猫の額








『誰がために ―秘め事―』 #仲花
webオンリー用に、本来書きたかったものの後日談として書きました。そっちの方はまだ完成していませんが必ず完成させます。
拙さ全開で書き直したいものの、一番見て頂いたものなのでそのままにしています。




****************





 どこまでも濃い青空が窓から見える。蝉の声に、大きな入道雲。この世界に来て初めての夏は後半に向かっていた。汗はともかく、入り込んでくる夏の気配は心地良い。食後のお茶を用意していた年配の使用人が、にこにこと話し出した。
「そういえば、仲謀様がお生まれになった時も、こんな陽気でしたねえ」
「……仲謀って夏生まれなんですか?」
「ええ。とても天気のよい日でしたよ」
 懐かしそうに目元を綻ばせて、仲謀に笑いかける。
「本当に大きく立派になられて」
「――それはもういい」
 ややうんざりした様に仲謀が返す。恥ずかしいならそう言えばいいのに。たまに来るこの使用人は、元々は呉夫人に仕えていたらしく、度々思い出話をしては仲謀を照れさせていた。仕事を終えた彼女は、くすくすと笑いながら一礼をして退室していく。
「そっか、夏なんだ」
 すごく『ぽいなあ』と思った。夏の日差しに反射する彼の金の髪は綺麗だから。
「もう過ぎてるけどな」
「そうなの?」
 こちらでは誕生日を当日に祝ったりしないのだろうか。疑問に思って聞いてみると、どうやら生まれた日ではなく、年を取るのも贈り物をするのも、年明けに行う習慣らしい。
「私の世界だと、生まれた日が特別で、その日に年を取るんだ」
 そういえば、昔は年齢の数え方が違った、という話を聞いたことがあるかもしれない。そもそも国自体が違うわけだし――と考え込んでいると、仲謀がじっとこちらを見ていることに気がついた。
「……特別って何かするのか?」
「誕生日?そうだね――」
 ふと、よぎった記憶に思わず言い淀む。
「……え、と。御馳走食べたり、とか。プレゼントも」
 今年のプレゼントは、ゲームだった。ごちそうを作らなきゃと張り切る母に頼まれた、弟の誕生日プレゼント。タイトルは携帯にメモしていたから、もう思い出すこともない。誕生日にいなくなった姉を、家族はどう思っているのだろう――。
「ぷれぜんと?」
 不思議そうに聞き返す仲謀の声に、現実に引き戻される。
「あ、贈り物のことだよ」
「……へえ。あまりこっちと変わらないんだな」
「そう、だね」
 変わらないのだろうか。今までこの世界に過ごしてきた中で、元の世界と変わらないものはあまり見当たらない。お祝い一つとってみても、やはり馴染みのない儀式的なものが多く、同じとは言い難いのではないかと思う。
「――お前は」
「?」
「いつなんだ?生まれた日は」
「私?春だよ」
 もうとっくに過ぎていることを伝えると、仲謀が眉根を寄せた。
「何で言わねえんだよ」
「……え、何でって。私も忘れてたし。仲謀だって言わなかったじゃない」
 正直、誕生日当日にあまり意味がないことを知って、ほっとしていた。自分が生まれた日という、どうやっても元の世界に残してきた家族と直結することを、考えられる余裕は自分にはまだない。胸の辺りに巣食った罪悪感という名のしこりが痛むのだ。
 ふと、仲謀を見ると怒ったような顔で黙り込んでいた。
「……どうしたの?」
「……何でもねえ」
 そう言って立ち上がると、上着を着始めてしまう。
「もう行くの?」
「ああ」
「……いってらっしゃい」
 ――さっきまで機嫌悪そうじゃなかったのに。出会ったときよりはわかることも増えたけれど、未だに仲謀の機嫌のスイッチは不明な部分がある。振り返りもせず戸を閉めた仲謀の背中を思い出して、無意識に溜息を吐いた。



