猫の額
『夏』
#奉先
エンド後のお話です。
魁四周年記念で書いたお話の一つです。
****************
雨上がり。草の湿った匂いが辺りに満ちている。それらは陽が落ち、冷え始めた空気には心地良い。
邪魔する雨粒がなくなったことで、そろそろと夜に活動する虫たちが声を張り始めた。細く高く、見上げる空に吸い込まれていくようだと思う。
虫の音が季節を感じるのだと教えてくれたのは巴だ。
今は、空に光る星の名前をとつとつと語っている。
「多分、あれが大三角形かなあ」
「へえ」
星に詳しいわけではないが、巴の言う“星の名前”は聞いたことのない変なものばかりだった。
空に動物を見ることは同じだが、天帝はおろか人がいない。たまにいたかと思えば、それは神だという。あまり詳しいわけではないけれど、と前置きして話し出したのは、巴にとっても異国の神々の物語だった。
寝る前に一つ、二つ。最近はそれらを聴いている。
「他にもあったと思うけど、私が覚えてるのはそれくらいかな」
星読みなどという高等なことは出来ないが、生きていくには欠かせないのが星空だ。中でも天高く濃い空に浮かぶ一点。どこに向かうにも必要な目印。巴の国では『北極星』と呼ぶそれは、名前こそは違えど、標となる星は同じだとわかって少し嬉しかった。
「でもやっぱり、ちょっと違う気がするな」
「そりゃ洛陽からかなり離れたんだ。星の位置も変わるさ」
リーン、と一際大きく虫が鳴いた。その音に巴の声が重なり、よく聞こえなかった。
「ん?」
「洛陽じゃないよって言ったの」
いつもと少しばかり違う揺れた声音に、巴の方に向き直る。彼女は天を仰いだままだ。
洛陽ではない。もちろん、長安でもないはずだ。躊躇いつつも、口を開く。
「……お前の国って、どれだけ遠いんだ?」
「――どのくらい、なんだろう」
巴が天に向かって手を伸ばす。
「……今光ってる星が、消えるくらい遠く、かもしれない」
「……どういう意味だ?」
難しくてわからん、と零せば笑い声で返ってきた。
「私も難しくてわかんないな」
もう寝よう、と巴もこちらへ向き直る。いつも通りの、笑顔。
敷布にさらりと音を立てて流れた彼女の髪に、手を伸ばした。
指先に触れる柔らかな髪の感触に後押しされながら、いつも喉元まで出かけていた言葉を押し出す。
「……お前の故郷って、どんなところなんだ?」
目が、合う。その顔からは何の感情も読み取れない。
「――どうしたの?」
笑おうとしたのだろうか。失敗したようで、目元が歪んだ巴の頬を手の甲で撫でる。
「お前が嫌じゃなければ、聴きたい」
彼女の故郷のことなど、以前は気にも留めなかったというのに。いや、違う。ただ聞くのが怖かったのだ。故郷が恋しくなれば、巴は帰ってしまう気がして――。
しかし、こうして二人で話せば話すほど、巴の考え見ているものの違いは何なのか、彼女の生まれ育った場所のことを知りたくなった。
今だって、彼女がいなくなる不安がなくなったわけではない。けれど、俺を置いていなくなるとも思えない。何より、巴のことをもっと知りたい欲の方が優った。
「――うん」
月明かりの乏しい今日、俯き翳った巴の顔はよく見えない。けれど泣いているような気がして、すまん、と理由もわからず謝った。
首筋に、巴の額が押し付けられる。じわりと伝わる熱を感じながら後頭部を、出来るだけ優しく撫でる。
違うよ、嬉しいんだよ。虫の音にかき消されそうなほど小さな巴の声が、直接震えて届いた。
2021.08.23 18:50:43
三国恋戦記 魁
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雨上がり。草の湿った匂いが辺りに満ちている。それらは陽が落ち、冷え始めた空気には心地良い。
邪魔する雨粒がなくなったことで、そろそろと夜に活動する虫たちが声を張り始めた。細く高く、見上げる空に吸い込まれていくようだと思う。
虫の音が季節を感じるのだと教えてくれたのは巴だ。
今は、空に光る星の名前をとつとつと語っている。
「多分、あれが大三角形かなあ」
「へえ」
星に詳しいわけではないが、巴の言う“星の名前”は聞いたことのない変なものばかりだった。
空に動物を見ることは同じだが、天帝はおろか人がいない。たまにいたかと思えば、それは神だという。あまり詳しいわけではないけれど、と前置きして話し出したのは、巴にとっても異国の神々の物語だった。
寝る前に一つ、二つ。最近はそれらを聴いている。
「他にもあったと思うけど、私が覚えてるのはそれくらいかな」
星読みなどという高等なことは出来ないが、生きていくには欠かせないのが星空だ。中でも天高く濃い空に浮かぶ一点。どこに向かうにも必要な目印。巴の国では『北極星』と呼ぶそれは、名前こそは違えど、標となる星は同じだとわかって少し嬉しかった。
「でもやっぱり、ちょっと違う気がするな」
「そりゃ洛陽からかなり離れたんだ。星の位置も変わるさ」
リーン、と一際大きく虫が鳴いた。その音に巴の声が重なり、よく聞こえなかった。
「ん?」
「洛陽じゃないよって言ったの」
いつもと少しばかり違う揺れた声音に、巴の方に向き直る。彼女は天を仰いだままだ。
洛陽ではない。もちろん、長安でもないはずだ。躊躇いつつも、口を開く。
「……お前の国って、どれだけ遠いんだ?」
「――どのくらい、なんだろう」
巴が天に向かって手を伸ばす。
「……今光ってる星が、消えるくらい遠く、かもしれない」
「……どういう意味だ?」
難しくてわからん、と零せば笑い声で返ってきた。
「私も難しくてわかんないな」
もう寝よう、と巴もこちらへ向き直る。いつも通りの、笑顔。
敷布にさらりと音を立てて流れた彼女の髪に、手を伸ばした。
指先に触れる柔らかな髪の感触に後押しされながら、いつも喉元まで出かけていた言葉を押し出す。
「……お前の故郷って、どんなところなんだ?」
目が、合う。その顔からは何の感情も読み取れない。
「――どうしたの?」
笑おうとしたのだろうか。失敗したようで、目元が歪んだ巴の頬を手の甲で撫でる。
「お前が嫌じゃなければ、聴きたい」
彼女の故郷のことなど、以前は気にも留めなかったというのに。いや、違う。ただ聞くのが怖かったのだ。故郷が恋しくなれば、巴は帰ってしまう気がして――。
しかし、こうして二人で話せば話すほど、巴の考え見ているものの違いは何なのか、彼女の生まれ育った場所のことを知りたくなった。
今だって、彼女がいなくなる不安がなくなったわけではない。けれど、俺を置いていなくなるとも思えない。何より、巴のことをもっと知りたい欲の方が優った。
「――うん」
月明かりの乏しい今日、俯き翳った巴の顔はよく見えない。けれど泣いているような気がして、すまん、と理由もわからず謝った。
首筋に、巴の額が押し付けられる。じわりと伝わる熱を感じながら後頭部を、出来るだけ優しく撫でる。
違うよ、嬉しいんだよ。虫の音にかき消されそうなほど小さな巴の声が、直接震えて届いた。