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『季節』 #孟卓 #夢
魁四周年記念で書いたものの一つです。
名前変換はなく、オリジナルの夢主です。
****************
「君は、好きな季節はあるのかい?」
少し離れた場所で手仕事に集中していた彼女が、ぴたりとその手を止めた。ゆっくりとこちらに向き直り、首を傾げる。
「……急に何のお話でございますか」
「いや、別に。少し気になっただけさ」
卓に頬杖をつきながら、格子窓の外を眺める。ここからは見えないが、生垣には鮮やかな花が咲き誇っているはずだ。
その花が咲くと、彼女──妻──に出会った頃のことを思い出す。あの花の前で、緩やかに微笑んだ姿を。
そしてその記憶はほんの少し、俺の罪悪感を刺激する。
「……人並みにはございます」
「へえ。いつだい?」
彼女らしい回りくどい答え方に笑いが漏れる。そして、贈り物と関係なく好みついて訊ねること自体、初めてかもしれないことに気がついた。そもそも、口数の少ない彼女
とは会話自体が少ないのだ。
更に妻は表情の変化も乏しい。笑顔など、記憶の中にあるそれぐらいだ。
それでいて冷たい印象は与えない。ただ、そこに静かにいる。
そんな彼女と共に過ごすのは、とても心地良かった。きっと、彼女が俺には何も求めていないからだろう。
それが、俺が初めて迎えた妻だった。
「……私の好きな季節などを聞いて、楽しいのですか?」
「楽しい、楽しくないではなく、ただの暇つぶしだよ」
"彼女好み"の返答を返す。君個人に大して興味はないのだと示す方が、彼女は落ち着くように見えるからだ。
想い人がいながら、張家に嫁がなければならなかった彼女に対して、俺が出来る数少ないことの一つ。
「……今の季節、です」
珍しく戸惑いの色が混ざったその言葉に、彼女を盗み見た。
彼女の視線は格子窓の方へと向けられているせいで、表情まではよくわからない。
──庭にある花は、彼女の想い人が好きな花だった。
二人が、あの花の前で笑いあう姿を、今でもはっきりと覚えている。
「へえ」
思いの外冷えた声が出て、慌てて身を正す。面白くないなどと、一瞬でも思った自分に動揺する。
今の声音に妻が気づいたのかはからないが、居心地の悪さに適当なことを言って誤魔化そうと口を開きかけたときだった。
「あなたの」
「え」
「好きな花が満開になりますから」
それだけ答えると、また彼女は手元の針仕事に意識を戻した。
その様子を、卓越しにぼんやり眺める。
「……そうか」
「はい」
「そう、か」
「はい」
間抜けに言葉を繰り返しながら、一度停止した思考を懸命に動かそうとする。
──俺が好きだから?
あの花を好きだと思ったことなど一度もないのだが、とかく彼女にはそう見えているらしい。
彼女は話しかける前と寸分違わず、淀みなく手を動かしている。
ほんの少し薄れた罪悪感のせいだろうか。思わず緩みそうになる頬を手で抑える。
「……そっか」
「はい」
意味のない言葉にも律儀に返す相槌が心地よくて、自然と上がる口角に素直に従った。
魁四周年記念で書いたものの一つです。
名前変換はなく、オリジナルの夢主です。
****************
「君は、好きな季節はあるのかい?」
少し離れた場所で手仕事に集中していた彼女が、ぴたりとその手を止めた。ゆっくりとこちらに向き直り、首を傾げる。
「……急に何のお話でございますか」
「いや、別に。少し気になっただけさ」
卓に頬杖をつきながら、格子窓の外を眺める。ここからは見えないが、生垣には鮮やかな花が咲き誇っているはずだ。
その花が咲くと、彼女──妻──に出会った頃のことを思い出す。あの花の前で、緩やかに微笑んだ姿を。
そしてその記憶はほんの少し、俺の罪悪感を刺激する。
「……人並みにはございます」
「へえ。いつだい?」
彼女らしい回りくどい答え方に笑いが漏れる。そして、贈り物と関係なく好みついて訊ねること自体、初めてかもしれないことに気がついた。そもそも、口数の少ない彼女
とは会話自体が少ないのだ。
更に妻は表情の変化も乏しい。笑顔など、記憶の中にあるそれぐらいだ。
それでいて冷たい印象は与えない。ただ、そこに静かにいる。
そんな彼女と共に過ごすのは、とても心地良かった。きっと、彼女が俺には何も求めていないからだろう。
それが、俺が初めて迎えた妻だった。
「……私の好きな季節などを聞いて、楽しいのですか?」
「楽しい、楽しくないではなく、ただの暇つぶしだよ」
"彼女好み"の返答を返す。君個人に大して興味はないのだと示す方が、彼女は落ち着くように見えるからだ。
想い人がいながら、張家に嫁がなければならなかった彼女に対して、俺が出来る数少ないことの一つ。
「……今の季節、です」
珍しく戸惑いの色が混ざったその言葉に、彼女を盗み見た。
彼女の視線は格子窓の方へと向けられているせいで、表情まではよくわからない。
──庭にある花は、彼女の想い人が好きな花だった。
二人が、あの花の前で笑いあう姿を、今でもはっきりと覚えている。
「へえ」
思いの外冷えた声が出て、慌てて身を正す。面白くないなどと、一瞬でも思った自分に動揺する。
今の声音に妻が気づいたのかはからないが、居心地の悪さに適当なことを言って誤魔化そうと口を開きかけたときだった。
「あなたの」
「え」
「好きな花が満開になりますから」
それだけ答えると、また彼女は手元の針仕事に意識を戻した。
その様子を、卓越しにぼんやり眺める。
「……そうか」
「はい」
「そう、か」
「はい」
間抜けに言葉を繰り返しながら、一度停止した思考を懸命に動かそうとする。
──俺が好きだから?
