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#伯巴
#三国恋戦記・今日は何の日
『バレンタイン』
三国恋戦記魁 伯符×巴(現パロ)
戦がなければ、日常の中にいる彼女ならば、こんな一面もあったかもしれないなという思いで書きました。多分続きます(書きたい……)。
****************
消えてなくならないものがいいなんて
息を吐けば、街灯の下で白く色づき、一瞬で消
えてしまう。
バタンとドアが閉まる音に、目当てのバスが到
着していたことを知る。これで何度バスを逃した
のだろうかと頭の片隅で考えた。
──いい加減、帰らなければ。
抱えていた鞄を持ち直し、立ち上がる。
バスを待つより、駅まで歩いた方がマシな気がしたためだ。
「なんだ、今帰りか」
背後からかけられた声に、頭の先からつま先まで緊張が走った。
振り返りたくなくて、でも無視するわけにもいかないと、意を決して後ろを向く。
予想通り、黒いマフラーを巻いた、伯符先輩がそこにいた。今朝見かけた姿と、まったく同じ――。その事実に、目を疑った。
「……お疲れ様です」
「ああ」
先輩はちらりとバス停の時計を確認し、軽くため息をつく。
「出たばかりか」
「……はい」
「駅まで歩くのか?」
「……そうしょうかなと」
「じゃあ行くか」
当然のように一緒に帰る流れに戸惑いつつも、別にこれが初めてではないし、と自分に言い聞かせる。
これに特別な意味なんて、ない。
先に歩き出してしまった彼の後ろを慌ててついて行きながら、冷え切った手を擦り合わせて間を埋める。
#三国恋戦記・今日は何の日
『バレンタイン』
三国恋戦記魁 伯符×巴(現パロ)
戦がなければ、日常の中にいる彼女ならば、こんな一面もあったかもしれないなという思いで書きました。多分続きます(書きたい……)。
****************
消えてなくならないものがいいなんて
息を吐けば、街灯の下で白く色づき、一瞬で消
えてしまう。
バタンとドアが閉まる音に、目当てのバスが到
着していたことを知る。これで何度バスを逃した
のだろうかと頭の片隅で考えた。
──いい加減、帰らなければ。
抱えていた鞄を持ち直し、立ち上がる。
バスを待つより、駅まで歩いた方がマシな気がしたためだ。
「なんだ、今帰りか」
背後からかけられた声に、頭の先からつま先まで緊張が走った。
振り返りたくなくて、でも無視するわけにもいかないと、意を決して後ろを向く。
予想通り、黒いマフラーを巻いた、伯符先輩がそこにいた。今朝見かけた姿と、まったく同じ――。その事実に、目を疑った。
「……お疲れ様です」
「ああ」
先輩はちらりとバス停の時計を確認し、軽くため息をつく。
「出たばかりか」
「……はい」
「駅まで歩くのか?」
「……そうしょうかなと」
「じゃあ行くか」
当然のように一緒に帰る流れに戸惑いつつも、別にこれが初めてではないし、と自分に言い聞かせる。
これに特別な意味なんて、ない。
先に歩き出してしまった彼の後ろを慌ててついて行きながら、冷え切った手を擦り合わせて間を埋める。
『冬』 #伯巴
魁四周年で書いたものの一つです。エンド後のお話。
****************
「一晩で結構積もりましたね」
ざくざくと足元の雪を踏みしめながら、巴が呟いた。
冬は面倒だ。狩りにはどうしても不利だし、その年の収穫具合によっては我慢を強いられる。寒さも厳しく、色々と制限がかかる。
空は鉛のように重い雲が陽の光を遮り、昼間だというのに暗い。そのせいで昨晩から振り続けた雪が溶けない。時折、どさりと雪の塊が屋根から落ちる以外は至って静かだ。
「転ぶなよ」
こうして床から出られるようになったとはいえ、巴はまだ本調子ではない。弓の鍛錬の代わりの散歩も、今日は冷え込むから止めろというのに聞かず、こうして城内を二人歩いている。
伯符さんって意外と心配性ですよね。そう言う彼女に誰のせいだと舌打ちを返せば、笑われた。以前と変わらぬ曇りのないその笑みに、俺がどれだけ安堵しているのか、彼女は知らない。知らなくて、良いと思う。
「そろそろ戻るか」
「まだ外に出たばかりですよ。雪だるま作りましょう」
そう言うなり俺の手を掴んだ暖かなその手に、少しならばと許容する。
「で、ゆきだるまとは何だ?」
「雪で作る人形ですよ」
俺の手を引く彼女はまるで子どものようだ。この冬の寒さも、彼女には大したことではないらしい。
「こうやって、こうして。段々大きくなりますよね」
「……ああ」
誰もまだ踏み入れていない雪を掴み、巴が〝ゆきだるま〟の説明を始める。似たようなものなら、幼い頃に作ったことがある。彼女は俺にも同じ物を作るよう指示をした。
雪に触れてみれば、意外と冷たさは感じない。ふと、遠くに暮らす弟や妹の所にも雪が降ったのだろうかと想いを馳せる。たとえ積もっていたとしても、もう雪遊びなどする年頃ではない。兄がこうして雪と戯れていることを知ったら何と言うだろうか。想像すると笑いを堪えきれなかった。
「……どうかしました?」
「いや、何でもない」
目を瞬かせるが、気にしないことにしたのだろう。ギシギシと軋む音を立てながら、巴が雪玉を転がし始めた。器用なものでそこそこ整った玉をあっという間に作ってしまう。ああ、あいつらも手先が器用だったな――。
弟妹が誇らしげに作った物を見せる様子を思い出し、懐かしさに目を細める。父も母も共に暮らしていたあの頃。まだ、冬が面倒だなどと思いもせず、こうして雪が積もれば、心躍らせていた幼き日。
「伯符さんの方は――」
物思いにふけっていると、あっという間に膝下ほどの大きさの雪玉を作った巴がこちらを振り返り、目を丸くした。
「何だ」
「あ、いえ……」
目を逸らし、口元を歪める。
「はっきり言っていいぞ」
「……意外と、その。――不器用なんです、ね」
手元にあるのは歪な雪の〝塊〟。巴と同じものを作ったようには見えないだろう。
「まあな」
堪えきれなくなった巴は、盛大に噴き出した。
「何だ、人の欠点がそんなに面白いか」
「だ、だって、そんな堂々と――」
巴は肩を震わせ、しゃがみこむ。不器用云々はどうでもいいが、涙まで滲ませられては、さすがに面白くない。だから目の前にある巴の頬を摘んだ。
「そこまで笑うか」
「い、いひゃいですって――。……あ」
伸ばされた頬を抑えた巴が、空を見上げた。その視線を追えば、風に流された雲が割れ、筋状になった白い光が降り注いでいた。周囲の雪も、届いた光によってきらきらと輝き始める。
思わず漏れた感嘆の吐息は白く、鼻の頭は痛いほど。先ほどまで平気だった手は、いつの間にかかじかんでいた。
けれど、その厳しさと共にある冬の美しさが、幼い頃は好きだったことを思い出した。いつの間にか、どこかに置いてきてしまったもの。
「――お前のお陰だな」
「……何の話ですか?」
彼女がいなければ見えなかった世界。それをそのまま伝えるのは難しく、何でもないと耳元で囁いた。
魁四周年で書いたものの一つです。エンド後のお話。
****************
「一晩で結構積もりましたね」
ざくざくと足元の雪を踏みしめながら、巴が呟いた。
冬は面倒だ。狩りにはどうしても不利だし、その年の収穫具合によっては我慢を強いられる。寒さも厳しく、色々と制限がかかる。
空は鉛のように重い雲が陽の光を遮り、昼間だというのに暗い。そのせいで昨晩から振り続けた雪が溶けない。時折、どさりと雪の塊が屋根から落ちる以外は至って静かだ。
「転ぶなよ」