******



「おい、公瑾。いるか」
「仲謀様――。今からお伺いしようかと。何か急ぎの用でも?」
 朝議よりも前に突然執務室に現れた主と話すため、書簡から目を上げた。難しい顔をしていた主を見て、何か良くない報せでも、と思わず身構える。
「祝うのに何をやったら喜ぶと思う」
「……は?」
 予想外すぎる問いかけに思考が停止しそうになりながらも、とりあえず笑みを浮かべた。おそらく執務とは全然関係のない話だ。
「……奥方様のことでしょうか」
「そうだ」
 ――何故、私に聞くのだろう。軽い眩暈を覚えながら、何かめでたいことでも?と尋ねる。
「花が生まれた日を祝う。もう過ぎてるが」
 ――尚更、何故私に。そもそもそれは年明けに行うことが常であるし、今必要なことなのだろうか。思わず片手で顔を覆いながら、非常に面倒なことに巻き込まれているのでは?という疑念が浮かんでくる。
「そう、ですね……。女人への贈り物でしたら、定番は玉で――」
「あいつが喜ぶと思うか?」
「……いいえ」
 普段の服装からして、華美なものを好むとは思えない。
「では、食べ物など」
「それは別に用意する」
 即座に否定される。
「――何がいいのでしょうね」
 至極どうでもいい。とりあえず山積みの仕事に目を向けて欲しい――。そんなことを考えながら仲謀を見ると、腕を組んで真剣な顔をして考え込んでいた。
 その姿が公瑾の記憶の琴線に引っかかった。そして、糸を手繰り寄せてたどり着いた答えに、吐息が漏れる。避けていたとでも言うべき懐かしい情景の一つが蘇ってしまった。
「……時間はどうでしょうか」
「時間?」
「最近仲謀様はお忙しいですから――。お二人で出掛ける等、ゆっくり過ごされては如何ですか?」
 執務の方は頑張って頂ければ埋め合わせもできましょう。
「……そうだな。そうする。邪魔したな」
 納得した様子にこれで仕事も片付くだろう、と胸を撫でおろした時だった。
「やっぱりお前に聞いて良かった」
 そう言い残して、彼は部屋を出て行った。
 徐々に遠のいていく足音。静まり返った部屋の中で、頭の中には先ほど蘇ってしまった懐かしい声が響いている。
『兄上が喜ぶものは何でしょうか』
『だって、公瑾は兄上と一番仲が良いから』
『あと――』
 思わず天を仰ぎ見る。そんなこともあった。珍しく後悔以外の念で昔を思い出した気がする。
『公瑾なら、必ず答えをくれると思って』
「……何故」
 時を経て、昔と同じものなんてないと思っていたのに。
「変わらないんでしょうね、仲謀様は……」
 揺るぎないその信頼は何なのだろう。それなのに、もたれ掛かるのではなく、自分の足でしっかりと自分の足で歩いていく。
『あいつは馬鹿正直でまっすぐだから、人の話をちゃんと聞くだろう。そうすると周りが放っておかない。――なあ、俺が頼まなくたって、お前はあいつのこと助けてやるだろ』
 弟の才について嬉しそうに語る親友のことまで思い出してしまった。
 仲謀の、『他者を切り捨てられない』あの優しさは乱世では危ういものだと、ずっと思っていた。だが、治世において、それは弱点にはならないのかもしれない。最近は、そう考えるようになっていた。
「――お前の言う通りだな」
 ぽつりと漏らした言葉は、風に吹かれて消えていった。 



******



 仲謀が怒ったように出て行ったその日。夕食時も部屋には戻ってこず、執務室に籠りきりのようだった。それとなく使用人に尋ねると、「そういえば、今日はお忙しいようで姿を見ていませんね……」と返ってきた。いつもより忙しいのは間違いなさそうだった。
 やはり何か怒っていたのだろうか。話がしたかったのだけれど、と無意識に溜息を零してしまう。とはいえ、夜も深まりいつ帰ってくるかわからない。そろそろ寝ようと立ち上がった時、やっと仲謀が帰ってきた。
「おかえ――」
「何だ起きてたのかよ。――丁度良かった。明日出掛けるぞ」
「……明日?」
 出迎える間もなく、急な話に驚く。機嫌は悪くなさそうだ。――勘違いだったかな。そう思いながら胸を撫でおろした。
「どこかに視察?」
「違えよ。休暇だ」
「……休暇」
 本当に急な話である。
「明日朝一で出発するから、準備しとけよな」
「え、私も行くの?」
「だから休暇だって言ってるだろうが。旅行だよ。当たり前だろ」
 急なことで戸惑いはあるものの、旅行と聞いて心が浮き立つ。仲謀とゆっくり過ごせるのも久しぶりな気がした。今日一日、何とはなしに塞いでいた気持ちが晴れていく。
「どこに行くの?」
「山だ」
 ――すごくアバウトだ。山だけではわからない、と文句を言おうとする前に、仲謀はじゃあなと踵を返して部屋を出ていこうとする。
「用意しとけよ」
「え、寝ないの?」
「執務があるんだよ」
 お前は早く寝ろ、と言い残して部屋を出ていってしまった。……今から仕事?それは、明日からの休暇のせいなのだろうか。
 すっかり目が覚めてしまい、ほとんどやることのない準備が終わって床についた後も、中々寝付けなかった。結局、仲謀が部屋に帰ってくることはなかった。 