あの花を好きだと思ったことなど一度もないのだが、とかく彼女にはそう見えているらしい。
彼女は話しかける前と寸分違わず、淀みなく手を動かしている。
ほんの少し薄れた罪悪感のせいだろうか。思わず緩みそうになる頬を手で抑える。
「……そっか」
「はい」
意味のない言葉にも律儀に返す相槌が心地よくて、自然と上がる口角に素直に従った。
『無意味の意味』#公路 #夢
できれば甘め……ということで目指しましたが、大分控えめになってしまいました。今回は現パロで。。
****************
この時間に、一体何の意味があるのだろう。手元のカップからは、あっさりとした控えめな香りが届く。
「いい天気ですね」
「……そうですね」
『仏頂面』というには可愛らしすぎるシワを眉間に刻みながら、彼が答える。目線は落としたまま、こちらを見ることはない。月に一度、こうして両家の取り計らいによる『無駄な』お茶会がある。理由は、彼が私の|婚約者《フィアンセ》だからだ。
『…………』
晴れているせいで、沈黙がやたらと目立つ。雨でも降れば、ガラス張りのテラスは音で満ちるのに。彼を見遣れば、また眉間のシワが増えている。手持ち無沙汰にカップに口をつけ、一人紅茶を堪能する。
「学祭は、どうでしたか」
唐突に口を開いた彼に瞬きを返し、思考を巡らせる。ちょうど彼と私の学校の日程が同じで、特に彼は生徒会役員ということもあり、先月会った彼は疲れた表情だった。概ね順調であったこと、そちらの学祭も見てみたかったと伝えれば、彼はため息をこぼした。
「来年は、重ならないよう進言します」
「――そこまでして頂かなくても」
そこでやっと、彼が目線を上げた。深緑色の瞳が、私を捉える。どんな小さなことにも向けられる真剣な瞳は、出会った頃から変わらないものの一つ。
「いえ、やります」
一度『美味しい』とこぼした紅茶が定番になった頃から、何のてらいもなく、交わされる先の約束。緩んでしまった口角のまま、彼に微笑みかける。
「一緒に回れるの、楽しみにしていますね」
「――っ、はい」
彼は目元を赤く染めて、また視線を逸らす。|無駄なお茶会《こんなもの》があるから、約束しなくても、会えてしまう。
本当に、何て意味のない時間。
できれば甘め……ということで目指しましたが、大分控えめになってしまいました。今回は現パロで。。
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この時間に、一体何の意味があるのだろう。手元のカップからは、あっさりとした控えめな香りが届く。
「いい天気ですね」
「……そうですね」
『仏頂面』というには可愛らしすぎるシワを眉間に刻みながら、彼が答える。目線は落としたまま、こちらを見ることはない。月に一度、こうして両家の取り計らいによる『無駄な』お茶会がある。理由は、彼が私の|婚約者《フィアンセ》だからだ。
『…………』
晴れているせいで、沈黙がやたらと目立つ。雨でも降れば、ガラス張りのテラスは音で満ちるのに。彼を見遣れば、また眉間のシワが増えている。手持ち無沙汰にカップに口をつけ、一人紅茶を堪能する。
「学祭は、どうでしたか」
唐突に口を開いた彼に瞬きを返し、思考を巡らせる。ちょうど彼と私の学校の日程が同じで、特に彼は生徒会役員ということもあり、先月会った彼は疲れた表情だった。概ね順調であったこと、そちらの学祭も見てみたかったと伝えれば、彼はため息をこぼした。
「来年は、重ならないよう進言します」
「――そこまでして頂かなくても」
そこでやっと、彼が目線を上げた。深緑色の瞳が、私を捉える。どんな小さなことにも向けられる真剣な瞳は、出会った頃から変わらないものの一つ。
「いえ、やります」
一度『美味しい』とこぼした紅茶が定番になった頃から、何のてらいもなく、交わされる先の約束。緩んでしまった口角のまま、彼に微笑みかける。
「一緒に回れるの、楽しみにしていますね」
「――っ、はい」
彼は目元を赤く染めて、また視線を逸らす。|無駄なお茶会《こんなもの》があるから、約束しなくても、会えてしまう。
本当に、何て意味のない時間。
『ひねもす』 #公路 #夢
魁四周年で書いた話の一つです。トップバッターで公開しました。
****************
朝も昼も夜も。
日がな一日飽きもせず、よくそこまで一生懸命になれるものだと、彼女が滞在する庵を眺める。
風に乗って流れてくる琴の音は、お世辞には上手いとは言い難い。けれど、耳に入れば傾けずにはいられない不思議な音色だった。
音が聞こえては、自然とそちらへ向きそうになる足を何度か抑えた後。このままでは仕事に支障をきたすと、意を決して彼女の元へ向かった。
――琴を教えてやって欲しい。
彼女の父親がそう言ってきたのは、ふた月ほど前のこと。
思惑は色々あるのだろうが、父親同士で決められたそれに異を唱えられるわけもなく、そうとは見えぬように渋々と了承した。
一方で、彼女の方はわかりやすく不機嫌だった。
「琴の名手と名高い方ならともかく、何故この方に学ばねばならないのですか」
こちらを見ることもなく言い捨てられたそれに、口端が引き攣る。
確かに、確かに彼女の言う通り、自分は琴は弾けてもとりたて得意というわけではない。だが、彼女にそれを言われる筋合いはない。
父の顔を立てとりあえず笑ってみた顔は、自分でも相当ひどいものだったと、今でも思う。
最初は、自宅に帰れば琴の音が聞こえるだけで苛々した。あの時、私に教わることを嫌がっていた彼女の顔を思い出しては、はらわたが煮え繰り返るようですらあった。
しかし、いざ手ほどきを始めてみれば、彼女は至って真剣で素直にこちらの言うことを聞き入れる。
技術は心許ないが、一度言えば理解はする。そして言われた通りにできない己に対して、眉根を寄せながら悔しそうにする顔を見ていれば、自然と溜飲は下がった。
「何故、そこまで琴を?」
一日一回の手ほどきが終われば、そのまま茶の時間になる。最初こそ苦痛でしかなかった時間も、彼女に対し何の感情も持ち合わせなくなれば、こちらから話しかけることも増えた。
「……父上が、琴の一つも弾けぬようでは駄目だと」
手ほどき以外の会話では相変わらず顰めっ面を崩さない彼女が、気まずそうに視線を逸らして言った。父親に言われたから。ただそれだけで、あのような眼差しで取り組むだろうか。
ふと、琴に向き合う彼女の姿が浮かぶ。
盤面に落ちる目線を縁取る睫毛。付け爪から伸びる細い指先。没頭するあまり、結い上げた髪がはらりと一筋崩れる瞬間――。
思い浮かべてしまったそれらに、琴とは何の関係もないではないかと頭を振る。
どうにも、最近ふとした拍子に彼女のことを思い出すことが増えてしまった。
