猫の額
『水も滴る』
#伯巴
初めてワンライ企画に参加したお話で、初の伯巴公開したお話でした。
****************
ここに降る雨は、道場のことを思い出させる。
建物の構造が近いから、雨粒が響く音が似ているのかもしれない。はたまた、土と緑が雨に湿る匂いのせいだろうか。目を閉じると、磨き上げられた床、手入れの行き届いた弓が美しく並ぶ姿が浮かぶ。雨の日の道場の静けさが、大好きだった。
雨が降っている音さえ聞けば、どんなことも洗い流してくれると思っていた。
わずかな感傷の間。閉じていた目を開けた時だった。ざわざわと回廊の向こう側が騒がしくなる。
「いや、参りましたな」
「まさか、ここまでとは」
濡れた髪や肩を手で振り払いながら、見知った兵士達がこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、この通りですよ。巴殿は?」
「私はすぐ軒に入れましたので」
ついさっきまで、雲ひとつない青空だったというのに。急に風が強くなり、空気が冷えてからはあっという間だった。雨雲が空を覆い、そこそこ強目の雨が降り出したのだ。
皆が一様に辟易する様子にくすりと笑いを溢していると、後ろから声をかけられた。
「巴?」
太く、低い声。それだけで誰に声をかけられたのかがわかって、心臓が跳ねた。
私の名前をそんな風に呼ぶのは、ここではただ一人だ。
「伯符──」
意を決して振り返った。ところで、声を失った。
「濡れてるじゃないか。女が身体を冷やすなと言っただろう」
呆然と目の前の彼を見上げる。掻き上げた金色の前髪から、ぼたりと雫が落ちる。濡れた睫毛のせいか、眼光も緩い。これが絵画ならため息を溢していただろうに、と頭の片隅でそんなことを思う。
「──伯符さんの方が、濡れてますよ」
やっとそれだけを絞り出して、視線を逸らす。
水も滴る──とはよく言うけれど、居た堪れなくなるほどのものだとは思いもしなかった。
――彼のことを好きだから、そう思うのだろう
「伯符様、どうぞ」
いつの間にか駆け寄っていた侍女達が、雨に濡れた者たちに布を渡しに走り回っている。伯符さんはそれを受け取ると、何と私の方に被せてきた。
「っ、え」
わしゃわしゃと頭を掻き回されることに思考がついていかず、逃げようとすると頭をがしりと掴まれた。
「動くな。やりづらい」
ぴしゃりと子どもに言い聞かせるような物言いに、身体が固まる。それなのに、時折彼の指が耳や頬に当たるから――嬉しいはずなのに、こんな形じゃなかったらいいのに、と思ってしまう。
「──はい」
「このくらいでいいか。さっさと着替えろよ」
これではまるで子どもだ。いや、子どものようなものなのかもしれない。この世界に迷子のように紛れ込み、拾ってくれた彼からすれば、私はそんなものなのだろう。
そう思うと、ひどく悲しかった。
「──伯符様」
侍女が新しい布を心配そうに再度渡している。
そうだ、伯符さんの方が濡れたままだったのに、と思ったところで、今度は手に布を押し付けられた。
「え」
「今度はお前だ」
そう言うなり屈むと、頭を差し出された。
──私が拭くってこと?
かあっと頭に血が昇る。どうしていいかわからずマゴマゴしていると、「早く」と少し苛立った声が聞こえる。
早く脈打つ心臓が痛いほどで、手が震えそうだ。──布越しだし、とそっと布を被せて、伯符さんの髪の水分を拭き取ろうと押さえていく。
「それじゃ乾かないだろ」
「──あまり乱暴にすると、髪が痛むんですよ」
すごく近くにある金糸のような伯符さんの髪。濡れているせいなのか、透明感のあるそれに素手で触れてみたいと思うのに、見ているだけで動くことができない。
近くに、いるのに。それとも、近くにいられるだけでいいのだろうか。
この人のことが好きだと思う気持ちは確かなのに、一歩踏み出す勇気がもてない。
ふと、伯符さんが顔をあげようと力を込めたのがわかり、手を浮かせる。もう少し、こうしていたかったな。そんなことを思いながら、一歩退こうとしたときだった。
身を起こした伯符さんに、私の髪を一房、掬わ
れた。
「――っ」
「まあ、痛んでないか」
「――い、っかいぐらいじゃ、ならないです」
「そうか」
柔らかく笑った顔に、泣きそうになる。ただ、頬と耳を掠るように。髪を一房触れられただけなのに。
それが息が詰まるほど嬉しくて、同時に苦しく
て。後一歩、彼に近づくことができない。
雨が降っているのに、この気持ちは流れてくれ
ない。
2021.06.05 09:33:01
三国恋戦記 魁
編集
HOME
読み終えた場合は、ウィンドウを閉じてお戻りください
三国恋戦記
(45)
三国恋戦記 魁
(30)
ハートの国のアリスシリーズ
(35)
アラビアンズ・ロスト
(4)
仲花
(22)
三国恋戦記・今日は何の日
(14)
伯巴
(10)
エース
(8)
夢
(6)
本初
(6)
早安
(5)
公路
(5)
ペーター
(4)
その他
(3)
ユリウス
(3)
ボリス
(3)
ブラッド
(3)
翼徳
(3)
孟徳
(3)
華陀
(3)
ビバルディ
(2)
ゴーランド
(2)
子龍
(2)
孟卓
(2)
玄徳
(2)
仲穎
(2)
ナイトメア
(1)
ディー&ダム
(1)
エリオット
(1)
ブラック×アリス
(1)
クイン×アリス
(1)
ルイス
(1)
ロベルト
(1)
マイセン
(1)
カーティス
(1)
ブラックさん
(1)
雲長
(1)
雲長
(1)
尚香
(1)
仲謀
(1)
公瑾
(1)
華佗
(1)
芙蓉姫
(1)
奉先
(1)
本初
(1)
妟而
(1)
孔明
(1)
文若
(1)
Powered by
てがろぐ
Ver 4.1.0.