こうして床から出られるようになったとはいえ、巴はまだ本調子ではない。弓の鍛錬の代わりの散歩も、今日は冷え込むから止めろというのに聞かず、こうして城内を二人歩いている。
伯符さんって意外と心配性ですよね。そう言う彼女に誰のせいだと舌打ちを返せば、笑われた。以前と変わらぬ曇りのないその笑みに、俺がどれだけ安堵しているのか、彼女は知らない。知らなくて、良いと思う。
「そろそろ戻るか」
「まだ外に出たばかりですよ。雪だるま作りましょう」
そう言うなり俺の手を掴んだ暖かなその手に、少しならばと許容する。
「で、ゆきだるまとは何だ?」
「雪で作る人形ですよ」
俺の手を引く彼女はまるで子どものようだ。この冬の寒さも、彼女には大したことではないらしい。
「こうやって、こうして。段々大きくなりますよね」
「……ああ」
誰もまだ踏み入れていない雪を掴み、巴が〝ゆきだるま〟の説明を始める。似たようなものなら、幼い頃に作ったことがある。彼女は俺にも同じ物を作るよう指示をした。
雪に触れてみれば、意外と冷たさは感じない。ふと、遠くに暮らす弟や妹の所にも雪が降ったのだろうかと想いを馳せる。たとえ積もっていたとしても、もう雪遊びなどする年頃ではない。兄がこうして雪と戯れていることを知ったら何と言うだろうか。想像すると笑いを堪えきれなかった。
「……どうかしました?」
「いや、何でもない」
目を瞬かせるが、気にしないことにしたのだろう。ギシギシと軋む音を立てながら、巴が雪玉を転がし始めた。器用なものでそこそこ整った玉をあっという間に作ってしまう。ああ、あいつらも手先が器用だったな――。
弟妹が誇らしげに作った物を見せる様子を思い出し、懐かしさに目を細める。父も母も共に暮らしていたあの頃。まだ、冬が面倒だなどと思いもせず、こうして雪が積もれば、心躍らせていた幼き日。
「伯符さんの方は――」
物思いにふけっていると、あっという間に膝下ほどの大きさの雪玉を作った巴がこちらを振り返り、目を丸くした。
「何だ」
「あ、いえ……」
目を逸らし、口元を歪める。
「はっきり言っていいぞ」
「……意外と、その。――不器用なんです、ね」
手元にあるのは歪な雪の〝塊〟。巴と同じものを作ったようには見えないだろう。
「まあな」
堪えきれなくなった巴は、盛大に噴き出した。
「何だ、人の欠点がそんなに面白いか」
「だ、だって、そんな堂々と――」
巴は肩を震わせ、しゃがみこむ。不器用云々はどうでもいいが、涙まで滲ませられては、さすがに面白くない。だから目の前にある巴の頬を摘んだ。
「そこまで笑うか」
「い、いひゃいですって――。……あ」
伸ばされた頬を抑えた巴が、空を見上げた。その視線を追えば、風に流された雲が割れ、筋状になった白い光が降り注いでいた。周囲の雪も、届いた光によってきらきらと輝き始める。
思わず漏れた感嘆の吐息は白く、鼻の頭は痛いほど。先ほどまで平気だった手は、いつの間にかかじかんでいた。
けれど、その厳しさと共にある冬の美しさが、幼い頃は好きだったことを思い出した。いつの間にか、どこかに置いてきてしまったもの。
「――お前のお陰だな」
「……何の話ですか?」
彼女がいなければ見えなかった世界。それをそのまま伝えるのは難しく、何でもないと耳元で囁いた。
『恋は盲目』 #伯巴
伯符×巴
エンド後のお話。大分いちゃいちゃさせました。
****************
「……いつまで笑ってるんですか」
不機嫌さを隠しもせず声音に乗せると、彼はそれすらもツボにはまったらしい。一際大きく肩を震わせた。
「あいつが言い負かされるところを初めて見たんだぞ」
これが笑わずにいられるか、と震える声を出す彼に、肩を怒らせて抗議する。
「言いまかしてなんかいません!」
悪夢を見なくなり、日常生活を以前と同じくらいに送れるようになっている。鈍っていた身体も、弓の鍛錬を再開することで少しずつましになってきているし、以前と遜色ないといえるほどの生活を送れるようになってきた。
婚儀の話も進み城中の誰からも祝福される中、義母、義弟や義妹となる人にも会った。何もなかったとはいわないが、最終的には伯符と連れ添うことを認めてくれ、何もかもうまくいくだろう――。というわけにはいかなかった。
伯符さんの親友である公瑾さんだけは、未だ婚儀をあげることに反対しているのだ。
顔を合わせれば必ず新たな問題点を突きつけられ、できるだけ改善しようと努力をしている。けれど、ついさっき〝あまりにも〟なことを言われ、思わずカッとなって言い返してしまった……。
あの時の公瑾さんの驚き丸くなった目を思い出しては、猛烈に反省しているというのに。二人の自室に帰っても、伯符さんに度々思いだし笑いをされては、後悔も倍に膨らんでいく。
「で、何を話していたんだ、あの時」
目尻に涙を浮かべるほど笑っている彼だが、目撃したのは公瑾さんが目を見開き唖然としている姿のみだったらしい。
ごく自然な動作で私の肩を抱き寄せながら問われ、思わず身体に力が入ってしまう。こうした接触は日常茶飯事なのだけれど、ちっとも慣れないし、それを面白がっている節が伯符さんにはある。それが不服で、顔を背けて答えた。
「……特にこれといっては」
「……」
「なんですか?」
いつもなら揶揄ってくるところなのにと見上げれば、彼は奇妙な顔をしていた。眉根を寄せ、けれど怒っているとも違う。――見たことのない表情だ。
「……伯符さん?」
「……ふむ」
何か一人納得したらしい彼が、おもむろに大きな手を私の頬に伸ばした。思わずぴくりと身体が揺れる。
じわりと伝わる伯符さんの体温よりも、自分の方が熱くなっていくのがわかる。それを知られたくなくて身を引こうとするけれど、肩に回されたままの手のせいで叶わない。
「あ、の」
「……存外」
低い、不満そうな声が落ちる。
「面白くないものだな」
「……?」
頬に触れられているせいで、首を傾げることもできない。何のことかと聞こうとした時、伯符さんの顔が近づき、唇を軽く合わせられた。
まさかそうくるとは思わず、一瞬呆けてしまった。ゆっくりと離れていく所で何が起きたのかを理解し距離を空けようとしたところで、再度力強く引き寄せられた。
今度は、先ほどよりも深く口付けられる。そして、下唇を軽く食まれた。
「っ!」
条件反射で強張った身体が気に食わないとでも言うように、伯符さんの舌が口内に侵入してくる。あっという間に舌を絡め取られて、背筋にぞくりと震えが走る。思わずきつく目を閉じると同時に声が漏れた。
「っ、ふっ」
頬に触れていた彼の手がいつの間にか後頭部に回っていて逃げられない。顔の向きすら彼の好きなようにされて、息をするのも忘れてしまう。
けれど、合わさった場所から鳴った水音に、思わず渾身の力で彼の胸を押した。そこでやっと解放する気になったらしい。反射的に大きく息を吸うと、後頭部を抑えていた手が離れ、代わりに私の髪をかき上げた。
「本当に慣れないな、お前は」
「っ、……急にするからですよ」
笑いを含んだ声音に、恥ずかしさのあまり俯いた。
未だ背に回された手からは、こちらを離す気がないのが伝わってくる。
この早鐘のように打つ心臓の音も聞かれているかもしれないと思うと、一刻も早く離れたい。――はずなのだけれど。彼の胸に抱え込まれているのは、何とも心地が良い。
相反する気持ちをどう処理したらいいのか迷っていると、今度は顎を捉えられる。強制的に目が合う形になり、思わず唇を引き結ぶ。
伯符さんが小さく笑いをこぼした。
「お前は本当にすごいな」
「……何の話ですか?」
「たったあれだけで妬かせるとは」
……妬かせる?
