猫の額
『ひねもす』
#公路
#夢
魁四周年で書いた話の一つです。トップバッターで公開しました。
****************
朝も昼も夜も。
日がな一日飽きもせず、よくそこまで一生懸命になれるものだと、彼女が滞在する庵を眺める。
風に乗って流れてくる琴の音は、お世辞には上手いとは言い難い。けれど、耳に入れば傾けずにはいられない不思議な音色だった。
音が聞こえては、自然とそちらへ向きそうになる足を何度か抑えた後。このままでは仕事に支障をきたすと、意を決して彼女の元へ向かった。
――琴を教えてやって欲しい。
彼女の父親がそう言ってきたのは、ふた月ほど前のこと。
思惑は色々あるのだろうが、父親同士で決められたそれに異を唱えられるわけもなく、そうとは見えぬように渋々と了承した。
一方で、彼女の方はわかりやすく不機嫌だった。
「琴の名手と名高い方ならともかく、何故この方に学ばねばならないのですか」
こちらを見ることもなく言い捨てられたそれに、口端が引き攣る。
確かに、確かに彼女の言う通り、自分は琴は弾けてもとりたて得意というわけではない。だが、彼女にそれを言われる筋合いはない。
父の顔を立てとりあえず笑ってみた顔は、自分でも相当ひどいものだったと、今でも思う。
最初は、自宅に帰れば琴の音が聞こえるだけで苛々した。あの時、私に教わることを嫌がっていた彼女の顔を思い出しては、はらわたが煮え繰り返るようですらあった。
しかし、いざ手ほどきを始めてみれば、彼女は至って真剣で素直にこちらの言うことを聞き入れる。
技術は心許ないが、一度言えば理解はする。そして言われた通りにできない己に対して、眉根を寄せながら悔しそうにする顔を見ていれば、自然と溜飲は下がった。
「何故、そこまで琴を?」
一日一回の手ほどきが終われば、そのまま茶の時間になる。最初こそ苦痛でしかなかった時間も、彼女に対し何の感情も持ち合わせなくなれば、こちらから話しかけることも増えた。
「……父上が、琴の一つも弾けぬようでは駄目だと」
手ほどき以外の会話では相変わらず顰めっ面を崩さない彼女が、気まずそうに視線を逸らして言った。父親に言われたから。ただそれだけで、あのような眼差しで取り組むだろうか。
ふと、琴に向き合う彼女の姿が浮かぶ。
盤面に落ちる目線を縁取る睫毛。付け爪から伸びる細い指先。没頭するあまり、結い上げた髪がはらりと一筋崩れる瞬間――。
思い浮かべてしまったそれらに、琴とは何の関係もないではないかと頭を振る。
どうにも、最近ふとした拍子に彼女のことを思い出すことが増えてしまった。
「公路様も――」
硬い声音。それでも出会ったときよりは棘はない。ただひたすら真っ直ぐな性格故のものなのだろうと、彼女のことが少しわかり始めていた。
「琴も弾けぬ女子は、駄目だと思われますか?」
じっと見つめられる。その瞳が不安そうに揺れたように見えて、思わず息が詰まった。
「――私は、」
手元の茶器を握りしめる手に、汗が滲むのがわかった。何故、こんなにも緊張しているのかわけがわからない。
「弾ける、弾けぬよりも――。その、どれだけ懸命に向き合えるかどうかの方が、大事だと思うが」
言い終え、どっと早まった心臓に動揺し、一気に茶を煽る。彼女の方を見ていられなかったが、ちらと視界の端に映った顔は。――少し、赤かったように思う。
その日からだろうか。
日がな一日。朝も昼も夜も。
家にいてもいなくても、琴の音が聞こえても聞こえなくても。
ふとした拍子に彼女のことを思い浮かべてしまう。
一日一回の手ほどきの時間が、待ち遠しいとさえ思う。
今日の分は、すでに今朝方終えてしまった。
だから、今これから向かう理由を、彼女の前に出るまでに考えておかねばらない。
