猫の額








『白線』 #仲花
2020/11/04→2021/01/02加筆修正

仲謀×花の甘くないお話。
続きのようなお話はこちら から。




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吐く息が白い。
 ふと、教科書に載っていた氷の結晶の写真を思い出す。吐息があんな形になって落ちているような気がする。

「行くぞ」

 ひそめた声に、手に息を吐きかけるのをやめて後ろをついていく。辺りは暗く、冷えた空気がぴたりと身体に張り付き、芯から熱を奪っていく。

「ねえ、どこに行くの」

 昨日、陽が昇る前に出かけるから準備をしろと言われた。朝日の気配が微塵も感じられない今、いつもと印象の違う外套を着た彼が、約束通り迎えに来たところだ。季節は真冬。加えて熱源は己の身体のみ。いくら厚めの上着を着ていても、寒さで唇がわななく。

「ねえ」
「静かにしろ。見つかるだろうが」

 ちっとも説明をする気のない背中を半眼で見つめ、相変わらず強引だなとため息をつく。空を見上げれば、ちらちらと星が静かに瞬いていた。きんと冷えた空気に、雪が降りそうだと思う。
 静かな空間に二人の足音だけが落ちる中、裏門の近くに何かが見えた。同時に、動物の気配を感じ取る。馬だ。小さな嘶きと共に、足を軽く踏み鳴らしている。

「悪い。待たせたな」

 何度か見かけたことのある年配の男性。確か厩番の人だ。「久々ですね」と呆れたように彼に笑いかけている。

「……馬に乗るの?」
「ああ」

 こちらを見ることなく答えた彼は、あっという間に馬上の人となってしまう。そして私に向かって手を伸ばした。

「ほら」

 こうして、何度も馬に乗ったのはいつだったか。この人が馬にだけは優しいと思ったこともあった。
 硬い、私より大きな手を掴めば、あっという間に馬の上へと引き上げられる。彼の手は、熱かった。

「あまり遅くなりませぬよう……」
「わかってる。心配をかけない内に戻る」
「……それは無理ではないかと」

 苦笑しながら拱手し頭を垂れた男性を横目に、手綱をしっかりと握らされた。

「ちゃんと握っとけよ」
「う、うん」

 馬は何度乗っても慣れない。一人で乗れないからだろうか。どしりとした足元の馬の体幹と、背中の彼の気配で不安は感じないものの、生き物の上に跨るのは独特の緊張感がある。ぶるる、と馬が鼻を鳴らしながら首を振った。

「行くぞ」

 ぐっと身体に力を込め最初の揺れに耐えてしまえば、重い振動も軽やかなリズムに飲み込まれ気にならなくなる。



 寝静まった街の中を、馬はどんどん駆けていく。時折灯りと笑い声が響く店がある以外は、本当に静かだ。思えばこんな暗い時間に馬に乗るのは初めてで、前方がよく見えず不安になる。

「ねえ」

 城を出たからいいだろう、と少し声を張り上げれば、「なんだ」と声が降ってきた。

「どこに行くの?」
「何でそんなに気にするんだよ」
「……普通するよ」

 ぶつかってくる冬の冷たい空気に、露出した部分がちりちりと痛む。手綱を離すわけにもいかず、外套を上げることすら叶わない。これ以上聞く気もなくして、かじかむ手で手綱を離さぬよう、握りしめることに集中した。
 そうこうしている内に、あっという間に門前まで辿り着いた。門番と二、三やりとりを交わし、馬の足音を響かせ街の城門を抜ける。街中ではないから灯りもない。かろうじて判別できるのは道ぐらいだ。その中をひたすらどこかへ向かって走っていく。本当にどこに行くつもりだろう、と思っていると彼が喋りはじめた。

「久々に時間が空いたからな。少し遠出するぞ」
「……内緒でお出かけなの?」
「まあな。昔はよくやってた」

 彼が笑った気配がする。その顔を思い浮かべて、小さく笑みをこぼす。
 ふいに、うっすらと暗闇が遠のき始めた。ぼんやり眺めていると、黒い山々の稜線に光が走る。それは数度瞬きする間にも色を変え続け、天地の境界をはっきりと染め上げていく。思わずため息がこぼれた。
 馬の走る速度は落ちない。でもきっと彼もこの光景を見ているだろう。

「綺麗だね、──」








 喉が張り付いていて、一瞬息ができなかった。
 大きく喉を上下させ唾を飲み込み、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。身体が、酷く冷えている。
 自分の身体を見下ろせば、掛布団がベッドからずり落ちていた。それは寒いはずだ。風邪を引くかもしれない、とぼんやりした頭で思う。
 身体を動かすのも億劫で、視線だけで辺りを見渡す。見慣れた天井、カーテン。外は次第に明るくなってきているらしく、部屋の中は容易に見渡せた。目覚まし時計に手を伸ばして確認すれば、日の出を少し過ぎた頃だ。


『綺麗だね、  』


 また、あの人の夢を見た。
 息を細く吐いて、力の入らない腕で何とか起き上がる。
 カーテンを開けてみると、ちょうど建物との境目を滲ませながら、朝陽が昇っているところだった。溶けたオレンジ色が、徐々に丸く、そして見ることを拒絶するように光を強めていく。目を細めて逸らし、カーテンを閉じた。
 今のより、綺麗な朝焼けだった。馬なんて一度も乗ったことがないのに、揺れる感触も、暖かな馬の胴体も、何故か知っているような気がする。
 ――あの人のことも、知っている。金色の髪。目の色は、青だったり灰色だったり、光の具合で違う。すぐ怒ったように話す。でも、優しい人だ。優しくて、強い人。
 そこまで考えて、くすりと笑いがれこぼた。――夢なのに、『知ってる』なんて。けれども、確かめずにはいられなかった。

「……綺麗だね、」

 自分が言った台詞を反芻してみても、確かに夢の中で呼びかけたはずの名前は出てこなかった。




 息を吐く。今日は吐いた先から凍り付くように寒い。
 首に巻いたマフラーを口元まであげれば、喉が少し痛いことに気が付いた。やはり風邪を引き始めている。

『体調悪いのか?いつからだ』

 ふいに、あの人にかけられた言葉を思い出した。表情だって、思い出せる。今まで忘れていたというのに……。夢を見ると、こうして記憶になかったものが溢れることがある。

 ──ああ、駄目だ。今日は駄目な日だ。

 唇を引き結ぶ。そうしなければ泣いてしまいそうだった。
 名前も知らないあの人のことが、頭から離れない。話した記憶にない声が、頭の中を占めていく。
 長く息を吐いて頭上を見上げれば、小さな白い欠片がふわふわと舞い降り始めていた。
 ──あの後、雪は降ったのだろうか。
 舞い降りる雪は小さすぎて、触れるか触れないかの距離で消えてしまう。あの人のことも同じ。痕跡を探そうとすればするほど、輪郭がぼやけてしまう。今頭の中を占めている声も、表情も。夢を見るたびに思い出しては消えていくのだ。
 具体的なことは何一つ残ってくれないのに、あの人への気持ちだけが結晶みたいに綺麗に整えられていく。
 堪えきれなくなった雫が、熱く頬を滑り落ちていく。
 でも、覚えていたいわけではないのだ。だって、必要がない。他愛なく交わした言葉も。隠し事ができないから、すぐに変わる表情も。自分よりも他を優先する強さからくる優しさも――。『選ばなかった』私には、全部、全部、必要のないものだ。どうせ、これもすぐに忘れてしまう。
 『誰』とか、そんなのどうでもいい。

 あなた以上に好きだと思える人がいないことだけを、私は覚えていればいい。






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