猫の額
『白線 ~こちら側~』
#仲花
『白線』
の続きといえば続きのお話です。エンド後。
****************
長い、夢を見ていた。
羽音と共にさえずった、鳥の鳴き声で目が覚める。窓から細く柔らかく差し込む朝日によって、空中のチリが映し出される様子をぼんやりとした頭で眺めた。
――ああ、夢だったんだ。どこかほっとしながらその内容をなぞろうとして、全く思い出せないことに気が付いた。
胸に重く残る何かに首を傾げつつも、大した夢ではなかったのだろうと、ゆっくり身を起こす。
大きく伸びをして、そろりとベッドから足を下ろす。ひやりとした床を素足で歩き、寝間着を脱いで着替え、簡単に身支度を整える。ふあ、と小さく欠伸が漏れた。
季節は、春も終わる頃。昼間にはカーディガンを着ていると汗ばむ程の陽気で、着るべきか否か少し迷う。
ひとまず気温を確認しようと、自室の窓を開けたときだった。
――雪が、降っていた。
「……え」
ひとつ。またひとつ。
ゆっくりと白い欠片が、右へ左へと揺れながら、まるで舞うように落ちてくる。
目が慣れると、雪だと思ったそれは大量に舞う白い花びらであることに気が付いた。
建物に沿うように配置された木々の花が満開を迎えていて、いつ散ってしまうのだろうと思っていた。今日がその日だったらしい。
自室から眺めるのが、密かな楽しみだったのだけれど――。
残念に思う間にも、白い欠片は絶え間なく上から下へと舞い降りる。雪のように花びらが視界を埋め尽くすその光景は、どこか現実味を欠くほど綺麗だった。
そのまま眺めていると、白い花びらが風とともに部屋に吹き込んだ。
枠に落ちた一枚の花弁を拾い上げる。色や形こそ違えど、薄い手触りといい、散り方といい、本当に似ていると思った。
「……桜みたい」
「何だそれ」
急に聞こえた声に驚き、振り返る。そこには、同じく花弁を手にした仲謀がいた。
「……入るときはちゃんと言ってってば」
「だから、何回も声かけたんだよ。ぼーっとしすぎだ、お前は」
危なっかしいんだよ、と文句を言いながら、彼は窓枠へと近づき私の隣に立つ。そして外を覗き込んだ。
「もう春も終わりだな」
この花が散ることが、その合図なのだろうか。懐かしそうに目を細めた仲謀の横顔を見つめる。満開になってからというもの、彼は花見と称してこの部屋にお茶を飲みに来ていたが、それももう少しで終わるのだろう。
「……綺麗な花だね」
「ああ、見事だろ」
誇らしげに語るその姿が、国の行く末を語るときのそれに似ていて、思わず頬が緩んだ。
「絶好の花見酒日和だな」
「……本当にお酒好きだね」
結局宴会か、とため息をこぼす。そして、荊州に仲謀が迎えにきてくれた時に開かれた宴のことを思い出し――、頭が痛くなってきたのでやめた。
ほんの少し前まで荊州にいて、元の世界に帰ろうかとすら思っていたのに。
私は今、この人の隣にいる。
「で、“さくら”ってなんだこぼよ」
仲謀の言葉に、聞こえていたのかと目をみはる。何となく、故郷の花に似ていると言うことは躊躇われた。
一瞬の沈黙。ただ、説明すればいいだけなのに。思わず視線を逸らしてしまったこと自体に動揺しながらも、口を開きかけた時だった。
ざわざわと外が騒がしくなり、仲謀が窓の外に視線を遣る。つられて見れば、外から見回りの兵士たちが帰還してきたらしかった。
出迎える人々の『おかえり』という言葉が、ここまで漏れ聞こえてくる。
――おかえり、か。
私も、そうやって出迎える立場になるのだろうか。否、もうなっているのだろうか。
ちらりと仲謀の横顔を盗み見る。こうして、この人の隣にいられることは嬉しい。嬉しい、のだけれど……。
今の、自分たちの関係を何と言えばいいのだろう。
仲謀とともに京城に戻ってきた私は、『玄徳軍の元軍師』ではなく、仲謀の――いわゆる、『婚約者』になっていた。
