猫の額








『まだ見えぬ所有欲』 #仲花
合肥攻略(告白)前のおはなし。




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 ほんの思いつきだった。――自分の部屋まで中庭を突っ切れば早いかも。早速階段を降り、生垣を抜けた瞬間――派手な衝撃音と共に、私は水を被っていた。
「……え?」
 思考が追いつかず固まっていると、続いて上がった悲鳴にびくりと身体を震わせる。
「も、申し訳ありません!!」
 使用人の女性が三人ほど、ばたばたと慌てて近寄ってきた。手には柄杓と桶。
「大丈夫でございますか? ああ、お召し物が濡れて――」
「すぐ着替えをお持ち致しますね。どうぞお部屋に」
 どうやら生垣に水をやっているところに出くわしてしまったらしい。申し訳なさそうな彼女達に、近道しようとした自分が悪いのにと申し訳なくなる。
「大丈夫です。上着だけだし…。それより、私こそごめんなさ――」
「どうした!」
 謝り終えない内に、悲鳴を聞きつけたのか仲謀とお付きの人たちが駆け寄ってきた。状況を一目見て、厳しい目つきになる。
「何があった」
 強い咎めるような口調に、使用人達がさっと青ざめた。
「あの、違うの! 私がここを通り抜けようとしてたら、水遣りしてたのに気がつかなくて――!」
 仲謀はちらりと私を一瞥し短く息を吐いた後、「早く替えを」と命令した。一人が慌ててその場を立ち去っていく。いつもと少し様子の違う彼に、ここの統治者であることを改めて実感していると、仲謀は側近に何かを指示してからこちらへやってきた。
「ほんっとにお前はガサツなやつだな!」
「う、……」
 言いように少し腹が立つけれども、その通りで何も返せない。
「……で、大丈夫なのか」
「あ、……うん。ちょっと濡れただけだよ」
 急に変わった気遣う声に、少し動揺する。服の状態を確認すると、羽織りはびしょびしょだった。中まで染みる前に、と脱いでみるとカーディガンまで濡れている。仕方がない、これも脱いでおこう、とボタンを外し始めると――、周りがどよめいた。
「なっ!にを、やってんだよ!」
「え?これも濡れちゃってて」
 何故か慌てている仲謀に説明しながら脱いでみると、思ったより水を吸っていた。これは乾くのに時間がかかりそうだと考えていると、仲謀が「お前なぁ!」と怒り出した。
「これでも着てろ!」
 言うが早いか、ばさりと仲謀の上着を被せられる。
「え、いや、いいよ……」
「嫌ってなんだ!」
「そ、そういう意味じゃなくて……」
 ぐいぐいと無理やり上着を着せられながら、ふいに衣服から伝わる温もりに意図せず頬が熱くなる。――さっきまで仲謀が着てたから。
 併せて過去に飛ばされた時にも、こうして上着を貸してもらったことを思い出してしまい、心が大きく波立った。――恥ずかしいんだけど。以前よりも大きく感じる羞恥心に戸惑っていると、じっと仲謀に見つめられていることに気が付いた。
「な、なに?」
「……別に。――チビだなと思っただけだ」
 不機嫌そうに顔を背けられ、何か悪口まで言われた。――優しいかと思ったら怒りだす。相変わらず、仲謀の考えていることはよくわからない。
「……じゃあな。後で返せ」
「え、これ着てなきゃいけないの?」
 この格好で部屋まで? 嫌だなという気持ちが思いっきり声に滲み出てしまった。
「――何か文句でもあんのか」
「……ないです」
 青筋でも浮かびそうなほど凄む仲謀に、これ以上何か言えるはずもなく引き下がる。大股で歩いていく背中を見ながら、お礼も言わなかったことに今更気づいた。
 彼が何を考えているのかは、わからないけれど。意外と優しいよね。意外と――。
 自然と緩む頬に気づかず、侍女に連れられて部屋に戻る。そういえば、あの時は「一応女だから」と上着を貸してくれたのだった。そう、彼は意外と優しいから。
 ――私じゃなかったとしても、こうやって上着を貸したのかもしれない。
 そう、思った途端。足元がぐらついたような感覚に足が止まる。使用人の一人が心配そうにかけてくれる声に、上の空で大丈夫ですと答えた。
 何だか息苦しくて手を口元にやると、自分の物ではない、知らない匂い。
 ――何だろう、これ。
 急に湧き出てきた名前の知らない感情を持て余して、無意識に上着の端をぎゅっと握りしめた。

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