自身の顔の火照りが気になって、頭が回らない。理解していない様子の私を再度笑って、顎を捉えていた手を離して抱き寄せられた。彼の胸板に頬を預ける形になり、ようやく一心地つく。こうして抱きしめられるのは安心の方が勝るようになってきた。そしてそれは、伯符さんにもバレているのだろうと思う。
「あまりあいつと仲良くするな」
「……どこをどう見たらそうなるんですか」
心底嫌そうな声が出てしまう。
「まあ、いい」
優しく、甘さを含んだ声。次いで額に口付けを落とされた。
仲がどうとかいう件について答える気はないらしい。甘やかすことで誤魔化されているような気がして、思わず唇を尖らせてしまう。
「なんだ、不満そうだな?」
「……そういうわけでは」
「俺のことも言い負かしたっていいんだぞ」
「だから違うんですってば!」
声を荒げるが、彼はくつくつと笑うだけで聞き入れる気はないらしい。
悔しくて、彼の襟を掴む。
そう、悔しいのだ。ここまで彼を楽しそうにしてしまう、あの人の存在が。
伯符さんをこれからも死なせないために、私が出来ることは少ない。けれど、右腕である公瑾さんには力も知識もたくさんある。何より伯符さんが全幅の信頼を寄せる公瑾さんのことが、私は羨ましい――。
『あなたがいかに伯符に相応しくないか。わかっていても身を引かないのですか』
先ほど公瑾さんに言われた言葉がふわりと浮上する。
そんなの、自分が一番わかっている。けれど、こんなにも自分には足りないものばかりのくせに、私は〝その一点〟だけは揺るぎない自信を持っているのだ。
『それでもいいと、私を選んだのは伯符さんです。だから身を引く必要もありませんし、私にもその気はありません』
自分の言葉を思い出し、こっそりため息をつく。
彼が私を求めていること。それだけは揺るぎなく信じられるということが今更恥ずかしくて、伯符さんの胸元に縋り付くように頬を寄せた。
伯符×巴
エンド後のお話。大分いちゃいちゃさせました。
****************
「……いつまで笑ってるんですか」
不機嫌さを隠しもせず声音に乗せると、彼はそれすらもツボにはまったらしい。一際大きく肩を震わせた。
「あいつが言い負かされるところを初めて見たんだぞ」
これが笑わずにいられるか、と震える声を出す彼に、肩を怒らせて抗議する。
「言いまかしてなんかいません!」
悪夢を見なくなり、日常生活を以前と同じくらいに送れるようになっている。鈍っていた身体も、弓の鍛錬を再開することで少しずつましになってきているし、以前と遜色ないといえるほどの生活を送れるようになってきた。
婚儀の話も進み城中の誰からも祝福される中、義母、義弟や義妹となる人にも会った。何もなかったとはいわないが、最終的には伯符と連れ添うことを認めてくれ、何もかもうまくいくだろう――。というわけにはいかなかった。
伯符さんの親友である公瑾さんだけは、未だ婚儀をあげることに反対しているのだ。
顔を合わせれば必ず新たな問題点を突きつけられ、できるだけ改善しようと努力をしている。けれど、ついさっき〝あまりにも〟なことを言われ、思わずカッとなって言い返してしまった……。
あの時の公瑾さんの驚き丸くなった目を思い出しては、猛烈に反省しているというのに。二人の自室に帰っても、伯符さんに度々思いだし笑いをされては、後悔も倍に膨らんでいく。
「で、何を話していたんだ、あの時」
目尻に涙を浮かべるほど笑っている彼だが、目撃したのは公瑾さんが目を見開き唖然としている姿のみだったらしい。
ごく自然な動作で私の肩を抱き寄せながら問われ、思わず身体に力が入ってしまう。こうした接触は日常茶飯事なのだけれど、ちっとも慣れないし、それを面白がっている節が伯符さんにはある。それが不服で、顔を背けて答えた。
「……特にこれといっては」
「……」
「なんですか?」
いつもなら揶揄ってくるところなのにと見上げれば、彼は奇妙な顔をしていた。眉根を寄せ、けれど怒っているとも違う。――見たことのない表情だ。
「……伯符さん?」
「……ふむ」
何か一人納得したらしい彼が、おもむろに大きな手を私の頬に伸ばした。思わずぴくりと身体が揺れる。
じわりと伝わる伯符さんの体温よりも、自分の方が熱くなっていくのがわかる。それを知られたくなくて身を引こうとするけれど、肩に回されたままの手のせいで叶わない。
「あ、の」
「……存外」
低い、不満そうな声が落ちる。
「面白くないものだな」
「……?」
頬に触れられているせいで、首を傾げることもできない。何のことかと聞こうとした時、伯符さんの顔が近づき、唇を軽く合わせられた。
まさかそうくるとは思わず、一瞬呆けてしまった。ゆっくりと離れていく所で何が起きたのかを理解し距離を空けようとしたところで、再度力強く引き寄せられた。
今度は、先ほどよりも深く口付けられる。そして、下唇を軽く食まれた。
「っ!」
条件反射で強張った身体が気に食わないとでも言うように、伯符さんの舌が口内に侵入してくる。あっという間に舌を絡め取られて、背筋にぞくりと震えが走る。思わずきつく目を閉じると同時に声が漏れた。
「っ、ふっ」
頬に触れていた彼の手がいつの間にか後頭部に回っていて逃げられない。顔の向きすら彼の好きなようにされて、息をするのも忘れてしまう。
けれど、合わさった場所から鳴った水音に、思わず渾身の力で彼の胸を押した。そこでやっと解放する気になったらしい。反射的に大きく息を吸うと、後頭部を抑えていた手が離れ、代わりに私の髪をかき上げた。
「本当に慣れないな、お前は」
「っ、……急にするからですよ」
笑いを含んだ声音に、恥ずかしさのあまり俯いた。
未だ背に回された手からは、こちらを離す気がないのが伝わってくる。
この早鐘のように打つ心臓の音も聞かれているかもしれないと思うと、一刻も早く離れたい。――はずなのだけれど。彼の胸に抱え込まれているのは、何とも心地が良い。
相反する気持ちをどう処理したらいいのか迷っていると、今度は顎を捉えられる。強制的に目が合う形になり、思わず唇を引き結ぶ。
伯符さんが小さく笑いをこぼした。
「お前は本当にすごいな」
「……何の話ですか?」
「たったあれだけで妬かせるとは」
……妬かせる?
自身の顔の火照りが気になって、頭が回らない。理解していない様子の私を再度笑って、顎を捉えていた手を離して抱き寄せられた。彼の胸板に頬を預ける形になり、ようやく一心地つく。こうして抱きしめられるのは安心の方が勝るようになってきた。そしてそれは、伯符さんにもバレているのだろうと思う。
「あまりあいつと仲良くするな」
「……どこをどう見たらそうなるんですか」
心底嫌そうな声が出てしまう。
「まあ、いい」
優しく、甘さを含んだ声。次いで額に口付けを落とされた。
仲がどうとかいう件について答える気はないらしい。甘やかすことで誤魔化されているような気がして、思わず唇を尖らせてしまう。
「なんだ、不満そうだな?」
「……そういうわけでは」
「俺のことも言い負かしたっていいんだぞ」
「だから違うんですってば!」
声を荒げるが、彼はくつくつと笑うだけで聞き入れる気はないらしい。
悔しくて、彼の襟を掴む。
そう、悔しいのだ。ここまで彼を楽しそうにしてしまう、あの人の存在が。
伯符さんをこれからも死なせないために、私が出来ることは少ない。けれど、右腕である公瑾さんには力も知識もたくさんある。何より伯符さんが全幅の信頼を寄せる公瑾さんのことが、私は羨ましい――。
『あなたがいかに伯符に相応しくないか。わかっていても身を引かないのですか』
先ほど公瑾さんに言われた言葉がふわりと浮上する。
そんなの、自分が一番わかっている。けれど、こんなにも自分には足りないものばかりのくせに、私は〝その一点〟だけは揺るぎない自信を持っているのだ。
『それでもいいと、私を選んだのは伯符さんです。だから身を引く必要もありませんし、私にもその気はありません』
自分の言葉を思い出し、こっそりため息をつく。
彼が私を求めていること。それだけは揺るぎなく信じられるということが今更恥ずかしくて、伯符さんの胸元に縋り付くように頬を寄せた。
『うつくしいもの』#伯巴
伯符 伯符×巴(巴ちゃんは出ません)
狩りに行く前のお話
****************
いつだったか。
どちらかというと、可愛らしいと彼女を評したことがある。適齢期とはいえ、その表情はまだどこか幼さを残し、笑顔は無邪気さを含んでいたから。
けれど。早朝の冷えた空気の中、的を前に弓を引く横顔は――。
タンッ! と聞き慣れた音が建物に反響し、空へと吸い込まれていく。彼女から離れているから聞こえるはずもないのに、弦を弾く音が聞こえそうだ。それほど彼女が一定の間隔で、淀みなく弓を引くからだろう。
最初こそ的まで当たらなかったが、少し構えを見ただけでわかる。一朝一夕にできる型ではない。何年も修練を積み重ねたものの、それだ。
タンッ!
先程と、寸分の狂いもなく同じ音が響き渡る。
戦でその弓を使うわけでもないのに、彼女は毎日こうして鍛錬を欠かさない。
生きる世界が違うのだ。
そんな彼女と、理解し合えるわけがない。したいとも思わないのに――。
あの顔が悲しそうに歪むと、酷く落ち着かない。
こちらを見かけた時に、嬉しさを隠そうともしない巴の笑みを見られないのは、嫌だと思う。
「……はっ」
らしくもなく強くため息を吐き出し、背中を壁に預けた。
怒鳴るように突き放したときの彼女の顔が脳裏から離れず、度々思考の邪魔をする。鬱蒼とした気分のまま足の向くままに歩いていたら、いつの間にかここにきていた。そして近寄ることもせず、ただただこうして彼女を眺めている。
――らしくないにも程がある。
また、巴が弓を一本手に取った。淀みないいつも通りの一連の構えには、何故か苛立ちさえ覚えるというのに、目が離せない。
弓弦が、限界まで引き伸ばされた。
彼女の息遣いも、弓を引く瞬間に少しだけ細まる瞳も。ここからは遠くて見えないはずなのに、手にとるようにわかってしまう。
そして、的を見据え矢を放つ寸前の美しい横顔が――。
頭に焼き付いて離れない。
矢が、飛んだ。
的に当たった音に目を閉じ、再度大きく嘆息した。
――いつの間に。
こんなにも、手の届くところに置いておきたいと、思うようになってしまったのだろう。
伯符 伯符×巴(巴ちゃんは出ません)
狩りに行く前のお話
****************
いつだったか。
どちらかというと、可愛らしいと彼女を評したことがある。適齢期とはいえ、その表情はまだどこか幼さを残し、笑顔は無邪気さを含んでいたから。
けれど。早朝の冷えた空気の中、的を前に弓を引く横顔は――。
タンッ! と聞き慣れた音が建物に反響し、空へと吸い込まれていく。彼女から離れているから聞こえるはずもないのに、弦を弾く音が聞こえそうだ。それほど彼女が一定の間隔で、淀みなく弓を引くからだろう。
最初こそ的まで当たらなかったが、少し構えを見ただけでわかる。一朝一夕にできる型ではない。何年も修練を積み重ねたものの、それだ。
タンッ!