変わったのは名称だけではない。案内されたのは、今まで滞在していたのとは別の部屋だった。明らかに質の違う調度品。部屋付きの侍女。この待遇はおかしいと、違和感があるといえば最終的には喧嘩になり、こちらが折れた。
更に、近日中に教養係として先生が何人かつくと聞いた。今まで文字も何となくでしか把握していなかったし、この世界についての知識もマシになったとはいえ、まだまだ知らないことも多い。少しだけ仲謀に教えてもらったことのある舞も、本格的な指導を受けることになるらしい。
もちろん、全て必要なことだとはわかってはいる。
けれど、以前とは違う環境、それから人々の目線。立て続けの変化を全て受け入れろというのも無理がある。
自室の窓から見える白い花が咲き誇る絶景だけが、唯一受け入れられるものだったというのに。
その小さな拠り所が散っていく不安と、一つの思いつきに拳を握りしめた。
「……何だよ」
見つめられていることに気付いたらしい彼が、こちらへ向き直り、すぐに目線を逸らす。僅かに赤くなった形の良い耳を眺めながら、たった今思いついたことを口にした。
「馬って、一人で乗るの大変なの?」
「……何の話だ?」
「乗る練習しようかな、と思って」
「はあ?」
予想外にも、仲謀は顔を顰めながら声を荒げた。
「えっ。だ、駄目?」
今まで馬に乗っての移動といえば、誰かに同乗させてもらうばかり。その相手はほとんどが仲謀だ。彼の忙しさはよく知っているし、会えない日だってある。となれば、誰かに迷惑をかけ続けるわけにもいかないだろう。何より、仲謀が喜ぶだろうと思ったのだが――。この反応だ。
「必要ないだろ」
「……そう、かな」
そもそも、馬にも乗れないのかと文句を言っていたのは、後にも先にも仲謀ただ一人なのだけれど。
「俺様と一緒に乗ればいいだろうが」
「……うん」
「何だよ、不満なのかよ」
「そうじゃなくて……」
段々と彼の声に棘が混じり始めている。様々な返答を思い浮かべ、どう言えば意図が伝わるのだろうかと考えを巡らせる。
「……ここで暮らしていくのに、馬に乗れないと不便っていうか。必要なのかな? と思って」
「……」
「だって、いつも仲謀がいるわけじゃないでしょ? その度に誰かに乗せてもらうのは気が引けるし」
「他の男との同乗を許すわけないだろ」
「……ほら」
こうしてはっきりと見せる彼の独占欲に、どう対応すればいいのかわからず視線を逸らす。むずむずとかいうレベルではなく、居心地が悪い。この人は自覚なしに恥ずかしいことを言う。
とはいえ、元々は仲謀も馬に乗れた方が喜ぶだろうと思って訊いたことだ。彼が反対しても乗りたい、というほどでもない。別の何かを探そう。一人そう納得し、話題を変えようとしたときだった。
「……今日、いや明日」
「?」
「……そうだな、明日の朝飯の前ならいけるか。迎えに行くから起きて待ってろよ」
返事をする間もなく、彼は部屋を出て行こうとする。
「……え、何」
唐突な誘いに戸惑う間に、彼は出て行ってしまった。全くもって仲謀らしい――。
結局その日は、もう仲謀に会える機会はなかった。
* * *
朝はまだ冷え込むとはいえ、息を吐いても白くなることはない。毛皮のついた外套を必要とするほどでもない。けれど、いつもの制服とカーディガン、羽織だけではまだ軽装すぎたな、と腕をさすりながら後悔する。
朝陽は城壁の向こう側から昇っているようで、端がぼんやりと明るい。それでも、まだ半分以上は夜の領域だ。そんな中、私は仲謀と二人、薄暗い城内の回廊を歩いていた。
真っ暗闇の中、侍女から名前を呼ばれたときは何事かと思ったが、まさか仲謀がこんな早朝からら来るとは思わなかった。結局どこに行くのかも満足な説明はなく、恨めし気に彼の背中を見つめる。けれど一向に気づく様子はない。