 不規則に揺れる馬車の中で、欠伸をかみ殺す。寝不足だ。四方を布で囲った馬車は居住性が高く、時折大きく揺れて柱に頭をぶつける以外は快適である。とはいえ――。花よりももっと寝不足であろう仲謀は、そこに報告者や資料を持ち込み、仕事をしていた。
「……大丈夫?」
「何がだよ」
 仲謀の視線は手元のまま、花を見ずに返事をする。
「そんなに忙しいのに休暇って――。休むことを休暇って言うんだよ?」
 今現在仕事をしていたら、これは休暇とは言えないのではないか。仕事が忙しいことは仕方がないと思うが、休みだ旅行だと言うなら、こんなに忙しそうな時を選ばなくても……と思ってしまう。大体、揺れがある場所で文字を読んだりして、酔ったりしないのだろうか。目の前でこうも根を詰められると、心配になってくる。
「んなことぐらい知ってる」
「そもそも、何で急に決まったの?」
「色々あるんだよ。――天気も問題なかったし」
「天気?」
「まあ、都合も良かったしな」
 仲謀は足を組み替えついでに身体を伸ばしながら、そこでやっと花の方を見た。
「俺が公瑾に任せて城を空ければ、同盟反対派の連中も少しは落ち着くだろ。あと、本当に急に決めたから、どこかに何かされる心配も少ないしな」
 公瑾の『療養』という名の謹慎が解けてから、まだほんの一月程度。いわば中原制覇のために起こした彼の行動は、玄徳軍との同盟を反対する派閥に大いに支持される結果となっていた。表向きは『怪我の療養』。それも事実ではあったが、仲謀個人の公瑾への思いはどうであれ、彼の処分如何によっては豪族達の反発が起きかねない。その対応に追われていたのは知っている。そして、それは現在進行形なのだろう。公瑾が変わらず仲謀の右腕であることを示すのに、今回は最適だったということか。
 旅行一つとっても、襲撃される可能性を考えなくてはならない。偉い人とは大変なものだという考えがよぎるが、もう他人事では済まされないのだと思い直す。とはいえ、花の方も最近は忙しい日々が続いていたため、――目の前の夫は忙しそうな夫はともかく――ちょうど良かったのかもしれない。
「山に行くんだよね」
「ああ。まあ半日もあれば着くし、のんびりできるぞ。温泉もあるしな」
「温泉」
 いつぞやの騒動は忘れ、単純なもので気持ちが上向いてくる。と、仲謀が大きな欠伸をした。
「――寝てないんでしょ」
「そうでもしないと時間作れなかったからな」
 と言いながらも書簡から目を離そうとしないものだから、楽しみになってきた気持ちに水を差されるような気持ちになる。
「少し寝たら?」
「馬車で寝れるか」
「……じゃあ、膝貸してあげる」
「…………は?」
 しっかり聞こえていた証拠に、彼は口をぽかんと開けてその動作を止めてしまった。
「――だから、膝貸してあげるから寝たらいいよ」
 要は膝枕なのだが、言い出した方がそわそわと落ち着かなくなる。仲謀はというと、まだ固まっていた。が、徐々にぎこちなく動き出す。
「……別にいい」
「……意地張ってないで寝ればいいじゃん」
「張ってねえ」
 目を逸らしながら不機嫌そうに答えだす夫に、先に痺れを切らしたのは花だった。実力行使とばかりに書簡を取り上げてしまう。
「もうこれはおしまい」
「おい、何すんだよ」
「着いてから眠くなるより今寝て欲しいの。ご飯とか温泉とか色々、休むために行くんでしょ?なら今も休んで!」
「……っ」
 ふい、と顔を背けた仲謀に、これでも駄目かと苛々が募ってくる。本当頑固なんだから――。自分のことは棚にあげながら、一呼吸ついて、静かに言った。
「……寝るのに膝貸してあげるって言ってるだけなのに。変なこと考えてるから、寝れないんでしょ」
 効果はてきめんだった。
「ふっざけんな!馬鹿かお前!寝れるに決まってんだろ‼」
「じゃあ、はい」
 顔を真っ赤にしながら抗議する仲謀を無視して、膝を叩いて誘導する。ぐっと詰まる仲謀に、自分だって恥ずかしくないわけではないのに、と心の中で呟いた。
 時間にしてたっぷり十秒ほど。観念したのかやっと膝に頭を置いた。横を向いているので顔は見えないが、綺麗な形の耳は心なしか赤い。それに気づくと、先ほどまでのやりとりの苛々も忘れてくすりと笑ってしまった。そしてごく自然に金色の柔らかい髪を撫でると、仲謀が飛び跳ねるようにこちらを見た。
「な、んだよ!」
「撫でただけだよ」
「いらねえよ、子どもじゃねえんだから!」
「……知らない。私が触りたいから触るの。もう寝て」
 ぐい、と仲謀の頭を膝に押し戻して、再び髪を撫でる。初めて触った時から柔らかい髪だと思っていたけれど、こうして撫でていると滑らかで気持ちが良い。
 最初こそ身体に力が入っていた仲謀も、気が付くと頭の重みが増し、徐々に寝息が聞こえ始めてきた。
 寝たかな。
 不規則な揺れと、仲謀の寝息、膝の温かさに自分まで眠くなる。
 無理をしないで欲しいのに――。そう思いながら、花もいつの間にか意識を手放していた。