先程と、寸分の狂いもなく同じ音が響き渡る。
戦でその弓を使うわけでもないのに、彼女は毎日こうして鍛錬を欠かさない。
生きる世界が違うのだ。
そんな彼女と、理解し合えるわけがない。したいとも思わないのに――。
あの顔が悲しそうに歪むと、酷く落ち着かない。
こちらを見かけた時に、嬉しさを隠そうともしない巴の笑みを見られないのは、嫌だと思う。
「……はっ」
らしくもなく強くため息を吐き出し、背中を壁に預けた。
怒鳴るように突き放したときの彼女の顔が脳裏から離れず、度々思考の邪魔をする。鬱蒼とした気分のまま足の向くままに歩いていたら、いつの間にかここにきていた。そして近寄ることもせず、ただただこうして彼女を眺めている。
――らしくないにも程がある。
また、巴が弓を一本手に取った。淀みないいつも通りの一連の構えには、何故か苛立ちさえ覚えるというのに、目が離せない。
弓弦が、限界まで引き伸ばされた。
彼女の息遣いも、弓を引く瞬間に少しだけ細まる瞳も。ここからは遠くて見えないはずなのに、手にとるようにわかってしまう。
そして、的を見据え矢を放つ寸前の美しい横顔が――。
頭に焼き付いて離れない。
矢が、飛んだ。
的に当たった音に目を閉じ、再度大きく嘆息した。
――いつの間に。
こんなにも、手の届くところに置いておきたいと、思うようになってしまったのだろう。
『痕』 #伯巴
夫婦の明け方前のお話
****************
「……痛そうですね」
寝起きのぼんやりした自分の声。目を開いてすぐ、起きあがろうとする彼の背中に引っ掻き傷を見つけたものだから、頭で考えるより先に口にしていた。長いのと短いのと複数。どれも細い。治りかけのものもあれば、新しいものもある。私の声に顔だけ振り返った伯符さんが「起きたのか」と小さく笑った。
彼の背中の小さな傷跡たちに、手を伸ばしそっと触れる。どうやったらこんな場所を怪我するのだろう。これか、と彼が呟いた。
「大したことない」
「どこかでひっかけたんですか?」
外はまだ明るくなりきっていない。早く目が覚めてしまったものだと、質問をしながら頭の片隅でぼんやりと考える。
「なんだ、わかってないのか」
「え?」
不思議そうに伯符さんの顔を見上げれば、彼はこちらに向き直り私を抱き寄せた。素肌と素肌が触れ合うと、温もりが直に、でも緩やかに伝わるのが心地良くて。そのまま目を閉じそうになる。
「俺が傷つけた分の代償だ」
「……嬉しそうですけど」
彼がとても穏やかに言葉を紡ぐ。意味がわからない。
「そうだな」
ぴたりとくっついた素肌の心地良さに加え、彼の大きな手が私の髪を優しく漉きだす。今度こそ瞼が下がり始めてしまった。
「まだ寝ていろ」
「……伯符さんは?」
多分、彼が起きようとしたから目が覚めたのだ。目が覚めた時に彼が横にいるのは希だ。わかっていても寂しくて、訴えるように訊いてしまった。
「お前が望むなら、まだここにいる」
なんてずるい。忙しい彼に、まだ一緒に寝て欲しいなど言えないことがわかっていて、そう言うのだ。ずるい。せめてもの抗議にと、彼の背中に手を伸ばした。
「……私が寝るまでいてください」
わかった、と伯符さんの優しい声が落ちる。ついでに瞼ももう限界だった。
少しでも、少しでも長く起きていたいというのに――。
夫婦の明け方前のお話
****************
「……痛そうですね」
寝起きのぼんやりした自分の声。目を開いてすぐ、起きあがろうとする彼の背中に引っ掻き傷を見つけたものだから、頭で考えるより先に口にしていた。長いのと短いのと複数。どれも細い。治りかけのものもあれば、新しいものもある。私の声に顔だけ振り返った伯符さんが「起きたのか」と小さく笑った。
彼の背中の小さな傷跡たちに、手を伸ばしそっと触れる。どうやったらこんな場所を怪我するのだろう。これか、と彼が呟いた。
「大したことない」
「どこかでひっかけたんですか?」
外はまだ明るくなりきっていない。早く目が覚めてしまったものだと、質問をしながら頭の片隅でぼんやりと考える。
「なんだ、わかってないのか」
「え?」
不思議そうに伯符さんの顔を見上げれば、彼はこちらに向き直り私を抱き寄せた。素肌と素肌が触れ合うと、温もりが直に、でも緩やかに伝わるのが心地良くて。そのまま目を閉じそうになる。
「俺が傷つけた分の代償だ」
「……嬉しそうですけど」
彼がとても穏やかに言葉を紡ぐ。意味がわからない。
「そうだな」
ぴたりとくっついた素肌の心地良さに加え、彼の大きな手が私の髪を優しく漉きだす。今度こそ瞼が下がり始めてしまった。
「まだ寝ていろ」
「……伯符さんは?」
多分、彼が起きようとしたから目が覚めたのだ。目が覚めた時に彼が横にいるのは希だ。わかっていても寂しくて、訴えるように訊いてしまった。
「お前が望むなら、まだここにいる」
なんてずるい。忙しい彼に、まだ一緒に寝て欲しいなど言えないことがわかっていて、そう言うのだ。ずるい。せめてもの抗議にと、彼の背中に手を伸ばした。
「……私が寝るまでいてください」
わかった、と伯符さんの優しい声が落ちる。ついでに瞼ももう限界だった。
少しでも、少しでも長く起きていたいというのに――。
『いつかのあなたへ』 #伯巴
伯巴にはまって、一番初めに書いた伯巴でした。バッドエンドのお話です。
****************
「もう、舞はおやめになられたのですか?」
至極残念そうな声音に、思わず眉尻が下がる。
柔らかそうなまっすぐの金の髪が、陽光を受けてきらりと輝く。その瞬間。ほんの少しだけあの人のことを思い出すときが、僅かな繋がりだ。
「やめたわけではないのよ」
いつものやりとり。やめたも何も、最初からできないのだ。素直に私を慕うこの子には言えなかった。いつだったか、"彼"に教えを請うたことがあるけれど。下手だと笑われ一向に上達せず、より後が辛くなるだけだったので辞めた。
「⋯⋯この戦が終われば、また姉上と舞をと思っているのですが」
残念そうな声。でもね、あなたと舞ったのは、私ではないのよ。何度も飲み込んだ真実。あれから何度も時を繰り返し、もう中原制覇は
目前だった。
やっと、ここまできた――。
小高い丘に吹き込む風は血の匂いを含んでいて、大きく吸い込めば気分が凪いだ。
"あの人"から引き継いだ悲願を達成する。ただそれだけで走り続けてきた。達成したその先に何があるかはわからない。今までと同じようにまたあの人に出会い、そして失うだけの日々が繰り返されるのかもしれない。
それでも。それでも、あの人が追い求めていたものを一度でも達成することに意味はあるように思う。
「仲謀」
「はい」
少しだけ振り返り、後ろに控える彼の目を見据える。まっすぐにこちらを見上げる瞳は、光が差せばあの人と同じ色なのに、全く違う。感情的になりすぎるところはあるけれど、視野は広く周囲の意見をよく聞くことができる。
"伯符"にはない才がある。
「あなたには、土地を守り保つ才覚がある。それをよく覚えておいて」
「――はい」
"姉"の言葉に、気迫に怖気付きながらも、真剣な瞳で頷くその姿に安堵して笑みが溢れる。この子なら、大丈夫だ。この先私がいなくなったとしても。
「――きっと、きっと上手くいくわ」
この先に何が待ち受けているのかはわからないけれど。あなたの願いを叶えることだけが、唯一、私にできること。
伯符さん――。
あなたに会いたいなんて言わないから、弱かった私を許して。
伯巴にはまって、一番初めに書いた伯巴でした。バッドエンドのお話です。
****************
「もう、舞はおやめになられたのですか?」
至極残念そうな声音に、思わず眉尻が下がる。
柔らかそうなまっすぐの金の髪が、陽光を受けてきらりと輝く。その瞬間。ほんの少しだけあの人のことを思い出すときが、僅かな繋がりだ。
「やめたわけではないのよ」
いつものやりとり。やめたも何も、最初からできないのだ。素直に私を慕うこの子には言えなかった。いつだったか、"彼"に教えを請うたことがあるけれど。下手だと笑われ一向に上達せず、より後が辛くなるだけだったので辞めた。
「⋯⋯この戦が終われば、また姉上と舞をと思っているのですが」
残念そうな声。でもね、あなたと舞ったのは、私ではないのよ。何度も飲み込んだ真実。あれから何度も時を繰り返し、もう中原制覇は
目前だった。
やっと、ここまできた――。
小高い丘に吹き込む風は血の匂いを含んでいて、大きく吸い込めば気分が凪いだ。
"あの人"から引き継いだ悲願を達成する。ただそれだけで走り続けてきた。達成したその先に何があるかはわからない。今までと同じようにまたあの人に出会い、そして失うだけの日々が繰り返されるのかもしれない。