ただ、二人分の足音だけが回廊に響く。
急に心細くなって羽織の袷を握りしめる。そこそこ知っているはずの京城が、知らない場所のように思えた。どこへ向かうのかもわからず、思わず仲謀の裾を掴みたくなったときだった。
「仲謀様」
急に掛けられた声に、びくりと身体が跳ねた。薄暗い回廊の先から、誰かが話しかけてきたらしい。――もう、誰か起きてるんだ。
仲謀はそれに軽く対応し、すぐに歩き出す。かと思えば、仕事をする人々の群れに遭遇した。皆一様に仲謀に頭を下げたり、声をかけたり――。
それに軽く応じる彼の背中に、ああ偉い人なんだよね、と今更な感想が浮かぶ。
そんなことはとっくの昔に知っているし、実感もしているのだけれど、ふとした瞬間に『自分とは立場が違う人だ』と思うのだ。――最近は、特にそうだ。
ここに滞在していたのは短い期間ではない。けれど、以前はあくまでも『玄徳軍の軍師』という『よそ者』の立場だった。尚香さんや大喬さん、小喬さんが仲良くしてくれているとはいえ、まだまだ玄徳軍に比べれば馴染みは薄い場所だ。あそこでは“軍師”の山田花として、皆から必要とされている実感もあった。けれど、今はどうだろう。
何の立場もなく、ただ仲謀が私を必要としていて、私が残りたかったから、ここにいるに過ぎない。私がいることが、呉軍の役に立つわけでもなんでもないのだ。
――ああ、また。
みぞおちの辺りがぎゅっと詰まる。元の世界に帰るんだ、と思っていた頃にはなかったものだ。
仲謀のそばに居たいと、自分で決めたのに。ときおり、『居場所』はどこなんだろうと漠然とした不安に駆られる。――私は、本当にここにいてもいいのだろうか。
いつの間にか下がっていた目線の先に、見慣れたローファーが映る。
私が歩く場所は、ここで良かったのだろうか。
後悔なんてしない、そう思っていたのに――。唇を噛みしめ、嫌な考えを切り替えようと意図的に顔を上げれば、厩の方角に向かっていることに気が付いた。
「……出かけるの?」
「そんな時間ねえよ」
「……そう」
ということは、遠出するわけではないらしい。そういえば、もっと寒かった頃、こうして出かたけことがあった。
一緒に見た朝陽の美しさと、凍えながら帰った後に、仲謀が受けていた叱責を思い出す。彼を叱る家臣の言葉は、畏まっているのに、まるで子どもを叱るようだった。そしてそれに慣れた様子で対応する仲謀。彼らが家族のように見えて微笑ましかったなと、こっそり笑いをこぼした。
結局、辿り着いたのは予想通り厩だった。数人がブラシで馬の手入れをしたり、エサをやっている姿が見える。
仲謀は「待ってろ」と言い残すと、一人の厩番に話しかけた後に、一頭の馬を引き連れて戻ってきた。
「……出かけないんだよね?」
「練習するんだろうが」
練習。思ってもみなかった言葉に、目を瞬かせる。
「……乗れなくていいって」
「教えないとは言ってない」
──必要ないってはっきり言ったよ。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。こういう時に何を言っても、自分の主張を通されるのはわかりきっている。朝から無駄なことに体力を使わなくてもいいか、とため息をこぼすのみに留めた。
仲謀が連れてきた馬は、艶のある栗毛の美しい馬だった。いつも仲謀が乗る馬よりも、小柄のようだ。私に合わせてくれたのだろう。
「まずは、一人で乗るところからだな」
そう言って、仲謀は足場となる木箱を持ってきてくれた。
「手綱とたてがみを掴んで、あぶみを踏んどけ。そっからよじ登ればいける」
馬自体にはそこそこ乗りなれていると思っていたが、いざ一人で乗るとなると緊張もあり手間取ってしまう。木箱に乗って言われた場所を掴めば、近づいた馬の熱気に手汗が滲んだ。