******



「おい、着くぞ」
 仲謀に揺り起こされて、目が覚める。一瞬、見慣れない場所で驚いたが、そうだ馬車に乗って旅行に出かけていたのだったと思い出す。仲謀に膝枕をして、そのまま寝て――。徐々に思い出す記憶とは裏腹に、足は痺れていなかった。
「……いつから起きてたの?」
「お前と違ってどこでも寝れないんだよ」
「……寝てたよね」
「ああ?」
 心なしか目を逸らされている気がするが、追及する前に馬車が止まった。外で使用人達が動き回る気配がする。
 天幕が開けられ、眩しさに目を細めた。仲謀に手を引かれて外に出ると、太陽は真上から南へ進み始め、もう昼を過ぎようとしているところだった。さすがに歩くよりも遥かに楽であるとはいえ、長時間同じ姿勢だと体中が痛い。はしたなくない程度に軽く伸びをしていると、立派な建物が目に入った。
「――すごいね」
 山の中にこんな建物があるのか、と純粋に驚く。
「子どもの頃に、よく来てたんだぜ」
 横に立った仲謀が、嬉しそうに話す。孫家の別荘みたいなものなのだろうか?彼にとって懐かしい場所なのだろう。
 日差しのわりに、京に居る時よりも心なしか涼しく、避暑地として扱われているのだろうかと推測する。そこへ身分の高そうな年配の男性に挨拶をされ、建物の中へと導かれた。聞き覚えのある名前だ。確か、孫家と関係の深い豪族の一人だったように思う。どうも話から察するに、この建物は男性の持ち物で仲謀を招いた、という形になるようだった。聞きたそうな気配を察したのか、仲謀が「親父の戦友だった人だ」と教えてくれた。現代の常識では馴染みのない関係が、そこかしらに落ちていると改めて思う。
 中は外観同様凝った造りで、掃除の行き届いた素敵な場所だった。
「落ち着いたら少し散策でもするか」
「うん」
 部屋に着いてまた仕事を始めるのでは――という懸念が杞憂に終わり、本当に旅行に来たのだなという実感が湧いてくる。
 山といえば、この世界に来た時と、過去に飛ばされた時以来だ。今回はゆっくりと景色を楽しみながら散策できることが、何だか新鮮ではある。野花や木の実など、仲謀は色んなことを知っているのだなと今更な発見もあった。
「伯符兄上に戦や剣術は敵わなかったけどな、虫取りでは負けたことがないんだ」
「へえ」
 見たことのない色の蜻蛉を見かけ、仲謀の思い出話になった。確かにこの山なら色んな虫が捕まえられそうだな、と思う。
「お前、虫は平気だよな」
「うん。まあ。弟と捕まえたりしてたし」
 よく一緒にやってたよ。小さく痛む胸を無視して、笑った。
「勝負でもするか?」
「……遠慮しとく」
 敵前逃亡か、とご機嫌な仲謀に、勝てるわけないよねと返す。住宅街で育った私と、山のことをよく知っている仲謀とで勝負になるわけがない。ふと、饒舌な仲謀を見ながら考え込む。
 ――あの時は怒ってばかりで、こんな話もしなかったな。
 出会って間もなかった頃のこと。変わらないもの、変わったもの。どちらもあると思う。それらが嬉しくて愛おしいと思えるのは、この人のことが好きだからなのだろう。
 結局、あまり奥に行くと獣も多くなり危ないとのことで、近くの沢や開けた場所から見渡せる益州を見て過ごした。
 部屋に戻っても窓から見える緑は美しく、ただここにいるだけでも楽しめるのではないかと思うぐらいであった。この世界にいることが非日常のように感じていたが、嫁ぐことになってからはほぼ城の中にいることが多く、もうそちらの方が日常になってしまったのだなと思う。肌を撫でる風も柔らかく感じ、連れて来てもらえて良かったと喜びに浸っていた。
「ご飯食べる前に、温泉行ってきてもいい?」
「ああ、ゆっくりしてきていいぞ」
 言うなり書簡を広げる仲謀に、やはりかと溜息を洩らしたかったが、こればかりは仕方がない。散策に付き合ってくれただけでもよしとしなければいけないのだろう。普段は執務室に籠っているものだから、実際に仕事をする場に同席しているわけではない。見えないものが見えているだけなのだ。
 それはそうと、忙しい合間を縫ってここまで来たのは、花のためであることは明らかだ。嬉しい気持ちと、そこまでしなくても、という気持ちがないまぜになる。――そういえば、何故ここに来たのか理由を聞いてなかった。
 聞いてみようかとも思ったが、真剣な顔で勤しんでいる姿を見てやめる。私は私で楽しもう。使用人を連れて温泉へと向かった。