それでも。それでも、あの人が追い求めていたものを一度でも達成することに意味はあるように思う。
「仲謀」
「はい」
少しだけ振り返り、後ろに控える彼の目を見据える。まっすぐにこちらを見上げる瞳は、光が差せばあの人と同じ色なのに、全く違う。感情的になりすぎるところはあるけれど、視野は広く周囲の意見をよく聞くことができる。
"伯符"にはない才がある。
「あなたには、土地を守り保つ才覚がある。それをよく覚えておいて」
「――はい」
"姉"の言葉に、気迫に怖気付きながらも、真剣な瞳で頷くその姿に安堵して笑みが溢れる。この子なら、大丈夫だ。この先私がいなくなったとしても。
「――きっと、きっと上手くいくわ」
この先に何が待ち受けているのかはわからないけれど。あなたの願いを叶えることだけが、唯一、私にできること。
伯符さん――。
あなたに会いたいなんて言わないから、弱かった私を許して。
『託すことすらできない』 #伯巴
告白前の、七夕のお話。
****************
「たなばた?」
弓の鍛錬が終わると、蝉の声が聞こえるようになった頃。朝夕はとても涼しく、昼間であっても軽く汗ばむようになってきた。制服の袖を折っていれば問題なく過ごせる程度だけれど、この世界にも季節があるかと頬が緩む。
そして初夏といえば、七夕。
「はい。笹の葉に飾りをつけて、星に願い事をする日です」
「ほう」
弓の鍛錬が終わる頃を見計らって――というのは私の願望だろうか――伯符さんが話しかけてくるのが日常になりつつある。話の大半は、彼が聞き
たがるので元いた世界のことだった。
「年中行事の一つで、基本的には子どもが楽しむことが多くて――。将来なりたいものとか、家族の健康を祈ったり」
「それはどうやって願うんだ」
「紙に願い事を書いて、笹の葉に結びつけるんです」
「お前の国でも、星は重要な意味をもつのか」
そう言われてみるとやや違うのだけれど――。それに織姫と彦星の話は中国由来だった気がしたが、何となく説明は躊躇われて曖昧に笑った。
「⋯⋯ここでは、そういった行事はないんですか」
「祈祷師やらの領分だろうな。まあ、縁起を担いで、なんてものはいくらでもあるが」
なるほどそういうものか、と頷いたところで家臣に呼ばれ彼は行ってしまった。
大股であっという間に去っていく後ろ姿を眺めながら、一年に一度しか会えないという制約について考える。
今まで好きな人なんていなかったから、年に一度しか会えないことに何て思いもしなかったけれど――。
「⋯⋯嫌かも」
思わずぽつりと漏らした言葉に、自嘲する。
元の世界に帰れば、二度と会えないというのに。
「⋯⋯竹?」
伯符さんと七夕の話をしてから数日後のことだった。弓の鍛錬が終わるなり、伯符さんに呼びつけられたのだ。言伝通りの場所に着けば、中庭に山と積まれた竹が目に入った。
「"たなばた"とやらに使うんだろう?」
「え」
後ろから声をかけて振り返れば、満足そうな顔で伯符さんが立っていた。
「で、これをどう使うんだ?」
まるで少年のように目を輝かせる彼が、何を言っているのか一瞬わからなかった。
「⋯⋯あ、七夕をここでやるってことですか?」
「他に何がある」
「用意、してくださったんですか⋯⋯」
「何、そこらに生えてるからな。たまの珍しい催しは、皆喜ぶだろう。」
「⋯⋯ありがとうございます」
自分のために集めてくれたのだろう。自惚れでもなんでもなく、あの宴の後に心配して上着を掛けてくれた彼だから、そう思った。
嬉しくて、でも顔を見るには少し目が潤んでいるのがわかったから、頭を下げる。伯符さんが小さく笑う気配がして、胸がぎゅっと締め付けられた。
この世界では紙は貴重品だ。故郷では安価だから紙で飾りを作っていたけれど、こちらでは不相応なものになってしまう。
だから各所で余っている布きれを飾りに使うことにした。短冊の代わりは竹を削ったもの。布でも良かったのだが、あまりにも書きづらく不評であったため
更された。
珍しい催しがあると、城中の人が見学に来ては願い事を書いて吊るしていく。叶うわけはないが、どれ一興、と立ち寄る人々の顔は笑顔で、故郷の催しがきっ
かけでそんな姿が見られることは嬉しかった。
「何だ、お前は書かないのか」
何とはなしに竹簡を配ったり説明する役をしていたところに、伯符さんがやってきた。
「私は、字が書けないので――」
書けないどころか、簡単なものでも読めない。漢字から意味が推測できるものもあったが、中々に難しい。
ふむ、と腕を組んでから伯符さんが言った。
「お前の国の言葉で書けばいいだろう」
言われて初めて、それもそうかと目を丸くする。
「⋯⋯確かに。そうですね」
日本語。今はもう、あの不思議な本以外に目にすることもない。読める人がいないのだから、書こうと思うこともなかった。
おもむろに筆を手に取り、竹簡の上で止め――。墨がぽたりと垂れても、動かすことができなかった。
「どうした?」
「⋯⋯み、見られてると書きづらいです」
「お前の国の文字に興味がある」
伯符さんが手元を覗き込むものだから、身じろぎしただけでも彼の髪に触れてしまいそうなほど近くにいる。
やたらと近い距離にそわそわしつつも、手が止まってしまったのは別の理由だった。
――元の世界に帰れますように。
そう、書こうと思ったのに。
筆を動かすことができなかった。
何なら書けるだろう。無難なものを――。そこまで考えたところで、思いついた内容に口元を引き結び、筆を握りなおした。
今度は淀みなく動いたそれに、自分でも呆れてしまった。
「――それは何て書いたんだ」
「⋯⋯内緒です」
「ふむ」
それ以上は追求されないことにほっとしながら、やはり全て平仮名で書いて良かったと思った。
「伯符さんは書かないんですか?」
「子どもの行事なんだろう? 書かん」
「⋯⋯⋯それは、私が子どもだってことですか?」
「ん? そう聞こえたか?」
楽しそうに口端をあげた彼を軽く睨んでから、柱に固定された笹の葉へと向かう。
城内の人々が談笑しながら、思い思いに竹簡をくくりつけている。
それらを横目に結びつければ、竹簡の重みに耐えきれず笹が大きくしなった飾りは城中からかき集めた布。本来の姿を知っていれば奇怪なものばかり。端的に言えば不恰好だ。
けれども、自然と微笑んでしまうほどには、この世界の七夕飾りが好きだと思った。
いつかは、帰るのだ。
だから――、これで良い。
ゆらゆらと揺れる、懐かしい文字が並ぶ自分の願い事を。胸の痛みを自覚しながら眺めた。
かえるときまでそばにいられますように
◇ ◇ ◇ ◇
彼女の国の珍しい慣習を肴に、宴が始まった。
周囲がほろ酔いで席を立っても気にされなくなった頃。何本も柱にくくりつけられた竹の中でも、端にある一本を目当てに向かう。
飾りつけられ枝垂れた笹の不恰好さに思わず笑いながら、迷わず目的のものを手にとった。
几帳面に並んだ、異国の文字。何と読むかはわからないけれど、きっと達筆の部類に入るのだろう。
柔らかな印象は、そういう形の文字だからか。それとも彼女が書いたからなのか――。
『こちらの言葉を知らないので――』
そう言ったとき、代わりに書いてやろうかと思った。そうすれば、何を願うのか知ることができたというのに。結局は、聞きたくないと思ってしまった。
巴を初めて宴に誘ったあの夜。涙ぐみながら元の世界を想う彼女の様子を知っていれば、何を書くかは明白だった。そう、聞くまでもない。
「早く⋯⋯」
――帰してやってくれ。
そう、言おうと思ったのに。どうしても言葉を続ける気にはなれなかった。
告白前の、七夕のお話。
****************
「たなばた?」
弓の鍛錬が終わると、蝉の声が聞こえるようになった頃。朝夕はとても涼しく、昼間であっても軽く汗ばむようになってきた。制服の袖を折っていれば問題なく過ごせる程度だけれど、この世界にも季節があるかと頬が緩む。
そして初夏といえば、七夕。
「はい。笹の葉に飾りをつけて、星に願い事をする日です」
「ほう」
弓の鍛錬が終わる頃を見計らって――というのは私の願望だろうか――伯符さんが話しかけてくるのが日常になりつつある。話の大半は、彼が聞き
たがるので元いた世界のことだった。
「年中行事の一つで、基本的には子どもが楽しむことが多くて――。将来なりたいものとか、家族の健康を祈ったり」
「それはどうやって願うんだ」
「紙に願い事を書いて、笹の葉に結びつけるんです」
「お前の国でも、星は重要な意味をもつのか」
そう言われてみるとやや違うのだけれど――。それに織姫と彦星の話は中国由来だった気がしたが、何となく説明は躊躇われて曖昧に笑った。