2021.08.22 18:56:30
三国恋戦記 魁
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朝も昼も夜も。
日がな一日飽きもせず、よくそこまで一生懸命になれるものだと、彼女が滞在する庵を眺める。
風に乗って流れてくる琴の音は、お世辞には上手いとは言い難い。けれど、耳に入れば傾けずにはいられない不思議な音色だった。
音が聞こえては、自然とそちらへ向きそうになる足を何度か抑えた後。このままでは仕事に支障をきたすと、意を決して彼女の元へ向かった。
――琴を教えてやって欲しい。
彼女の父親がそう言ってきたのは、ふた月ほど前のこと。
思惑は色々あるのだろうが、父親同士で決められたそれに異を唱えられるわけもなく、そうとは見えぬように渋々と了承した。
一方で、彼女の方はわかりやすく不機嫌だった。
「琴の名手と名高い方ならともかく、何故この方に学ばねばならないのですか」
こちらを見ることもなく言い捨てられたそれに、口端が引き攣る。
確かに、確かに彼女の言う通り、自分は琴は弾けてもとりたて得意というわけではない。だが、彼女にそれを言われる筋合いはない。
父の顔を立てとりあえず笑ってみた顔は、自分でも相当ひどいものだったと、今でも思う。
最初は、自宅に帰れば琴の音が聞こえるだけで苛々した。あの時、私に教わることを嫌がっていた彼女の顔を思い出しては、はらわたが煮え繰り返るようですらあった。
しかし、いざ手ほどきを始めてみれば、彼女は至って真剣で素直にこちらの言うことを聞き入れる。
技術は心許ないが、一度言えば理解はする。そして言われた通りにできない己に対して、眉根を寄せながら悔しそうにする顔を見ていれば、自然と溜飲は下がった。
「何故、そこまで琴を?」
一日一回の手ほどきが終われば、そのまま茶の時間になる。最初こそ苦痛でしかなかった時間も、彼女に対し何の感情も持ち合わせなくなれば、こちらから話しかけることも増えた。
「……父上が、琴の一つも弾けぬようでは駄目だと」
手ほどき以外の会話では相変わらず顰めっ面を崩さない彼女が、気まずそうに視線を逸らして言った。父親に言われたから。ただそれだけで、あのような眼差しで取り組むだろうか。
ふと、琴に向き合う彼女の姿が浮かぶ。
盤面に落ちる目線を縁取る睫毛。付け爪から伸びる細い指先。没頭するあまり、結い上げた髪がはらりと一筋崩れる瞬間――。
思い浮かべてしまったそれらに、琴とは何の関係もないではないかと頭を振る。
どうにも、最近ふとした拍子に彼女のことを思い出すことが増えてしまった。
「公路様も――」
硬い声音。それでも出会ったときよりは棘はない。ただひたすら真っ直ぐな性格故のものなのだろうと、彼女のことが少しわかり始めていた。
「琴も弾けぬ女子は、駄目だと思われますか?」
じっと見つめられる。その瞳が不安そうに揺れたように見えて、思わず息が詰まった。
「――私は、」
手元の茶器を握りしめる手に、汗が滲むのがわかった。何故、こんなにも緊張しているのかわけがわからない。
「弾ける、弾けぬよりも――。その、どれだけ懸命に向き合えるかどうかの方が、大事だと思うが」
言い終え、どっと早まった心臓に動揺し、一気に茶を煽る。彼女の方を見ていられなかったが、ちらと視界の端に映った顔は。――少し、赤かったように思う。
その日からだろうか。
日がな一日。朝も昼も夜も。
家にいてもいなくても、琴の音が聞こえても聞こえなくても。
ふとした拍子に彼女のことを思い浮かべてしまう。
一日一回の手ほどきの時間が、待ち遠しいとさえ思う。
今日の分は、すでに今朝方終えてしまった。
だから、今これから向かう理由を、彼女の前に出るまでに考えておかねばらない。