 露天風呂は簡単な囲いがあるだけで、まだ明るい時間ということもあり、入るのは中々勇気がいった。だが、一度入ってしまえば湯の中だし周囲の様子も気にならないはず。そもそも使用人が見張ってくれているのだし、心配することなどないと割り切った。
 足からそっと湯に入る。少し熱いぐらいのお湯に肩まで浸かりきると、体中の力が抜けるようだった。温泉は、元の世界との数少ない共通点だ。
 現代で最後に温泉に行ったのはいつだったか。思い出そうとして、頭を振ってやめた。それを知って何になるというのだろう。
 無意識に、溜息が零れた。
 『楽しい』の裏側に、いつも『寂しい』がひっそりとくっついている気がする。もう戻れないこと、家族や友達に会えないこと。それらは、帰ろうとしていた頃は気にならなかったのに、ここに残ることを決めた後では、思い出す度に胸の奥をじわじわと浸食していくものへと変わってしまった。
 忘れたくない。でも、思い出したくない。仕方のないことだとわかっていても、相反する気持ちにバランスが崩れそうになることがある。
 こうして元の世界を想い、その度にこの世界が大事だと確認して。これを何度繰り返すのだろう。
 ――この痛みだけは、これからも抱えていくことになるのだろうか。
「奥方様」
「は、はい!」
 急にかけられた声に、びくりと肩を震わせる。水面がぱしゃりと音を立てた。
「のぼせてしまいますから、そろそろ――」
 思わず考え込んでしまった。――やはり、現代と似通ったものは妙な感傷を誘ってしまう。湯から上がりながら、頬をぱちぱちと叩いて、余計な思考を落とそうとした。