「⋯⋯ここでは、そういった行事はないんですか」
「祈祷師やらの領分だろうな。まあ、縁起を担いで、なんてものはいくらでもあるが」
なるほどそういうものか、と頷いたところで家臣に呼ばれ彼は行ってしまった。
大股であっという間に去っていく後ろ姿を眺めながら、一年に一度しか会えないという制約について考える。
今まで好きな人なんていなかったから、年に一度しか会えないことに何て思いもしなかったけれど――。
「⋯⋯嫌かも」
思わずぽつりと漏らした言葉に、自嘲する。
元の世界に帰れば、二度と会えないというのに。
「⋯⋯竹?」
伯符さんと七夕の話をしてから数日後のことだった。弓の鍛錬が終わるなり、伯符さんに呼びつけられたのだ。言伝通りの場所に着けば、中庭に山と積まれた竹が目に入った。
「"たなばた"とやらに使うんだろう?」
「え」
後ろから声をかけて振り返れば、満足そうな顔で伯符さんが立っていた。
「で、これをどう使うんだ?」
まるで少年のように目を輝かせる彼が、何を言っているのか一瞬わからなかった。
「⋯⋯あ、七夕をここでやるってことですか?」
「他に何がある」
「用意、してくださったんですか⋯⋯」
「何、そこらに生えてるからな。たまの珍しい催しは、皆喜ぶだろう。」
「⋯⋯ありがとうございます」
自分のために集めてくれたのだろう。自惚れでもなんでもなく、あの宴の後に心配して上着を掛けてくれた彼だから、そう思った。
嬉しくて、でも顔を見るには少し目が潤んでいるのがわかったから、頭を下げる。伯符さんが小さく笑う気配がして、胸がぎゅっと締め付けられた。
この世界では紙は貴重品だ。故郷では安価だから紙で飾りを作っていたけれど、こちらでは不相応なものになってしまう。
だから各所で余っている布きれを飾りに使うことにした。短冊の代わりは竹を削ったもの。布でも良かったのだが、あまりにも書きづらく不評であったため
更された。
珍しい催しがあると、城中の人が見学に来ては願い事を書いて吊るしていく。叶うわけはないが、どれ一興、と立ち寄る人々の顔は笑顔で、故郷の催しがきっ
かけでそんな姿が見られることは嬉しかった。
「何だ、お前は書かないのか」
何とはなしに竹簡を配ったり説明する役をしていたところに、伯符さんがやってきた。
「私は、字が書けないので――」
書けないどころか、簡単なものでも読めない。漢字から意味が推測できるものもあったが、中々に難しい。
ふむ、と腕を組んでから伯符さんが言った。
「お前の国の言葉で書けばいいだろう」
言われて初めて、それもそうかと目を丸くする。
「⋯⋯確かに。そうですね」
日本語。今はもう、あの不思議な本以外に目にすることもない。読める人がいないのだから、書こうと思うこともなかった。
おもむろに筆を手に取り、竹簡の上で止め――。墨がぽたりと垂れても、動かすことができなかった。
「どうした?」
「⋯⋯み、見られてると書きづらいです」
「お前の国の文字に興味がある」
伯符さんが手元を覗き込むものだから、身じろぎしただけでも彼の髪に触れてしまいそうなほど近くにいる。
やたらと近い距離にそわそわしつつも、手が止まってしまったのは別の理由だった。
――元の世界に帰れますように。
そう、書こうと思ったのに。
筆を動かすことができなかった。
何なら書けるだろう。無難なものを――。そこまで考えたところで、思いついた内容に口元を引き結び、筆を握りなおした。
今度は淀みなく動いたそれに、自分でも呆れてしまった。
「――それは何て書いたんだ」
「⋯⋯内緒です」
「ふむ」
それ以上は追求されないことにほっとしながら、やはり全て平仮名で書いて良かったと思った。
「伯符さんは書かないんですか?」
「子どもの行事なんだろう? 書かん」
「⋯⋯⋯それは、私が子どもだってことですか?」
「ん? そう聞こえたか?」
楽しそうに口端をあげた彼を軽く睨んでから、柱に固定された笹の葉へと向かう。
城内の人々が談笑しながら、思い思いに竹簡をくくりつけている。
それらを横目に結びつければ、竹簡の重みに耐えきれず笹が大きくしなった飾りは城中からかき集めた布。本来の姿を知っていれば奇怪なものばかり。端的に言えば不恰好だ。
けれども、自然と微笑んでしまうほどには、この世界の七夕飾りが好きだと思った。
いつかは、帰るのだ。
だから――、これで良い。
ゆらゆらと揺れる、懐かしい文字が並ぶ自分の願い事を。胸の痛みを自覚しながら眺めた。
かえるときまでそばにいられますように
◇ ◇ ◇ ◇
彼女の国の珍しい慣習を肴に、宴が始まった。
周囲がほろ酔いで席を立っても気にされなくなった頃。何本も柱にくくりつけられた竹の中でも、端にある一本を目当てに向かう。
飾りつけられ枝垂れた笹の不恰好さに思わず笑いながら、迷わず目的のものを手にとった。
几帳面に並んだ、異国の文字。何と読むかはわからないけれど、きっと達筆の部類に入るのだろう。
柔らかな印象は、そういう形の文字だからか。それとも彼女が書いたからなのか――。
『こちらの言葉を知らないので――』
そう言ったとき、代わりに書いてやろうかと思った。そうすれば、何を願うのか知ることができたというのに。結局は、聞きたくないと思ってしまった。
巴を初めて宴に誘ったあの夜。涙ぐみながら元の世界を想う彼女の様子を知っていれば、何を書くかは明白だった。そう、聞くまでもない。
「早く⋯⋯」
――帰してやってくれ。
そう、言おうと思ったのに。どうしても言葉を続ける気にはなれなかった。
『恋とは厄介なもの』 #伯巴
片思いする巴ちゃんが可愛くて大好きで書いたことを覚えています。
****************
鏡というにはあまりにも頼りない、ほぼ石のようなそれをじいっと見つめる。
顔の角度を左右上下変えてみて、手櫛で髪型を整える。以前よりも念入りに身支度に時間をかけるようになった。恋をすると何とやら、は本当らしい。
本当に綺麗になっているかどうかわからないけれど。あの人に、少しでも可愛いと思ってもらいたい。
ふと浮かんだ彼の顔に鼓動が早まり、心なしか顔が熱くなる。話したわけでも、見かけたわけでもないというのに。恋心を自覚してからというもの、ずっとこんな調子なのだ。それが情けなく、でも面映い。
いつもより長く鏡面と睨めっこしているのは、今日がより特別な事情があるからだ。
戦についていくことになり、伯符さんから送られた衣が届いた。刺繍が施された桃色の生地は好みの色味で、これを彼が私にと選んだものだと思うと胸がいっぱいになり、一度深呼吸をしてから袖を通した。
特別な意味なんてない。だってこれは、戦場についていくと言ったから用意してもらえたもの。そう、何度自分に言い聞かせても、頬が緩んでしまう。
初めて会ったときに褒めてくれた制服も、名残惜しくて腰に巻いている。
短く息を吸い込んで気合を入れてから、部屋を出た。
「よく似合っているな」
執務室へ入室するなり開口一番にそう言われ、顔を赤らめ俯く。彼のことだから褒めてくれるだろうとは思っていたけれど、実際にそれを聞くと嬉しさが後から後から溢れてくる。
「……あの、ありがとうございます」
そっと顔をあげれば、満足そうに笑みを浮かべる彼と目が合い、『楽しませるために着飾れ』と言われたことを思い出す。今の私は、彼を楽しませることができているのだろうか。いつだったか、服を贈られるなど恋人のようで恥ずかしいと思ったこともあった。でも今は、こんなにも気分が高揚している。
「あと、これは――」
伯符さんが近づいてくる。そしてあっという間に詰められた近すぎる距離に、思わず一歩退きそうになってしまう。
戸惑っていると、彼の長くて綺麗な指先が顔に――。
「っ!」
触れるかと思ったら、その手は左耳上に。何やらガサゴソと音がして、髪と地肌の間に何かが差し込まれる。近すぎる距離と、何やら髪をいじられている現実に半ばパニックを起こしそうになるが、息を止めて耐える。
彼がそうしていたのは、時間にしてほんの数秒ほど。用を終えたのか、伯符さんの手が離れていくのを名残惜しく感じる。
身じろぎすると、左耳上の何かが、しゃらりと音を立てた。自然と気分が高揚する。――髪飾りだろうか。
「……ふっ」
急に目を細めて笑った彼の顔に、心臓が止まりそうになった。
「こっちは、お前のお守りの礼だ」
そう言って彼は懐を指す。そこに先日渡したお守りを持ち歩いてくれているのだと、胸が熱くなった。
「ささやかなもんだがな」
「いえ、いいえ!」
ぶんぶんと首を振れば、左耳上に挿してもらった髪飾りが揺れる。
「……嬉しい、です」
そっと、髪飾りに触れる。この溢れ出る嬉しさを噛み締めるように、言葉を紡いだ。
「大事に、します」