「公路様も――」
硬い声音。それでも出会ったときよりは棘はない。ただひたすら真っ直ぐな性格故のものなのだろうと、彼女のことが少しわかり始めていた。
「琴も弾けぬ女子は、駄目だと思われますか?」
じっと見つめられる。その瞳が不安そうに揺れたように見えて、思わず息が詰まった。
「――私は、」
手元の茶器を握りしめる手に、汗が滲むのがわかった。何故、こんなにも緊張しているのかわけがわからない。
「弾ける、弾けぬよりも――。その、どれだけ懸命に向き合えるかどうかの方が、大事だと思うが」
言い終え、どっと早まった心臓に動揺し、一気に茶を煽る。彼女の方を見ていられなかったが、ちらと視界の端に映った顔は。――少し、赤かったように思う。
その日からだろうか。
日がな一日。朝も昼も夜も。
家にいてもいなくても、琴の音が聞こえても聞こえなくても。
ふとした拍子に彼女のことを思い浮かべてしまう。
一日一回の手ほどきの時間が、待ち遠しいとさえ思う。
今日の分は、すでに今朝方終えてしまった。
だから、今これから向かう理由を、彼女の前に出るまでに考えておかねばらない。
魁四周年で書いた話の一つです。トップバッターで公開しました。
****************
朝も昼も夜も。
日がな一日飽きもせず、よくそこまで一生懸命になれるものだと、彼女が滞在する庵を眺める。
風に乗って流れてくる琴の音は、お世辞には上手いとは言い難い。けれど、耳に入れば傾けずにはいられない不思議な音色だった。
音が聞こえては、自然とそちらへ向きそうになる足を何度か抑えた後。このままでは仕事に支障をきたすと、意を決して彼女の元へ向かった。
――琴を教えてやって欲しい。
彼女の父親がそう言ってきたのは、ふた月ほど前のこと。
思惑は色々あるのだろうが、父親同士で決められたそれに異を唱えられるわけもなく、そうとは見えぬように渋々と了承した。
一方で、彼女の方はわかりやすく不機嫌だった。
「琴の名手と名高い方ならともかく、何故この方に学ばねばならないのですか」
こちらを見ることもなく言い捨てられたそれに、口端が引き攣る。
確かに、確かに彼女の言う通り、自分は琴は弾けてもとりたて得意というわけではない。だが、彼女にそれを言われる筋合いはない。
父の顔を立てとりあえず笑ってみた顔は、自分でも相当ひどいものだったと、今でも思う。
最初は、自宅に帰れば琴の音が聞こえるだけで苛々した。あの時、私に教わることを嫌がっていた彼女の顔を思い出しては、はらわたが煮え繰り返るようですらあった。
しかし、いざ手ほどきを始めてみれば、彼女は至って真剣で素直にこちらの言うことを聞き入れる。
技術は心許ないが、一度言えば理解はする。そして言われた通りにできない己に対して、眉根を寄せながら悔しそうにする顔を見ていれば、自然と溜飲は下がった。
「何故、そこまで琴を?」
一日一回の手ほどきが終われば、そのまま茶の時間になる。最初こそ苦痛でしかなかった時間も、彼女に対し何の感情も持ち合わせなくなれば、こちらから話しかけることも増えた。
「……父上が、琴の一つも弾けぬようでは駄目だと」
手ほどき以外の会話では相変わらず顰めっ面を崩さない彼女が、気まずそうに視線を逸らして言った。父親に言われたから。ただそれだけで、あのような眼差しで取り組むだろうか。
ふと、琴に向き合う彼女の姿が浮かぶ。
盤面に落ちる目線を縁取る睫毛。付け爪から伸びる細い指先。没頭するあまり、結い上げた髪がはらりと一筋崩れる瞬間――。
思い浮かべてしまったそれらに、琴とは何の関係もないではないかと頭を振る。
どうにも、最近ふとした拍子に彼女のことを思い出すことが増えてしまった。
「公路様も――」
硬い声音。それでも出会ったときよりは棘はない。ただひたすら真っ直ぐな性格故のものなのだろうと、彼女のことが少しわかり始めていた。
「琴も弾けぬ女子は、駄目だと思われますか?」
じっと見つめられる。その瞳が不安そうに揺れたように見えて、思わず息が詰まった。
「――私は、」
手元の茶器を握りしめる手に、汗が滲むのがわかった。何故、こんなにも緊張しているのかわけがわからない。
「弾ける、弾けぬよりも――。その、どれだけ懸命に向き合えるかどうかの方が、大事だと思うが」
言い終え、どっと早まった心臓に動揺し、一気に茶を煽る。彼女の方を見ていられなかったが、ちらと視界の端に映った顔は。――少し、赤かったように思う。
その日からだろうか。
日がな一日。朝も昼も夜も。
家にいてもいなくても、琴の音が聞こえても聞こえなくても。
ふとした拍子に彼女のことを思い浮かべてしまう。
一日一回の手ほどきの時間が、待ち遠しいとさえ思う。
今日の分は、すでに今朝方終えてしまった。
だから、今これから向かう理由を、彼女の前に出るまでに考えておかねばらない。
『常春の花園』 #公路 #夢
夢主視点です。名前変換はありません。
2話で完結です。
****************
そこそこ裕福で名のある家に生まれたので、笑ってさえいえれば何不自由なく暮らせた。
どんなに面倒なことでも、笑えば何とかなった。わからないと無知を装えば事が済んだ。
だから、彼に初めて会ったときは驚いたのだ。こんなにも笑わない人がいるのかと。普通は笑いかければ多少は相好を崩すものだというのに、逆に彼は眉間の皺を深くした。
彼に会う頻度がそう多かったわけではないけれど、会うたびに増えそうな眉間の皺も、言葉数の少なさも、そう大して気にはならなかった。
多分、表情は硬くても、私の話は聞いてくれる人だったからかもしれない。
それから。
『兄』のことを話すときだけは、とても柔らかく笑う人だったから、かもしれない。
◆◆◆
公路様はその日、いつもよりも険しい顔をしていた。気持ちはわからないでもない。
今日は、私と公路様の婚儀の日。
着慣れない服が嫌なのかしら。それとも賓客の相手をするのが面倒なのかしら。はたまた、この婚儀自体が嫌なのか――。
贅を尽くした婚儀を前に、『いつも笑ってばかり』と言われる私もさすがに顔が引きつりそうだった。あとこれを数日も続けるのかと思うと、漏れそうになるため息を堪えるだけで精一杯だ。
それにしても、と思う。この人のお顔が険しいのは元からだけれど、あまりにも不機嫌そうな態度を隠そうともしない。もしかしたら私に思う所があるのかもしれない――。
婚儀は長いし、いくら家同士で決められたものとはいえ、これから共に暮らすことになる人だ。奥の部屋へ一度控えた際に、意を決して訊ねた。
「……お疲れですか?」
彼は眉間の皺そのままにこちらを向いた。
「何故ですか」
「……その、何か、苦々しい顔をしておいでなので」