 部屋へ戻ると、予想通り仲謀は部屋を出たときと同じように仕事をしていた。
「仲謀も今から行く?」
「いや、もう食事が来る頃だから、後でいい」
「そっか」
 湯上りの火照った身体を涼ませようと、窓際へ座った。陽が稜線との境を滲ませながら沈もうとしていた。夕暮れ時の少し冷えた心地良い風が、部屋の中へ吹き込んでくる。途端、リン、と涼やかな幻聴が聞こえた。――ああ、風鈴が欲しいな。五感に染み付いた季節は、そうそう変えられるものではないらしい。
 ――どうも、いつもより調子が狂って仕方がない。再び重苦しいしこりが、花の気持ちを沈めようとしてくる。
 別のことを考えようと頭を振ると、仲謀が視界に入った。時折唸っているのは、頭を悩ませる事案だからだろうか。
 ただ単に気分を変えるのであれば、部屋を出れば良かったのかもしれない。けれど、気が付いた時には仲謀の横に座っていた。
「……どうした」
「……うん」
 いつもは座らない距離に、仲謀が訝しむ。
 胸に巣食う淀みはじりじりと形を変えているような気すらした。すぐ消える時もあるというのに。
 横を向けば、仲謀も花を見ていた。
「何かあったか」
 再び聞かれて、話すべきではないか、と悩んでいた心が大きく揺れる。
 ほんの少し前のこと。同じように郷愁に駆られて苦しくなった時に、仲謀が言った言葉を思い出す。帰りたいと思う気持ちは悪くない。寂しくなるのも。――そういう時は言えと、この人は言ってくれた。なら――。
 手をついてずるずると仲謀の前まで移動する。
「……?」
「抱き着いていい?」
「っ、はあ⁉」
 カタン、と書簡が落ちて、横に積んでいた山が崩れた。
「――お、前なあ!飯が来るって言ったの聞いてなかったのかよ!」
「……聞いてたよ。でも――」
 少し、ためらう。本当に、言ってもいいのだろうか。この人に余計なことを背負わせてしまわないだろうか。でも悩んだのは一瞬だった。
「辛いときは……、言えって、言った」
「……何か辛いのかよ」
 戸惑うように揺れる仲謀の言葉にこくりと頷く。大きく息を吐いてから抱きしめられた。
「そういう時は、わざわざ許可取らないで、さっさと抱き着けばいいだろ」
「……でも怒るよね」
「怒らねえよ」
 いや絶対怒ると思う。大体、今聞いたときに怒ったくせに――。そんなことを考えながら、仲謀の背中に手を回す。湯上りで火照った身体が、仲謀の体温に馴染んでいく。
「――何が辛いんだよ」
「……何て言ったらいいか、わからないの」
 話した方がいいのか、話さない方がいいのか。こればかりは、どうしようもないのだ。ただ、通り過ぎるのを待つしかない。それでも、辛いのだと伝えることを選んでしまった。
「じゃあ、言えそうになったら言え」
 待っててやるから。
 まっすぐ、そうあっさりと返された仲謀の言葉が、静かに染み渡っていく。たった、それだけなのに。喉元につかえていたような息苦しさが引いていくのがわかった。
「……大丈夫になった」
「は?」
「辛いの、なくなっちゃった」
「……いや、早すぎだろ。本当に大丈夫なのかよ」
 困惑する仲謀に、ふふ、と笑う。すごい。本当に治ってしまった。
「……大丈夫ならいいけどよ」
「うん。……大丈夫なんだけどね――」
 ものすごく居心地の良い場所を見つけた猫の気分とは、こんなものだろうかと想像する。
「もうちょっと、このままでもいい?」
「…………」
「仲謀?」
 ものすごく大きな溜息が聞こえたかと思うと、抱きしめられていた腕が解かれる。
「――お前は本当に時と場所を考慮しろ。今すぐ改めろ」
「……何の話?」
「怒ってんだよ俺は‼」
「……ちゃんと考えてるよ」
「人前じゃなきゃいいって話じゃないからな⁉」
「……つまり、離れろってこと?」
「…………お前は離れなくていい」
 何かと葛藤したらしい長い間があった。私だけ抱き着いていろということだろうか。
「……よくわかんないけど」
 とん、と再度仲謀の胸に頭を預ける。
「仲謀はすぐ怒る」
「だから!お前のせいなんだよ!」
 怒る仲謀を無視しながら、食事の用意が出来たと外から声をかけられるまで、ずっとそのままでいた。


 夕餉は京城で出るものとはやはり違っていて、仲謀の説明を聞きながら楽しく食べ終えた。山には山の、海には海の宝ともいうべき、その場所にしかない食材やものがあることを強く実感する。もう明日の朝にはここを発つ。急だったけれど、本当に楽しい旅行だったなと反芻しながら、仲謀に声をかけた。
「仲謀、お風呂は?」
「ああ、後で。ちょっと出かけるぞ」
「今から?」
「今からだよ」
 予想外の言葉に首を傾げながらも、外は冷えるからと一枚余分に羽織らせられた。
 手を引かれて外に出ると、昼間とは違って木々の茂りは暗く、怖くすらあった。お付きの者が数人ついてきているというが、姿は見えない。
 生憎、三日月のせいで灯りも乏しい。足元を照らすのは仲謀が持っている提灯のみだ。
「……どこまで行くの?」
「もう少しだ」
 梟か何かの声が森中に響き渡る。少し離れた場所でガサリと音が鳴ると、反射的に身体が震えてしまう。
「何だ、怖いのかよ」
「……当たり前だよ」
「俺様がいるんだから余計な心配すんな」
「…………」
 単純なもので、そう言われた途端不安が薄れていくのがわかった。何だか悔しくて、返事の代わりに握った手に力を込める。先ほどまでは気が付かなかった夏の虫の鳴き声が、柔らかに辺りに反響する。そして少し坂を上り、樹木がない開けた場所に出た時のことだった。
「ほら、着いたぞ」
 仲謀に導かれるまま辿り着いたその光景に、ただただ声を失った。
「―――――」
 空いっぱい。真っ白とも言えるほどの星が散りばめられていた。すごく遠くにあるはずなのに、今にも星が落ちてきそうだ。星が瞬く度に音がしているような気さえする。ただそこに静かに存在しているだけなのに、圧倒的な光景は五感全てに訴えかけるようものを持っているようだ。
「すごいだろ」
「…………」
 本当に、すごい。
 住んでいた場所は元より、山に旅行へ出かけたことだってある。その時に綺麗な星空を見た気がしなくもないが、こんな星空は初めてだった。
「これを見せてやりたかったんだよ」
 優しい仲謀の声に、また返事の代わりに手を握りしめた。何だか泣きそうで、唇を軽く噛みしめる。
「……ありがとう」
 胸がいっぱいで、お礼を言うことしかできない。息苦しいほどの美しさに、しばらく溺れるように見入っていた。