「……」
満ち溢れる幸福感に息を吐く。これを超える嬉しいことなんて、ないのではないだろうか――。
ふと、静まり返った場に気がつき、視線をあげる。すると、伯符さんは口元を抑え明後日の方を見ていた。
「……?」
首を傾げたくなりながらも同じ方を見るが、特にこれといって何もない。
「ああ、いや……」
こちらに気づいた彼は咳払いをしつつ、気まずそうに声を零す。
「気に入ったのなら、良かった」
「……はい」
何だったのだろうと思いつつ、そろそろお暇しなければ仕事の邪魔だろうと立ち去る旨を伝え、踵を返す。
「――巴」
「はい?」
呼び止められ振り返れば、しゃらりと耳飾りの音が鳴る。ふと、これを直接彼がつけてくれたことを想い、頬がまた火照る。
今の私は、足の先から頭まで。
おそらく、彼が気にいるもので満たされている。
「……いや、何でもない」
横を向き前髪を掻き上げる彼の横顔は、いつもとは違い戸惑いの表情が色濃く心配になる。
けれど。
私はそこに踏み込んでいいのかが、わからない。
「……失礼します」
扉を締めて、息を吐き切るようにため息を零す。
こんなに満たされているのに。いつもどこか苦しい。
片思いする巴ちゃんが可愛くて大好きで書いたことを覚えています。
****************
鏡というにはあまりにも頼りない、ほぼ石のようなそれをじいっと見つめる。
顔の角度を左右上下変えてみて、手櫛で髪型を整える。以前よりも念入りに身支度に時間をかけるようになった。恋をすると何とやら、は本当らしい。
本当に綺麗になっているかどうかわからないけれど。あの人に、少しでも可愛いと思ってもらいたい。
ふと浮かんだ彼の顔に鼓動が早まり、心なしか顔が熱くなる。話したわけでも、見かけたわけでもないというのに。恋心を自覚してからというもの、ずっとこんな調子なのだ。それが情けなく、でも面映い。
いつもより長く鏡面と睨めっこしているのは、今日がより特別な事情があるからだ。
戦についていくことになり、伯符さんから送られた衣が届いた。刺繍が施された桃色の生地は好みの色味で、これを彼が私にと選んだものだと思うと胸がいっぱいになり、一度深呼吸をしてから袖を通した。
特別な意味なんてない。だってこれは、戦場についていくと言ったから用意してもらえたもの。そう、何度自分に言い聞かせても、頬が緩んでしまう。
初めて会ったときに褒めてくれた制服も、名残惜しくて腰に巻いている。
短く息を吸い込んで気合を入れてから、部屋を出た。
「よく似合っているな」
執務室へ入室するなり開口一番にそう言われ、顔を赤らめ俯く。彼のことだから褒めてくれるだろうとは思っていたけれど、実際にそれを聞くと嬉しさが後から後から溢れてくる。
「……あの、ありがとうございます」
そっと顔をあげれば、満足そうに笑みを浮かべる彼と目が合い、『楽しませるために着飾れ』と言われたことを思い出す。今の私は、彼を楽しませることができているのだろうか。いつだったか、服を贈られるなど恋人のようで恥ずかしいと思ったこともあった。でも今は、こんなにも気分が高揚している。
「あと、これは――」
伯符さんが近づいてくる。そしてあっという間に詰められた近すぎる距離に、思わず一歩退きそうになってしまう。
戸惑っていると、彼の長くて綺麗な指先が顔に――。
「っ!」
触れるかと思ったら、その手は左耳上に。何やらガサゴソと音がして、髪と地肌の間に何かが差し込まれる。近すぎる距離と、何やら髪をいじられている現実に半ばパニックを起こしそうになるが、息を止めて耐える。
彼がそうしていたのは、時間にしてほんの数秒ほど。用を終えたのか、伯符さんの手が離れていくのを名残惜しく感じる。
身じろぎすると、左耳上の何かが、しゃらりと音を立てた。自然と気分が高揚する。――髪飾りだろうか。
「……ふっ」
急に目を細めて笑った彼の顔に、心臓が止まりそうになった。
「こっちは、お前のお守りの礼だ」
そう言って彼は懐を指す。そこに先日渡したお守りを持ち歩いてくれているのだと、胸が熱くなった。
「ささやかなもんだがな」
「いえ、いいえ!」
ぶんぶんと首を振れば、左耳上に挿してもらった髪飾りが揺れる。
「……嬉しい、です」
そっと、髪飾りに触れる。この溢れ出る嬉しさを噛み締めるように、言葉を紡いだ。
「大事に、します」
「……」
満ち溢れる幸福感に息を吐く。これを超える嬉しいことなんて、ないのではないだろうか――。
ふと、静まり返った場に気がつき、視線をあげる。すると、伯符さんは口元を抑え明後日の方を見ていた。
「……?」
首を傾げたくなりながらも同じ方を見るが、特にこれといって何もない。
「ああ、いや……」
こちらに気づいた彼は咳払いをしつつ、気まずそうに声を零す。
「気に入ったのなら、良かった」
「……はい」
何だったのだろうと思いつつ、そろそろお暇しなければ仕事の邪魔だろうと立ち去る旨を伝え、踵を返す。
「――巴」
「はい?」
呼び止められ振り返れば、しゃらりと耳飾りの音が鳴る。ふと、これを直接彼がつけてくれたことを想い、頬がまた火照る。
今の私は、足の先から頭まで。
おそらく、彼が気にいるもので満たされている。
「……いや、何でもない」
横を向き前髪を掻き上げる彼の横顔は、いつもとは違い戸惑いの表情が色濃く心配になる。
けれど。
私はそこに踏み込んでいいのかが、わからない。
「……失礼します」
扉を締めて、息を吐き切るようにため息を零す。
こんなに満たされているのに。いつもどこか苦しい。
『水も滴る』 #伯巴
初めてワンライ企画に参加したお話で、初の伯巴公開したお話でした。
****************
ここに降る雨は、道場のことを思い出させる。
建物の構造が近いから、雨粒が響く音が似ているのかもしれない。はたまた、土と緑が雨に湿る匂いのせいだろうか。目を閉じると、磨き上げられた床、手入れの行き届いた弓が美しく並ぶ姿が浮かぶ。雨の日の道場の静けさが、大好きだった。
雨が降っている音さえ聞けば、どんなことも洗い流してくれると思っていた。
わずかな感傷の間。閉じていた目を開けた時だった。ざわざわと回廊の向こう側が騒がしくなる。
「いや、参りましたな」
「まさか、ここまでとは」
濡れた髪や肩を手で振り払いながら、見知った兵士達がこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、この通りですよ。巴殿は?」
「私はすぐ軒に入れましたので」
ついさっきまで、雲ひとつない青空だったというのに。急に風が強くなり、空気が冷えてからはあっという間だった。雨雲が空を覆い、そこそこ強目の雨が降り出したのだ。
皆が一様に辟易する様子にくすりと笑いを溢していると、後ろから声をかけられた。
「巴?」
太く、低い声。それだけで誰に声をかけられたのかがわかって、心臓が跳ねた。
私の名前をそんな風に呼ぶのは、ここではただ一人だ。
「伯符──」
意を決して振り返った。ところで、声を失った。
「濡れてるじゃないか。女が身体を冷やすなと言っただろう」
呆然と目の前の彼を見上げる。掻き上げた金色の前髪から、ぼたりと雫が落ちる。濡れた睫毛のせいか、眼光も緩い。これが絵画ならため息を溢していただろうに、と頭の片隅でそんなことを思う。
「──伯符さんの方が、濡れてますよ」
やっとそれだけを絞り出して、視線を逸らす。
水も滴る──とはよく言うけれど、居た堪れなくなるほどのものだとは思いもしなかった。
――彼のことを好きだから、そう思うのだろう
「伯符様、どうぞ」
いつの間にか駆け寄っていた侍女達が、雨に濡れた者たちに布を渡しに走り回っている。伯符さんはそれを受け取ると、何と私の方に被せてきた。
「っ、え」
わしゃわしゃと頭を掻き回されることに思考がついていかず、逃げようとすると頭をがしりと掴まれた。
「動くな。やりづらい」
ぴしゃりと子どもに言い聞かせるような物言いに、身体が固まる。それなのに、時折彼の指が耳や頬に当たるから――嬉しいはずなのに、こんな形じゃなかったらいいのに、と思ってしまう。
「──はい」
「このくらいでいいか。さっさと着替えろよ」
これではまるで子どもだ。いや、子どものようなものなのかもしれない。この世界に迷子のように紛れ込み、拾ってくれた彼からすれば、私はそんなものなのだろう。
そう思うと、ひどく悲しかった。
「──伯符様」
侍女が新しい布を心配そうに再度渡している。
そうだ、伯符さんの方が濡れたままだったのに、と思ったところで、今度は手に布を押し付けられた。
「え」
「今度はお前だ」
そう言うなり屈むと、頭を差し出された。
──私が拭くってこと?
