ、嬉しいんだよ。虫の音にかき消されそうなほど小さな巴の声が、直接震えて届いた。

三国恋戦記 魁 編集

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