 身体が冷える前に帰ろう、と言われて、夢心地のまま手を引かれて歩き出す。
 この世のものではないと思うぐらい、美しいものを見たからだろうか。タガが外れているのか、今なら言える気がした。
「……仲謀」
「なんだよ」
「……弟の話、していい?」
 前を歩いている仲謀の顔は見えない。が、握った手に力が籠ったのがわかった。仲謀にとって聞きたい話なのかはわからない。それでも、言いたいと思った。
「……ああ」
「黄巾党の時代に飛んじゃった時のこと、覚えてる?」
「はあ?あ、ああ」
 仲謀は思わぬ話題に面食らったようで、声が揺れる。
「仲謀と話しながらね、弟のこと思い出してた」
「……そうか」
「機嫌が悪くなると黙るとことか、弟みたいだなって」
「……お前、俺が年下なのを気にしてんの知ってて、それ言うか?」
「え、気にしてたの?」
「……もういい。で?」
 疲れたような諦めた声音に促され、伝えたかったことを思い浮かべる。周囲は暗く、前を歩いているから仲謀の表情は見えない。見えなくて良かったと少し思う。暗がりが怖かった行きとは違う意味で、心臓がどきどきしている。
「……生意気な子なんだけど、年が離れてるから、あまり喧嘩とかはしたことなくて。わがままだし、どうせ私なら言うこと聞いてくれるだろう、って無理難題言うし。……でもね、姉ちゃんって頼られるの嬉しかった」
 唐突に、涙が一粒だけ溢れた。
「大好きだった。大切で――」
 たった一人の弟。
 なのに、何故だろう。思い出そうとすると、酷く曖昧なことしか出てこない。もっと、弟がどんな子で、こういう良いところがあるんだとか、具体的に話そうと思っていたのに。仲謀に、知っていて欲しかった。私の大事な家族のことを――。なのに、一瞬一瞬を写真で切り取ったような表情が、ぱらぱらと浮かんでは消えていく。
 どうやっても、これ以上弟について話すことが出来そうになかった。私は、弟に対する思い出も、言葉も、もうこれ以上持っていない。そして、それは母親と父親についても同じだろうと思った。
 こうやって消えていくものなのだろうか。それとも、今まで話すことを避けていたから、忘れてしまったのだろうか。どちらにしろ、涙は最初の一粒しか流れなかったし、話すことが出来ない事実に対して、自分でも驚くほど悲しさは感じなかった。
 急に、仲謀が立ち止まった。少し躊躇ったような間の後、振り返って少し驚いた顔をする。
「――泣いてんのかと思った」
 涙の跡も残さなかった頬をゆっくりと撫でられた。その手を上からそっと握る。――何故悲しくないのか、わかった。
「……良かった」
「――何がだよ」
 消えていく記憶が、仲謀ではなくて。
 薄情だと思う。十七年過ごした場所、血の繋がった家族よりも、目の前にいる人の方が大事などと。帰らなかった後悔はまだ疼くけれど、苦しい時は仲謀がいれば治ってしまうことも知ってしまった。
 今、私はこの人を忘れるぐらいなら、帰らなくて良かったと心から思ってしまった。
「……聞いてくれてありがとう。帰ろう」
 釈然としないような仲謀の顔。いや、違う。不安そうな顔だ。ちゃんと言わなくてはいけない。
「私ね、ここに残って良かった。仲謀と、ずっと一緒に居たい」
 他の何を捨ててでも、私は仲謀のことだけは諦められないんだ。 