その言葉に、ああ、と彼はため息をこぼした。整えられた前髪を掻きあげようとして――崩してはならぬと思ったのか、そのまま手を下げた。
「疲れているわけではないのですが」
「……はい」
ということは何か不満があるのだろうか。今まで不機嫌そうな顔をしていたことはあれど、彼から私に対して小言を漏らすようなことはなかっただけに、自然と息を詰めた。
彼はもう一度大きなため息をつき、とても嫌そうな声で話し出した。
「あなたのその美しい姿を、婚儀とはいえ見せなければいけないのが腹立たしいだけです」
あまりにも予想外の言葉に、一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。
「? どうかしましたか」
「え、あ、いえ……」
涼し気な、いつも通りの彼の顔を見ることが難しくなってきた。指先が冷え、代わりに頬が熱くなるのがわかる。さっきの言葉が聞き間違いでなければ、彼が私のことを――。まるで、好いているようではないか。
「あの――」
何と聞くべきだろうか。
「……私の衣装、似合って、おりますか?」
「は!?」
ものすごく驚かれてしまったものだから、ぱたぱたと手と首を振る。
「いや、その……!」
大した意味はなくて、と続けようとしたところで、彼が答えた。
「――まあ、はい」
それだけ絞り出すように、頬を染めて。この人は、誰なのだろう。先ほど感じた気恥ずかしさも忘れて、思わず首を傾げてしまった。
「……あ、あの、公路様もとてもお似合いで」
「私はどうでもいいです」
にべもなく返され、ああいつもの彼だ、と思ったら何だかおかしくてくすりと笑ってしまった。
「……」
「あ、すみません」
「いえ」
じっと私を見つめたかと思うと、彼がふわりと笑った。
「やっと、笑ってくれたので」
「……やっと?」
彼の笑みと、意味の分からない言葉に呆ける。私は朝からずっと笑っているのだけれど。
「婚儀が嫌なのかと思っていました」
「そんな……」
嫌だなどと、そんなことはどうでもいいのではないだろうか。これは家同士が決めたもので、そこに私たちの意思は関係がないはずで。そういうことを気にする人だとは思っていなかったから、思わず本音が漏れてしまった。
「――私、いつも笑ってますよね?」
その言葉に、彼は不思議そうに眼を瞬かせた。
「そうですか?」
「公路様。奥方様。そろそろお時間が――」
不意に外から声をかけられ、婚儀の最中であったことを思い出した。慌てて鏡に向き合い確認を終えたところで、彼が傍に立った。
「行きましょうか」
私に目を合わせ、手を差し出される。彼の目尻がほんの少し下がっていて、ああそうかと胸が痛くなった。
この人が、こんな風に笑うことがある。特に彼の“兄”の話をするときだ。
本当に兄を慕っていることが伝わってくるその姿が、――私は好きだった。
今更。本当に今更、彼からの好意を自覚して、気づいた。
今まで何度も顔を合わせ言葉を交わしたのに。形ばかりの婚姻だと、それ以上踏み込むことが怖くて、何も見ようとせず蓋をして。この人からの好意に気づかなければ、私はその他大勢と同じように、公路様を扱うところだった。
彼の顔をしっかりと見上げる。いつもはきつく見える眼差しが、とても優しく見えるのは、彼のことを好きだと自覚したからだろうか。
――今からでも、遅くないだろうか。
「公路様と一緒になれて、嬉しいです」
彼はその言葉に呆けた後、瞬く間に顔を真っ赤に染め上げた。
「本当に、嬉しいです」
もっと、早くに気づいていたら良かった。そうしたら、今この時がもっと幸せだったかもしれないのに。もっと、この人のことを思って生きる時間が長くなったかもしれないのに。
耐えきれなくなったように目線を逸らした彼に、胸の辺りが締め付けられるようだった。こんな風に誰かを想うことがあるなど、思いもしなかった。
扉が外から開けられ、名前を呼ばれる。差し出されたままだった手を取ろうとしたところで公路様が何かを言った。
「え?」
「――私も、嬉しいです」
たった、その一言に。先ほどの比ではないほど胸が痛んだ。
――良かった。今日、まだほんの少しだけれど。この人に向き合えて良かったと、彼の冷たい手を取りながら心から思った。
◆◆◆
「ですから、それは日用品の類でしょう」
夫が、眉を顰めて咎めるような声を出す。夫婦になってから口調は気安いものに変わったけれど、たまにこうして出会った頃のような話し方に戻ることがある。感情的になると、特にそうだ。
「以前は墨が良いと言うし」
「ええ。とても良い墨でした。やはり公路様に頂いたものが一番ですわ」
「そ、それは良かった――ではなくて、私は!」
思わず荒げてしまった声に気づき、気まずそうに視線を逸らす。その姿すら愛しくて、頬が思わず緩む。
「袁家として相応しい装いに関しては、もう十分足りていますもの。むしろ使い切れないほどですわ」
年に数回ほど、贈り物に何が欲しいかを訊ねられることがある。夫婦になる前からを数えると、何度目かのやりとり。その度に彼はこうして難しい顔をする。
「……でも」
「それより、毎日使うものが良いんです」
「……」
不服そうに口を尖らせ、そして息を吐く。きっと彼は『わかりました』と言うだろう。
「……わかりました。筆、ですね」
「はい。ありがとうございます」
予想通りの返事に笑いを堪えつつ、きっと心の限りを尽くした品が贈られるのだろう、と思った。
「実用重視の、使いやすいものでお願いします」
「……」
「あ、公路様とお揃いの物がいいです」
「……はあ。わかった」
贈りたいものがあるのならば、訊かずに押し付けてしまう方法だってあるだろうに、彼は律儀に欲しいものを訊ねる。『私が本当に欲しいものではないと意味がない』と、いつだったか言われたことがある。
こうして、言葉の端々に彼からの愛情を感じるのだ。言葉だけではない。目線も、表情も。気づいてしまえば、存外彼は表現豊かな人だった。
「お茶にしましょうか」
「ああ、頼む」
お茶に誘えば、柔らかな笑みが返ってくる。私の淹れるものを好いてくれるのがわかる。
そうして一口飲んで、何度も聞いたことのある彼の“本音”が漏れた。
「……お前の淹れる茶はうまいな」
初めてこの人からの好意に気づいたときと同じように、零れた言葉。本人も気づいていない、本当の言葉。
「……何を笑っている」
「ふふ。秘密です」
言葉に、声音に、表情に。意図せず表れる彼の心が見えるとき。
あなたのことを好きになったことを思い出して、その度に幸せが溢れる。
まだ、私だけの宝物にしておきたくて、今日も笑って誤魔化した。
夢主視点です。名前変換はありません。
2話で完結です。
