猫の額








『水も滴る』 #伯巴

初めてワンライ企画に参加したお話で、初の伯巴公開したお話でした。




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 ここに降る雨は、道場のことを思い出させる。
 建物の構造が近いから、雨粒が響く音が似ているのかもしれない。はたまた、土と緑が雨に湿る匂いのせいだろうか。目を閉じると、磨き上げられた床、手入れの行き届いた弓が美しく並ぶ姿が浮かぶ。雨の日の道場の静けさが、大好きだった。
 雨が降っている音さえ聞けば、どんなことも洗い流してくれると思っていた。


 わずかな感傷の間。閉じていた目を開けた時だった。ざわざわと回廊の向こう側が騒がしくなる。
「いや、参りましたな」
「まさか、ここまでとは」
 濡れた髪や肩を手で振り払いながら、見知った兵士達がこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、この通りですよ。巴殿は?」
「私はすぐ軒に入れましたので」
 ついさっきまで、雲ひとつない青空だったというのに。急に風が強くなり、空気が冷えてからはあっという間だった。雨雲が空を覆い、そこそこ強目の雨が降り出したのだ。
 皆が一様に辟易する様子にくすりと笑いを溢していると、後ろから声をかけられた。
「巴?」
 太く、低い声。それだけで誰に声をかけられたのかがわかって、心臓が跳ねた。
 私の名前をそんな風に呼ぶのは、ここではただ一人だ。
「伯符──」
 意を決して振り返った。ところで、声を失った。
「濡れてるじゃないか。女が身体を冷やすなと言っただろう」
 呆然と目の前の彼を見上げる。掻き上げた金色の前髪から、ぼたりと雫が落ちる。濡れた睫毛のせいか、眼光も緩い。これが絵画ならため息を溢していただろうに、と頭の片隅でそんなことを思う。
「──伯符さんの方が、濡れてますよ」
 やっとそれだけを絞り出して、視線を逸らす。
 水も滴る──とはよく言うけれど、居た堪れなくなるほどのものだとは思いもしなかった。
 ――彼のことを好きだから、そう思うのだろう
「伯符様、どうぞ」
 いつの間にか駆け寄っていた侍女達が、雨に濡れた者たちに布を渡しに走り回っている。伯符さんはそれを受け取ると、何と私の方に被せてきた。
「っ、え」
 わしゃわしゃと頭を掻き回されることに思考がついていかず、逃げようとすると頭をがしりと掴まれた。
「動くな。やりづらい」
 ぴしゃりと子どもに言い聞かせるような物言いに、身体が固まる。それなのに、時折彼の指が耳や頬に当たるから――嬉しいはずなのに、こんな形じゃなかったらいいのに、と思ってしまう。
「──はい」
「このくらいでいいか。さっさと着替えろよ」
 これではまるで子どもだ。いや、子どものようなものなのかもしれない。この世界に迷子のように紛れ込み、拾ってくれた彼からすれば、私はそんなものなのだろう。
 そう思うと、ひどく悲しかった。
「──伯符様」
 侍女が新しい布を心配そうに再度渡している。
 そうだ、伯符さんの方が濡れたままだったのに、と思ったところで、今度は手に布を押し付けられた。
「え」
「今度はお前だ」
 そう言うなり屈むと、頭を差し出された。
 ──私が拭くってこと?
 かあっと頭に血が昇る。どうしていいかわからずマゴマゴしていると、「早く」と少し苛立った声が聞こえる。
 早く脈打つ心臓が痛いほどで、手が震えそうだ。──布越しだし、とそっと布を被せて、伯符さんの髪の水分を拭き取ろうと押さえていく。
「それじゃ乾かないだろ」
「──あまり乱暴にすると、髪が痛むんですよ」
 すごく近くにある金糸のような伯符さんの髪。濡れているせいなのか、透明感のあるそれに素手で触れてみたいと思うのに、見ているだけで動くことができない。
 近くに、いるのに。それとも、近くにいられるだけでいいのだろうか。
 この人のことが好きだと思う気持ちは確かなのに、一歩踏み出す勇気がもてない。
 ふと、伯符さんが顔をあげようと力を込めたのがわかり、手を浮かせる。もう少し、こうしていたかったな。そんなことを思いながら、一歩退こうとしたときだった。
 身を起こした伯符さんに、私の髪を一房、掬わ
れた。
「――っ」
「まあ、痛んでないか」
「――い、っかいぐらいじゃ、ならないです」
「そうか」
 柔らかく笑った顔に、泣きそうになる。ただ、頬と耳を掠るように。髪を一房触れられただけなのに。
 それが息が詰まるほど嬉しくて、同時に苦しく
て。後一歩、彼に近づくことができない。


 雨が降っているのに、この気持ちは流れてくれ
ない。

三国恋戦記 魁 編集

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