かあっと頭に血が昇る。どうしていいかわからずマゴマゴしていると、「早く」と少し苛立った声が聞こえる。
早く脈打つ心臓が痛いほどで、手が震えそうだ。──布越しだし、とそっと布を被せて、伯符さんの髪の水分を拭き取ろうと押さえていく。
「それじゃ乾かないだろ」
「──あまり乱暴にすると、髪が痛むんですよ」
すごく近くにある金糸のような伯符さんの髪。濡れているせいなのか、透明感のあるそれに素手で触れてみたいと思うのに、見ているだけで動くことができない。
近くに、いるのに。それとも、近くにいられるだけでいいのだろうか。
この人のことが好きだと思う気持ちは確かなのに、一歩踏み出す勇気がもてない。
ふと、伯符さんが顔をあげようと力を込めたのがわかり、手を浮かせる。もう少し、こうしていたかったな。そんなことを思いながら、一歩退こうとしたときだった。
身を起こした伯符さんに、私の髪を一房、掬わ
れた。
「――っ」
「まあ、痛んでないか」
「――い、っかいぐらいじゃ、ならないです」
「そうか」
柔らかく笑った顔に、泣きそうになる。ただ、頬と耳を掠るように。髪を一房触れられただけなのに。
それが息が詰まるほど嬉しくて、同時に苦しく
て。後一歩、彼に近づくことができない。
雨が降っているのに、この気持ちは流れてくれ
ない。
初めてワンライ企画に参加したお話で、初の伯巴公開したお話でした。
****************
ここに降る雨は、道場のことを思い出させる。
建物の構造が近いから、雨粒が響く音が似ているのかもしれない。はたまた、土と緑が雨に湿る匂いのせいだろうか。目を閉じると、磨き上げられた床、手入れの行き届いた弓が美しく並ぶ姿が浮かぶ。雨の日の道場の静けさが、大好きだった。
雨が降っている音さえ聞けば、どんなことも洗い流してくれると思っていた。
わずかな感傷の間。閉じていた目を開けた時だった。ざわざわと回廊の向こう側が騒がしくなる。
「いや、参りましたな」
「まさか、ここまでとは」
濡れた髪や肩を手で振り払いながら、見知った兵士達がこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、この通りですよ。巴殿は?」
「私はすぐ軒に入れましたので」
ついさっきまで、雲ひとつない青空だったというのに。急に風が強くなり、空気が冷えてからはあっという間だった。雨雲が空を覆い、そこそこ強目の雨が降り出したのだ。
皆が一様に辟易する様子にくすりと笑いを溢していると、後ろから声をかけられた。
「巴?」
太く、低い声。それだけで誰に声をかけられたのかがわかって、心臓が跳ねた。
私の名前をそんな風に呼ぶのは、ここではただ一人だ。
「伯符──」
意を決して振り返った。ところで、声を失った。
「濡れてるじゃないか。女が身体を冷やすなと言っただろう」
呆然と目の前の彼を見上げる。掻き上げた金色の前髪から、ぼたりと雫が落ちる。濡れた睫毛のせいか、眼光も緩い。これが絵画ならため息を溢していただろうに、と頭の片隅でそんなことを思う。
「──伯符さんの方が、濡れてますよ」
やっとそれだけを絞り出して、視線を逸らす。
水も滴る──とはよく言うけれど、居た堪れなくなるほどのものだとは思いもしなかった。
――彼のことを好きだから、そう思うのだろう
「伯符様、どうぞ」
いつの間にか駆け寄っていた侍女達が、雨に濡れた者たちに布を渡しに走り回っている。伯符さんはそれを受け取ると、何と私の方に被せてきた。
「っ、え」
わしゃわしゃと頭を掻き回されることに思考がついていかず、逃げようとすると頭をがしりと掴まれた。
「動くな。やりづらい」
ぴしゃりと子どもに言い聞かせるような物言いに、身体が固まる。それなのに、時折彼の指が耳や頬に当たるから――嬉しいはずなのに、こんな形じゃなかったらいいのに、と思ってしまう。
「──はい」
「このくらいでいいか。さっさと着替えろよ」
これではまるで子どもだ。いや、子どものようなものなのかもしれない。この世界に迷子のように紛れ込み、拾ってくれた彼からすれば、私はそんなものなのだろう。
そう思うと、ひどく悲しかった。
「──伯符様」
侍女が新しい布を心配そうに再度渡している。
そうだ、伯符さんの方が濡れたままだったのに、と思ったところで、今度は手に布を押し付けられた。
「え」
「今度はお前だ」
そう言うなり屈むと、頭を差し出された。
──私が拭くってこと?
かあっと頭に血が昇る。どうしていいかわからずマゴマゴしていると、「早く」と少し苛立った声が聞こえる。
早く脈打つ心臓が痛いほどで、手が震えそうだ。──布越しだし、とそっと布を被せて、伯符さんの髪の水分を拭き取ろうと押さえていく。
「それじゃ乾かないだろ」
「──あまり乱暴にすると、髪が痛むんですよ」
すごく近くにある金糸のような伯符さんの髪。濡れているせいなのか、透明感のあるそれに素手で触れてみたいと思うのに、見ているだけで動くことができない。
近くに、いるのに。それとも、近くにいられるだけでいいのだろうか。
この人のことが好きだと思う気持ちは確かなのに、一歩踏み出す勇気がもてない。
ふと、伯符さんが顔をあげようと力を込めたのがわかり、手を浮かせる。もう少し、こうしていたかったな。そんなことを思いながら、一歩退こうとしたときだった。
身を起こした伯符さんに、私の髪を一房、掬わ
れた。
「――っ」
「まあ、痛んでないか」
「――い、っかいぐらいじゃ、ならないです」
「そうか」
柔らかく笑った顔に、泣きそうになる。ただ、頬と耳を掠るように。髪を一房触れられただけなのに。
それが息が詰まるほど嬉しくて、同時に苦しく
て。後一歩、彼に近づくことができない。
雨が降っているのに、この気持ちは流れてくれ
ない。
三国恋戦記魁五周年の企画で書いたものです。
伯符バッドエンド。魁はバッドありきなのでこれでも祝ってます。オンリーイベント前で時間がなく、1人ワンドロでした。
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息を吐けば、即座に凍りそうなほどの冷え込みに、首元の黒い羽の外套を寄せ集める。辺りはまだ暗く、僅かな星灯りが頼りだ。けれど周囲は静かに熱気に包まれていた。戦場とは、なんとも忙しい場所だと思う。目の前で鼻息を鳴らす彼の愛馬に手を伸ばせば、すりすりと鼻筋を押し付けられ、自然と口元が緩んだ。
「あなたは、平気なの?」
小さく抑えた声を受けて、黒いビー玉のような目がひたと私を捉える。この冷え込みについて訊いたつもりだったが、彼はどうも違う風に取ったらしかった。
「……平気なわけないわよね」
両手を伸ばし、馬の輪郭を指先で辿る。外気にさらされた毛は、冷たいが滑らかだ。目を閉じれば、その感触に力が抜けた。唯一、心が安らぐ瞬間。
どういうわけだか、皆が私を『伯符』と呼ぶようになってから半年が経った。罰だと思った。実際にそうなのだろう。彼のいない傷を埋めることなく、彼自身になるというのはこれ以上になく罰として適切だと思えたからだ。
しかし、彼の愛馬だけは違った。急に『主人』を拒否する馬を、周囲は訝しんだ。――この馬は、『彼』を覚えているのだ。胸の奥から熱いものが込み上げ、蓋をしていた感情が一気に溢れた。家臣達は、『愛しい人』を亡くした傷がまだ癒えないのだと、そっとしておいてくれた。私の涙に何かを感じ取ったのか、彼は急に寄り添うように大人しくなった。黒い濡れた瞳は静かだけれど雄弁で、話せば声が聞こえるような気さえした。
「もうすぐね」
戦が始まる。色々なことがままならなくて、遅れに遅れを取ってしまった。かつては彼と共に向かったこともあるが、あれは戦でも何でもなかったのだと身に染みる。私一つの判断で、声で、人の命の行方が決まるのだ。
「伯符さんみたいに、できるかしら」
誰にも届かないほど小さな声は、暗闇に紛れてくれるだろう。私が『伯符さん』と呼べるのは、もう彼の前だけだった。その言葉に応えるように、手に彼の鼻面が押し付けられる。湿ったそこは、氷のように冷たいのに温かい。
「伯符様」
不意に後ろから話しかけられ、振り返る。
「用意が整いました」
「……日の出とともに出ます」
拱手して下がる家臣の顔は、不安と、主人がやっと戦場に戻った喜びが混ざっていた。
何だかおかしくなって、くすりと笑いをこぼせば、彼がぶるるっと鼻を鳴らした。その首筋をトントンと軽く叩くように撫でて、手綱を握りあぶみに足を掛ける。足の裏に力を入れ、ぐんと馬上へ跳び上がる瞬間が好きだ。それはかつて、何もわからず引き上げられたときの感覚を鮮明に浮かび上がらせるから。
馬のいななきや、甲冑の擦れる音が静かに、けれど確実に増えていく。
――始まる。彼の、遂げられなかった道への一歩が、ようやく整った。
馬上から見える遥か先の地平線に、細く赤い線が走ったかと思えば、滲むようにどんどん範囲を広げていく。もっとその上は群青色へと明度を上げていった。
――変なの。
寒さで乾き切った唇を噛み締める。
日が出るはずなのに、今から落ちていくみたい。