****************
そこそこ裕福で名のある家に生まれたので、笑ってさえいえれば何不自由なく暮らせた。
どんなに面倒なことでも、笑えば何とかなった。わからないと無知を装えば事が済んだ。
だから、彼に初めて会ったときは驚いたのだ。こんなにも笑わない人がいるのかと。普通は笑いかければ多少は相好を崩すものだというのに、逆に彼は眉間の皺を深くした。
彼に会う頻度がそう多かったわけではないけれど、会うたびに増えそうな眉間の皺も、言葉数の少なさも、そう大して気にはならなかった。
多分、表情は硬くても、私の話は聞いてくれる人だったからかもしれない。
それから。
『兄』のことを話すときだけは、とても柔らかく笑う人だったから、かもしれない。
◆◆◆
公路様はその日、いつもよりも険しい顔をしていた。気持ちはわからないでもない。
今日は、私と公路様の婚儀の日。
着慣れない服が嫌なのかしら。それとも賓客の相手をするのが面倒なのかしら。はたまた、この婚儀自体が嫌なのか――。
贅を尽くした婚儀を前に、『いつも笑ってばかり』と言われる私もさすがに顔が引きつりそうだった。あとこれを数日も続けるのかと思うと、漏れそうになるため息を堪えるだけで精一杯だ。
それにしても、と思う。この人のお顔が険しいのは元からだけれど、あまりにも不機嫌そうな態度を隠そうともしない。もしかしたら私に思う所があるのかもしれない――。
婚儀は長いし、いくら家同士で決められたものとはいえ、これから共に暮らすことになる人だ。奥の部屋へ一度控えた際に、意を決して訊ねた。
「……お疲れですか?」
彼は眉間の皺そのままにこちらを向いた。
「何故ですか」
「……その、何か、苦々しい顔をしておいでなので」
その言葉に、ああ、と彼はため息をこぼした。整えられた前髪を掻きあげようとして――崩してはならぬと思ったのか、そのまま手を下げた。
「疲れているわけではないのですが」
「……はい」
ということは何か不満があるのだろうか。今まで不機嫌そうな顔をしていたことはあれど、彼から私に対して小言を漏らすようなことはなかっただけに、自然と息を詰めた。
彼はもう一度大きなため息をつき、とても嫌そうな声で話し出した。
「あなたのその美しい姿を、婚儀とはいえ見せなければいけないのが腹立たしいだけです」
あまりにも予想外の言葉に、一瞬、彼が何を言ったのかわからなかった。
「? どうかしましたか」
「え、あ、いえ……」
涼し気な、いつも通りの彼の顔を見ることが難しくなってきた。指先が冷え、代わりに頬が熱くなるのがわかる。さっきの言葉が聞き間違いでなければ、彼が私のことを――。まるで、好いているようではないか。
「あの――」
何と聞くべきだろうか。
「……私の衣装、似合って、おりますか?」
「は!?」
ものすごく驚かれてしまったものだから、ぱたぱたと手と首を振る。
「いや、その……!」
大した意味はなくて、と続けようとしたところで、彼が答えた。
「――まあ、はい」
それだけ絞り出すように、頬を染めて。この人は、誰なのだろう。先ほど感じた気恥ずかしさも忘れて、思わず首を傾げてしまった。
「……あ、あの、公路様もとてもお似合いで」
「私はどうでもいいです」
にべもなく返され、ああいつもの彼だ、と思ったら何だかおかしくてくすりと笑ってしまった。
「……」
「あ、すみません」
「いえ」
じっと私を見つめたかと思うと、彼がふわりと笑った。
「やっと、笑ってくれたので」
「……やっと?」
彼の笑みと、意味の分からない言葉に呆ける。私は朝からずっと笑っているのだけれど。
「婚儀が嫌なのかと思っていました」
「そんな……」
嫌だなどと、そんなことはどうでもいいのではないだろうか。これは家同士が決めたもので、そこに私たちの意思は関係がないはずで。そういうことを気にする人だとは思っていなかったから、思わず本音が漏れてしまった。
「――私、いつも笑ってますよね?」
その言葉に、彼は不思議そうに眼を瞬かせた。
「そうですか?」
「公路様。奥方様。そろそろお時間が――」
不意に外から声をかけられ、婚儀の最中であったことを思い出した。慌てて鏡に向き合い確認を終えたところで、彼が傍に立った。
「行きましょうか」
私に目を合わせ、手を差し出される。彼の目尻がほんの少し下がっていて、ああそうかと胸が痛くなった。
この人が、こんな風に笑うことがある。特に彼の“兄”の話をするときだ。
本当に兄を慕っていることが伝わってくるその姿が、――私は好きだった。
今更。本当に今更、彼からの好意を自覚して、気づいた。
今まで何度も顔を合わせ言葉を交わしたのに。形ばかりの婚姻だと、それ以上踏み込むことが怖くて、何も見ようとせず蓋をして。この人からの好意に気づかなければ、私はその他大勢と同じように、公路様を扱うところだった。
彼の顔をしっかりと見上げる。いつもはきつく見える眼差しが、とても優しく見えるのは、彼のことを好きだと自覚したからだろうか。
――今からでも、遅くないだろうか。
「公路様と一緒になれて、嬉しいです」
彼はその言葉に呆けた後、瞬く間に顔を真っ赤に染め上げた。
「本当に、嬉しいです」
もっと、早くに気づいていたら良かった。そうしたら、今この時がもっと幸せだったかもしれないのに。もっと、この人のことを思って生きる時間が長くなったかもしれないのに。
耐えきれなくなったように目線を逸らした彼に、胸の辺りが締め付けられるようだった。こんな風に誰かを想うことがあるなど、思いもしなかった。
扉が外から開けられ、名前を呼ばれる。差し出されたままだった手を取ろうとしたところで公路様が何かを言った。
「え?」
「――私も、嬉しいです」
たった、その一言に。先ほどの比ではないほど胸が痛んだ。
――良かった。今日、まだほんの少しだけれど。この人に向き合えて良かったと、彼の冷たい手を取りながら心から思った。
◆◆◆
「ですから、それは日用品の類でしょう」
夫が、眉を顰めて咎めるような声を出す。夫婦になってから口調は気安いものに変わったけれど、たまにこうして出会った頃のような話し方に戻ることがある。感情的になると、特にそうだ。
「以前は墨が良いと言うし」
「ええ。とても良い墨でした。やはり公路様に頂いたものが一番ですわ」
「そ、それは良かった――ではなくて、私は!」
思わず荒げてしまった声に気づき、気まずそうに視線を逸らす。その姿すら愛しくて、頬が思わず緩む。
「袁家として相応しい装いに関しては、もう十分足りていますもの。むしろ使い切れないほどですわ」
年に数回ほど、贈り物に何が欲しいかを訊ねられることがある。夫婦になる前からを数えると、何度目かのやりとり。その度に彼はこうして難しい顔をする。