初めてワンライ企画に参加したお話で、初の伯巴公開したお話でした。
****************
ここに降る雨は、道場のことを思い出させる。
建物の構造が近いから、雨粒が響く音が似ているのかもしれない。はたまた、土と緑が雨に湿る匂いのせいだろうか。目を閉じると、磨き上げられた床、手入れの行き届いた弓が美しく並ぶ姿が浮かぶ。雨の日の道場の静けさが、大好きだった。
雨が降っている音さえ聞けば、どんなことも洗い流してくれると思っていた。
わずかな感傷の間。閉じていた目を開けた時だった。ざわざわと回廊の向こう側が騒がしくなる。
「いや、参りましたな」
「まさか、ここまでとは」
濡れた髪や肩を手で振り払いながら、見知った兵士達がこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、この通りですよ。巴殿は?」
「私はすぐ軒に入れましたので」
ついさっきまで、雲ひとつない青空だったというのに。急に風が強くなり、空気が冷えてからはあっという間だった。雨雲が空を覆い、そこそこ強目の雨が降り出したのだ。
皆が一様に辟易する様子にくすりと笑いを溢していると、後ろから声をかけられた。
「巴?」
太く、低い声。それだけで誰に声をかけられたのかがわかって、心臓が跳ねた。
私の名前をそんな風に呼ぶのは、ここではただ一人だ。
「伯符──」
意を決して振り返った。ところで、声を失った。
「濡れてるじゃないか。女が身体を冷やすなと言っただろう」
呆然と目の前の彼を見上げる。掻き上げた金色の前髪から、ぼたりと雫が落ちる。濡れた睫毛のせいか、眼光も緩い。これが絵画ならため息を溢していただろうに、と頭の片隅でそんなことを思う。
「──伯符さんの方が、濡れてますよ」
やっとそれだけを絞り出して、視線を逸らす。
水も滴る──とはよく言うけれど、居た堪れなくなるほどのものだとは思いもしなかった。
――彼のことを好きだから、そう思うのだろう
「伯符様、どうぞ」
いつの間にか駆け寄っていた侍女達が、雨に濡れた者たちに布を渡しに走り回っている。伯符さんはそれを受け取ると、何と私の方に被せてきた。
「っ、え」
わしゃわしゃと頭を掻き回されることに思考がついていかず、逃げようとすると頭をがしりと掴まれた。
「動くな。やりづらい」
ぴしゃりと子どもに言い聞かせるような物言いに、身体が固まる。それなのに、時折彼の指が耳や頬に当たるから――嬉しいはずなのに、こんな形じゃなかったらいいのに、と思ってしまう。
「──はい」
「このくらいでいいか。さっさと着替えろよ」
これではまるで子どもだ。いや、子どものようなものなのかもしれない。この世界に迷子のように紛れ込み、拾ってくれた彼からすれば、私はそんなものなのだろう。
そう思うと、ひどく悲しかった。
「──伯符様」
侍女が新しい布を心配そうに再度渡している。
そうだ、伯符さんの方が濡れたままだったのに、と思ったところで、今度は手に布を押し付けられた。
「え」
「今度はお前だ」
そう言うなり屈むと、頭を差し出された。
──私が拭くってこと?
かあっと頭に血が昇る。どうしていいかわからずマゴマゴしていると、「早く」と少し苛立った声が聞こえる。
早く脈打つ心臓が痛いほどで、手が震えそうだ。──布越しだし、とそっと布を被せて、伯符さんの髪の水分を拭き取ろうと押さえていく。
「それじゃ乾かないだろ」
「──あまり乱暴にすると、髪が痛むんですよ」
すごく近くにある金糸のような伯符さんの髪。濡れているせいなのか、透明感のあるそれに素手で触れてみたいと思うのに、見ているだけで動くことができない。
近くに、いるのに。それとも、近くにいられるだけでいいのだろうか。
この人のことが好きだと思う気持ちは確かなのに、一歩踏み出す勇気がもてない。
ふと、伯符さんが顔をあげようと力を込めたのがわかり、手を浮かせる。もう少し、こうしていたかったな。そんなことを思いながら、一歩退こうとしたときだった。
身を起こした伯符さんに、私の髪を一房、掬わ
れた。
「――っ」
「まあ、痛んでないか」
「――い、っかいぐらいじゃ、ならないです」
「そうか」
柔らかく笑った顔に、泣きそうになる。ただ、頬と耳を掠るように。髪を一房触れられただけなのに。
それが息が詰まるほど嬉しくて、同時に苦しく
て。後一歩、彼に近づくことができない。
雨が降っているのに、この気持ちは流れてくれ
ない。