******



 突然の休暇はあっという間に終わり、もう帰路に向かう馬車の中だ。風通し用に開けられた幕の隙間からは気持ちの良い風が入り込んでくるし、揺れは心地良いしで、欠伸が抑えられない。
 仲謀はというと、ぼうっと外を眺めていた。
「お仕事はもう終わったの?」
「終わってねえ」
「……大丈夫なの?」
 頑張りすぎていても心配だし、終わってないと聞くとそれはそれで心配だ。どことなく、いつもと様子が違う気もしていた。
「ま、少しくらい多めに見てくれるだろ」
 仲謀は頭の後ろで腕を組んで、身体を伸ばした。今回の休暇を取るにあたり、相当無理をしたのだろうが、何故今だったのかを聞きそびれていた。
「都合が良いって言ってたけど……。何かきっかけでもあったの?」
「――別に」
 頬杖をついて、じっと見つめられた。
「お前は……」
「?」
 言い淀む仲謀に首を傾げる。
「楽しかったか?」
「うん。すごく楽しかった。連れて来てくれてありがとう」
「――そ、っか。またいつでも連れて来てやるよ」
「……うん」
 いつでも。先の約束が出来ることが嬉しい。湧き上がる気持ちをそのまま伝えることが出来たらいいのに。
「また行きたい」
 その言葉に、仲謀がやっと小さく笑った。途端、外で馬のいななきが響き渡る。何かあったのだろうか。そちらに気を取られていると、仲謀が小さく呟く声が聞こえた。
「? 何か言った?」
「いや、何でもねえ」
 どこか吹っ切れたような表情で、笑いかけられる。
「仲謀様」
 外からお付きの人が声をかけてきた。どうも先行していた馬車の車輪が道を外れてしまったらしく、対処中だという報告だった。
「ま、帰ったらまた仕事漬けだろうし、帰りぐらいゆっくりする」
「そうだね」
 何を言っていたのか聞きそびれたことも忘れ、他愛のない話を再開する。
 ようやく馬車も動き出し会話もなくなると、車輪が地面を踏みしめる音と、馬蹄が地面を蹴る音がやけに大きく聞こえた。外にいる兵士達が楽しそうに笑う声も。
 周囲の音に耳を澄ませていると、本格的に睡魔が襲ってきた。
「寝とけ。まだしばらくかかる」
「……うん」
 見ていないようで、花の様子は把握している。その安心感に、言われるまま素直に目を閉じた。 


 城に着くとすぐに大喬や小喬、尚香達が出迎えてくれた。離れていたのはほんの一日半だったというのに、何だかすごく久しぶりな気がする。お土産を渡して喜ぶ顔を見てから、仲謀は執務室へ直行し、花は休むために部屋へと向かった。あれだけ寝たというのに、いや寧ろ寝すぎたせいなのかまだ眠気が取れていなかった。
 旅行は楽しかったものの、帰ってくるとそれはそれで安心する。それだけ、ここが自分にとって当たり前の場所になっているのだろうと思うと、嬉しかった。
 そんなことを考えていると、廊下の向こうから公瑾がこちらへ歩いていくのが見えた。目が合う。
「――これは奥方様。お帰りなさいませ」
「た、ただいま帰りました……」
 花の目下の課題は、公瑾とどう付き合うか……である。ここに至るまでに自分のことをよく思われていないのは明白だった。復帰してからは、少し物腰が柔らかくなったように思えなくもないが――。
「お祝いは楽しめましたか?」
「……お祝い?」
 急に振られた話題に首を傾げる。何のことだろう。
 答えられないでいると、公瑾が眉根を寄せた。
「――お祝いで行かれたのでしょう?」
「え、っと……?」
「…………」
 沈黙が続いた後、公瑾が大きな溜息を吐いた。
「……奥方様」
「は、はい」
 凛とした声で急に呼ばれ、背筋が伸びる。
「今の、聞かなかったことにして頂けますか?」
「へ?」
 何を言われているのか飲み込めないでいると、公瑾が今まで見た中でも、とびきりの笑みを浮かべた。
「して頂けますか?」
「……はい」
 彼は強めに私にお願いした後、袖で口元を隠しながら小さくぼやいた。
「――まったく、しょうがない人ですね」
 何のことだろう。当然聞く勇気はなく、聞こえない振りをした。
「では、私はこれで」
「あ、はい」
 ろくに会話も出来ないまま、いつも通りの涼し気な雰囲気で去っていく公瑾の背中を見る。
 ――お祝い?
 聞かなかったことに、と言われて都合よく忘れられるわけがなく、歩きながら考える。
 最近の出来事といえば、旅行しか思い当たることがない。旅行がお祝いだったということだろうか。何か祝うことなんて――。
 たどり着いた答えに、思わず足が止まった。
 ――誕生日?
『色々あるんだよ。――天気も問題なかったし』
『これを見せてやりたかったんだよ』
『――別に』
 仲謀の言葉が線を繋ぐように蘇り、胸が締め付けられた。何故、無理を通してでも出かけたのか。結局彼は理由を言わなかった。
 肝心なことは、いつも言ってくれない。どんな気持ちであの場所に連れて行ってくれたんだろう。どうして、私ばかり楽にさせるのだろう。仲謀の、不安そうな顔を思い出した。
 ――寄りかかっているばかりだと、何も見えない。
「……ばかだなあ」
 行き場のない感情が苦しいぐらい溢れて、衣の裾を掴んでやりきる。

 さっきまでずっと一緒だったのに、どうしようもなく貴方に会いたい。

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