「……でも」
「それより、毎日使うものが良いんです」
「……」
不服そうに口を尖らせ、そして息を吐く。きっと彼は『わかりました』と言うだろう。
「……わかりました。筆、ですね」
「はい。ありがとうございます」
予想通りの返事に笑いを堪えつつ、きっと心の限りを尽くした品が贈られるのだろう、と思った。
「実用重視の、使いやすいものでお願いします」
「……」
「あ、公路様とお揃いの物がいいです」
「……はあ。わかった」
贈りたいものがあるのならば、訊かずに押し付けてしまう方法だってあるだろうに、彼は律儀に欲しいものを訊ねる。『私が本当に欲しいものではないと意味がない』と、いつだったか言われたことがある。
こうして、言葉の端々に彼からの愛情を感じるのだ。言葉だけではない。目線も、表情も。気づいてしまえば、存外彼は表現豊かな人だった。
「お茶にしましょうか」
「ああ、頼む」
お茶に誘えば、柔らかな笑みが返ってくる。私の淹れるものを好いてくれるのがわかる。
そうして一口飲んで、何度も聞いたことのある彼の“本音”が漏れた。
「……お前の淹れる茶はうまいな」
初めてこの人からの好意に気づいたときと同じように、零れた言葉。本人も気づいていない、本当の言葉。
「……何を笑っている」
「ふふ。秘密です」
言葉に、声音に、表情に。意図せず表れる彼の心が見えるとき。
あなたのことを好きになったことを思い出して、その度に幸せが溢れる。
まだ、私だけの宝物にしておきたくて、今日も笑って誤魔化した。
『春が来るまでには』 #公路 #夢
オリジナルの夢主。名前なしのため変換はありません。
****************
「なあ、あいつは大丈夫なのか?」
渋い顔をしながらも、結局茶に付き合ってから帰った公路の背中が見えなくなったところで、孟卓が話し始めた。
「大丈夫、とは」
「嫁のことだろ。娘が生まれたとかなんとかは聞いたが――。それ以外はとんと話を聞かない」
孟徳の言葉に、数回会ったことのある彼女――公路の嫁――の顔を思い浮かべる。柔らかな雰囲気によく似合った衣や小物を身に着けているのが印象的だった。
「趣味の良い娘だぞ」
「お前はよく会うんだろ」
「それはまあ、本家に行けば顔を合わせないこともない程度だが。婚儀の時も入れて三回ほどだな」
「――あいつが婚儀をあげたのは二年前だが?」
「従兄弟でさえその程度か」
やれやれ、と二人がため息をついた。
「婚儀の時の不機嫌そうな顔しか印象に残ってないんだよな、俺は」
「ああ、あれは笑ったな」
そうだっただろうか、と記憶を巡らせるけれど、弟の晴れ姿が嬉しかったことしか思い出せない。兄上より先に申し訳ない、と苦い顔をさせてしまったことは心が痛んだので覚えているが。
「別に嫁が出来たからといって何も変わらなかっただろう。話題にも上らない。かといって次を娶る気配もない」
「それを言うなら本初の方が問題だけどな」
「……私のことはいいだろう。そんなに心配なら聞いておこうか」
「やめとけ、やめとけ。機嫌を損ねるだけだ。どうせまた一人嫁を迎えるから聞いただけだろう、孟卓」
「ああ。公路の嫁と遠縁らしくてな――」
それから話は流れ、時折二人の笑い声が東屋に反響する。
耳を澄ませば鳥のさえずりが響き、茶を口に含めば豊かな香りが広がる。
実に穏やかな昼下がりだった。
◆◆◆
幼い頃は、兄上のことを本当に“兄”だと思っていた。兄弟とは大抵は同じ場所に住むものだと知った頃、兄上は“兄”ではなかったことを理解した。
しかし血の繋がりが半分だろうが、優しく聡明なあの人を尊敬していたから、周りに何と言われようが呼び方を改める気にはなれなかった。
誰も彼も私の前では兄の陰口を、私がいないところでは私の陰口を言う。皆どちらにつくべきかを見計らい、愛想笑いを浮かべ、本当に信じられるのは嘘偽りを述べることのできない兄だけだった。
――彼女に会うまでは。
「あら、お帰りなさいませ」
「……ただいま戻った」
自室の前まで来たところで、足音を聞きつけたのだろう。いつものように彼女が戸を開け顔を覗かせた。まるで春の木漏れ日のような柔らかな笑顔に、肩の力が抜ける。
「今日はお早いのですね」
「ああ、まあ……。兄上たちと、――その、少し話をしただけだ」
「そうなのですか。お茶になさいますか?」
「ああ、頼む」
頷けば彼女がふわりと笑い――、急にむっと眉根を寄せた。
「公路様」
「な、なんだ」
「兄君とお会いになられたのなら、お茶を召し上がっているのではありませんか?」
「う、まあ、少し――」
「ではお茶はやめておきましょう」
「いやでも」
「あまり飲みすぎてはなりませんよ。代わりに私の自慢話に付き合ってくださいませ」
ね、と小首を傾げられれば、頷くほかない。
茶など、どこで誰と飲もうが同じだと、そう思っていたのに。彼女が淹れるものだけは、特別だと思う。やはり断って帰れば良かったと、今更の後悔をする。
「今日はやっと衣に入れていた刺繍が完成したのです。もう嬉しくて」
彼女の部屋へと招き入れられる。どの部屋も一流と呼ばれるような細工の家具をそろえてはいるが、どこか薄ら寒いと常々思っていた。けれども、彼女の部屋だけは違う。色とりどりの小物のせいだろうか。それとも彼女自ら手を加えたものが並んでいるからだろうか。どれも、彼女が愛情をもって手入れをしているのがわかる。
自室よりも、妻の部屋にいる方が好きだった。
「ほら、見てください」
「……これはすごい」
正直、すごいということしかわからない。自分には到底できる芸当ではないことは確かだ。蝶が数匹、小さな衣の裾に舞っている。
「あの子、蝶が好きなのかよく目で追いかけているのですよ」
「……なるほど」
娘のことを思い浮かべたからだろう。彼女の目尻が一層下がる。
兄上なら、この刺繍をいかに素晴らしいのか言葉を尽くして伝えることができるのだろう。きっと、この蝶の種類まで当ててしまうとさえ思う。
「喜ぶだろうな」
まだ最近寝返りを打てるようになったばかりの娘が、これを理解できるとは到底思えなかった。けれど、嫁の笑顔を見ていると、そうであったらいいなと心から思う。
ふと、妻の視線を感じて顔をあげる。
「どうした」
「いえ」
何だかとても嬉しそうに、くすくすと笑いだす。
「……何だ」
「秘密です」
彼女は、よくそう言っては嬉しそうに笑う。否、嬉しそうにしているときに『秘密』だと口にする。これが彼女以外ならとても受け入れがたいことだろうが――。
目を細めて穏やかにそう言われれば、追及する気にはなれなかった。と同時に、この謎めいたやりとりのくすぐったさを、好ましいと思う自分がいる。
彼女だけは、特別なのだ。何においても。
「――でも、あまり無理はしないように。産後の肥立ちが良かったとはいえ、そんなに働いていいものではない」
「はい」
つい生来のきつい言い方になっても、彼女は変わらず笑って返す。あの頃から同じ、凍てついた心が溶けるような笑みを浮かべて。
彼女の笑顔を初めて見たのは、兄の話をしたときだった。
“こちら側”に着くといち早く決断した彼女の父によって早々に決められた婚姻。許嫁になったと顔合わせをした初めての日に出会った彼女は、他の者と同じだけれど少し違う笑みを浮かべていた。
愛想笑いには違いなかったが、私だからというよりも、誰に対してもそうしているようだった。
数回顔も合わせれば話題も尽きる。ちょうどそこに、兄の部屋で聞いたことのある鳥の鳴き声がした。彼女があっという間にその種別を当ててしまったので、思わず兄の話をしたのだった。
兄のことは変わらず尊敬していたが、兄の話になると皆一様に困ったようにする。仕方のないことだ。わかってはいても不快なことには変わりない。だから極力話さないようにしていたというのに、その時は兄と同じく鳥に詳しい彼女に対して気が緩んでいたのだろう。
『兄君のことを尊敬していらっしゃるのですね』
話し終えた私に対し、彼女はいつもと違う柔らかな笑みを浮かべた。
彼女のことを、初めて意識した瞬間だった。
「公路様?」
呼びかけられ、目の前の彼女に慌てて意識を戻す。
「どうかなさいました?」
「……昔のことを思い出していた」
「まあ、いつのことでしょう」
彼女が今のように笑うようになったのは、夫婦になってからだ。何がそうさせたのかはわからないが、今こうして笑う彼女の笑顔を見る限り、幸せにできているのだろうとは思う。
他人をあまり信じられない自分がそう思えるほど、彼女は全身で、言葉を尽くして愛情を伝えてくれているというのに。
自分は何一つ好意を伝えたことがない。
正式に許嫁になることが決まったときに。婚儀をあげることが決まったときに。共に過ごすことになったときに。娘が生まれたときに――。
機会はいくらでもあったというのに。それでも彼女は変わらず私の傍にいる。
「お前と出会ったときのことを」
彼女が少し目を見開いて、そして相好を崩した。
いつか。――いつか。
与えられたものを彼女に返したいと、想いばかりが降り積もる。
オリジナルの夢主。名前なしのため変換はありません。
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「なあ、あいつは大丈夫なのか?」
渋い顔をしながらも、結局茶に付き合ってから帰った公路の背中が見えなくなったところで、孟卓が話し始めた。
「大丈夫、とは」
「嫁のことだろ。娘が生まれたとかなんとかは聞いたが――。それ以外はとんと話を聞かない」
孟徳の言葉に、数回会ったことのある彼女――公路の嫁――の顔を思い浮かべる。柔らかな雰囲気によく似合った衣や小物を身に着けているのが印象的だった。
「趣味の良い娘だぞ」
「お前はよく会うんだろ」
「それはまあ、本家に行けば顔を合わせないこともない程度だが。婚儀の時も入れて三回ほどだな」
「――あいつが婚儀をあげたのは二年前だが?」
「従兄弟でさえその程度か」
やれやれ、と二人がため息をついた。
「婚儀の時の不機嫌そうな顔しか印象に残ってないんだよな、俺は」
「ああ、あれは笑ったな」
そうだっただろうか、と記憶を巡らせるけれど、弟の晴れ姿が嬉しかったことしか思い出せない。兄上より先に申し訳ない、と苦い顔をさせてしまったことは心が痛んだので覚えているが。
「別に嫁が出来たからといって何も変わらなかっただろう。話題にも上らない。かといって次を娶る気配もない」
「それを言うなら本初の方が問題だけどな」
「……私のことはいいだろう。そんなに心配なら聞いておこうか」
「やめとけ、やめとけ。機嫌を損ねるだけだ。どうせまた一人嫁を迎えるから聞いただけだろう、孟卓」
「ああ。公路の嫁と遠縁らしくてな――」
それから話は流れ、時折二人の笑い声が東屋に反響する。
耳を澄ませば鳥のさえずりが響き、茶を口に含めば豊かな香りが広がる。
実に穏やかな昼下がりだった。
◆◆◆
幼い頃は、兄上のことを本当に“兄”だと思っていた。兄弟とは大抵は同じ場所に住むものだと知った頃、兄上は“兄”ではなかったことを理解した。
しかし血の繋がりが半分だろうが、優しく聡明なあの人を尊敬していたから、周りに何と言われようが呼び方を改める気にはなれなかった。
誰も彼も私の前では兄の陰口を、私がいないところでは私の陰口を言う。皆どちらにつくべきかを見計らい、愛想笑いを浮かべ、本当に信じられるのは嘘偽りを述べることのできない兄だけだった。
――彼女に会うまでは。
「あら、お帰りなさいませ」
「……ただいま戻った」
自室の前まで来たところで、足音を聞きつけたのだろう。いつものように彼女が戸を開け顔を覗かせた。まるで春の木漏れ日のような柔らかな笑顔に、肩の力が抜ける。
「今日はお早いのですね」
「ああ、まあ……。兄上たちと、――その、少し話をしただけだ」
「そうなのですか。お茶になさいますか?」
「ああ、頼む」
頷けば彼女がふわりと笑い――、急にむっと眉根を寄せた。
「公路様」
「な、なんだ」
「兄君とお会いになられたのなら、お茶を召し上がっているのではありませんか?」
「う、まあ、少し――」
「ではお茶はやめておきましょう」
「いやでも」
「あまり飲みすぎてはなりませんよ。代わりに私の自慢話に付き合ってくださいませ」
ね、と小首を傾げられれば、頷くほかない。
茶など、どこで誰と飲もうが同じだと、そう思っていたのに。彼女が淹れるものだけは、特別だと思う。やはり断って帰れば良かったと、今更の後悔をする。
「今日はやっと衣に入れていた刺繍が完成したのです。もう嬉しくて」
彼女の部屋へと招き入れられる。どの部屋も一流と呼ばれるような細工の家具をそろえてはいるが、どこか薄ら寒いと常々思っていた。けれども、彼女の部屋だけは違う。色とりどりの小物のせいだろうか。それとも彼女自ら手を加えたものが並んでいるからだろうか。どれも、彼女が愛情をもって手入れをしているのがわかる。
自室よりも、妻の部屋にいる方が好きだった。
「ほら、見てください」
「……これはすごい」
正直、すごいということしかわからない。自分には到底できる芸当ではないことは確かだ。蝶が数匹、小さな衣の裾に舞っている。
「あの子、蝶が好きなのかよく目で追いかけているのですよ」
「……なるほど」
娘のことを思い浮かべたからだろう。彼女の目尻が一層下がる。
兄上なら、この刺繍をいかに素晴らしいのか言葉を尽くして伝えることができるのだろう。きっと、この蝶の種類まで当ててしまうとさえ思う。
「喜ぶだろうな」
まだ最近寝返りを打てるようになったばかりの娘が、これを理解できるとは到底思えなかった。けれど、嫁の笑顔を見ていると、そうであったらいいなと心から思う。
ふと、妻の視線を感じて顔をあげる。
「どうした」
「いえ」
何だかとても嬉しそうに、くすくすと笑いだす。
「……何だ」
「秘密です」
彼女は、よくそう言っては嬉しそうに笑う。否、嬉しそうにしているときに『秘密』だと口にする。これが彼女以外ならとても受け入れがたいことだろうが――。
目を細めて穏やかにそう言われれば、追及する気にはなれなかった。と同時に、この謎めいたやりとりのくすぐったさを、好ましいと思う自分がいる。
彼女だけは、特別なのだ。何においても。
「――でも、あまり無理はしないように。産後の肥立ちが良かったとはいえ、そんなに働いていいものではない」
「はい」
つい生来のきつい言い方になっても、彼女は変わらず笑って返す。あの頃から同じ、凍てついた心が溶けるような笑みを浮かべて。
彼女の笑顔を初めて見たのは、兄の話をしたときだった。
“こちら側”に着くといち早く決断した彼女の父によって早々に決められた婚姻。許嫁になったと顔合わせをした初めての日に出会った彼女は、他の者と同じだけれど少し違う笑みを浮かべていた。
愛想笑いには違いなかったが、私だからというよりも、誰に対してもそうしているようだった。
数回顔も合わせれば話題も尽きる。ちょうどそこに、兄の部屋で聞いたことのある鳥の鳴き声がした。彼女があっという間にその種別を当ててしまったので、思わず兄の話をしたのだった。
兄のことは変わらず尊敬していたが、兄の話になると皆一様に困ったようにする。仕方のないことだ。わかってはいても不快なことには変わりない。だから極力話さないようにしていたというのに、その時は兄と同じく鳥に詳しい彼女に対して気が緩んでいたのだろう。
『兄君のことを尊敬していらっしゃるのですね』
話し終えた私に対し、彼女はいつもと違う柔らかな笑みを浮かべた。
彼女のことを、初めて意識した瞬間だった。
「公路様?」
呼びかけられ、目の前の彼女に慌てて意識を戻す。
「どうかなさいました?」
「……昔のことを思い出していた」
「まあ、いつのことでしょう」
彼女が今のように笑うようになったのは、夫婦になってからだ。何がそうさせたのかはわからないが、今こうして笑う彼女の笑顔を見る限り、幸せにできているのだろうとは思う。
他人をあまり信じられない自分がそう思えるほど、彼女は全身で、言葉を尽くして愛情を伝えてくれているというのに。
自分は何一つ好意を伝えたことがない。
正式に許嫁になることが決まったときに。婚儀をあげることが決まったときに。共に過ごすことになったときに。娘が生まれたときに――。
機会はいくらでもあったというのに。それでも彼女は変わらず私の傍にいる。
「お前と出会ったときのことを」
彼女が少し目を見開いて、そして相好を崩した。
いつか。――いつか。
与えられたものを彼女に返したいと、想いばかりが降り積もる。
もし花ちゃんが雲長ルートでなかったら……を思うと居ても立っても居られず書いた救済のつもりの夢でした。
****************
彼はどこから来たのだろう。ふと、そんなことを考えてしまうことがある。
夫の関雲長。生まれた場所は勿論知っている。出自が怪しい男なわけではない。あの劉玄徳の義兄弟で、身分もはっきりとしている。そして、どこか懐かしい人――。
それなのに。時折彼がこの世の人ではないような不思議な感覚に陥るのだ。
門番に名を告げ、城内へと入れてもらう。今の時間は部屋にいるだろうか――。とりあえず寄って、不在ならば荷を置いていこう。滅多に来ない城内へと足を踏み入れたのは、これまた珍しく夫が忘れ物をしたためである。
迷いのない足取りで夫の部屋へと向かう曲がり角に差し掛かった際、前から少女がやってくるのが見えた。
「――っ」
思わず、息を呑んだ。
「あの?」
「えっ」
「荷物、落とされましたよ?」
「あ、あぁ、ありがとうございます」
――似ている。
見目形の話ではない。雰囲気が。彼女のまとう空気が、夫のそれと酷似している。
いつの間にか落としてしまった荷を受け取りながら、心臓が早鐘の様に鳴り続ける。
「――お前。何故、ここに」
聞き慣れた声に現実に引き戻されると、夫が後ろに立っていた。
「……わ、すれ物を、」
「ああ。すまない。後で使いをやろうと思っていたところだった。助かった」
小さく笑った彼の顔をまともに見ることができず、震える手で荷を渡し「帰りますね」と小さく告げて踵を返した。
何も手に着かないまま過ごしたその日、いつもより少し早く帰ってきた夫と夕餉を取りながら、乱れそうになる声を押しとどめて尋ねた。
「昼間、見慣れない方がいたのですけれど……」
「……? ああ、軍師だ。花という」
「軍師……。珍しいお召し物でしたね」
「ああ。異国から来たらしい」
異国…。
――あなたと、同じ処から来たのでしょうか。
そう尋ねたくなる衝動を抑える。何故かそう確信していた。そうとしか思えなかった。
「どうかしたか」
「いえ……」
不思議そうにする雲長に笑うことで、言いようのない不安を打ち消そうとするが、無理だった。あなたが時折寂しそうなのは、故郷を想っているのだろうか。
あれから住む場所も何度か変わり、ほどなくして天下は三分され太平の世がやってきた。そんな折、あの花という少女が国に帰ったのだという話を夫が始めた。思わず綻びを繕うため針を進めていた手が止まる。
「お国に……」
「ああ」
一度会ったことがあっただろう、と言われ回らない頭で頷く。
「あなたは――」
「ん?」
「帰、らなくて、も……?」
夫が目を瞬かせて首を傾げた。
「いえ、その、……お国に――。お帰りには」
「あそこにはもう縁者も誰もいないしな。ここを統治する役目も仰せつかっている」
「そう、ですね……」
ほっとしている自分と、胃の底から何かがじわじわとせりあがるような感覚。ああ、これは私の醜い気持ちだ。
「それに、俺の帰るところはここだろう」
その、言葉に。今までつっかえていたものがあふれ出してしまった。
「お、おい、どうした」
「っ、ふっ」
ぽろぽろと後から後から涙が零れていく。止まらない。ついに肩を揺らして嗚咽するほど衝動は強くなり、夫が背中をさするのも気づかずに泣き続けた。
「何か、あったのか」
戸惑いつつも優しい声に首を振りながら、泣きすぎて声が出せないことに安心する。
貴方の幸せを一番に願うことのできない私は、今何を口走ってしまうかわからない。