怖気付いていても仕方がないと息を吸う。左足を鎧にかけ、右足を蹴った。
「――っ、と」
やや不恰好にぐらついたものの、身体を乗せることには成功した。ずるずるとお尻を引きずりながら位置を調整して、今まで言われてきたように姿勢を正す。最後に目線を上げたところで、背筋がひやりとした。
馬が足を踏み鳴らすだけで、落ちてしまいそうだ。冷えた風が両脇を通り抜け、自然と手綱を握りしめる手に力が篭った。
――怖い。
真っ先に浮かんだのは、恐怖だった。
一人で乗る心細さはもちろん、手綱さばきや判断次第で、自分だけでなくこの馬も危ない目に合わせてしまうかもしれない。その可能性を考えてしまうと、乗ることをやめた方がいいのではという考えがちらつく。
「大丈夫か?」
声とともに、強張った手に温かさを感じる。見れば、仲謀の手が重なっていた。
「あんまり硬くなると、馬も不安がるぞ」
まっすぐこちらを見上げる仲謀の瞳が、光の加減で青く見える。自然と、力が抜けていくのがわかった。
いつもそうだ。普段は、ちっとも私の気持ちなんてわかってくれない、と思うことの方が多いのに。私が不安になったときだけは気づいて、手を差し伸べてくれる。一人じゃないんだって、教えてくれる。
「――大丈夫」
その言葉に、仲謀が笑った。そう言うだろうと、期待通りだとでも言わんばかりに、誇らしげに笑うから。嬉しさと同時に、『もういい』と言った時の彼の顔を思い出して、息が詰まった。
ずっと、迷っていた。
仲謀のことは好きでも、それだけでは駄目だったから。玄徳軍のことも、公瑾さんに言われたことも、私自身の帰りたいという気持ちのことも。
そして、どちらの軍にも与することができないまま、自分が正しいと思った、尚香さんの身代わりになることを選んだ結果――仲謀を、傷つけた。
それなのに。
どうしてこの人は、私を迎えにきたんだろう。
玄徳軍の皆と別れるとき。船で京まで戻るとき。京城での扱いが変わったときに、これで良かったのかと揺らぐ自分がいた。――帰らなくて良かったのかと、そんなことを思ってしまった。
だから、何てことのない、桜の話すらできない。
仲謀は、ずっとまっすぐで揺らがないのに、私だけがいつまでも取り残されたままだ。
それでも、ただ一つだけ強く思うことがある。
――もう、あんな顔はさせたくない。
この人が笑うために、私は何ができるんだろう。一緒に生きていくために、何をすべきなんだろう。
「今日は一人で乗る感覚を掴むだけで良い。指示は俺が出すから、落ちないようにしろよ」
頷くと、仲謀の手がそっと離れた。そうして気づいた事実に、乾いた唇を閉じて、唾を大きく飲み込んだ。震えそうになる足に力を入れ、馬の胴体をしっかり挟む。
――ずっと『一緒』なんて、不可能なんだ。
だって、進むときは一人だ。
馬が動き出せば、同乗させてもらう時と同じで大したことはなかった。それは仲謀も見て感じ取ったようで、特に何も言わない。そうして、すっかり空が明るみ始めた頃には、元の場所に戻ってきていた。これから先、指示を足で出したり馬の様子を見たり――。気軽に乗れないかと聞いたけれど、思ったよりも難しそうだ。
「降りる時もさっきと同じ場所をしっかり掴んどけ。逆に考えればいけるだろ」
逆。右足の鎧に体重をのせ、左脚を右側に寄せる。このまま木箱まで身体を降ろせるはず、と思ったところで、たてがみを掴んでいた手が滑った。
「わっ――」
木箱から、足を踏み外す。
「っ、と!」
「あ、ありがと……」
落ちるところを、仲謀に支えられ事なきを得る。反射的にお礼を言えば、呆れた声が返ってくる。
「変なとこで気ぃ抜くな」
ごめんと言おうとしたところで、抱き止められている体制に気が付き、言葉が引っ込む。足は地に着いたというのに、仲謀の手は背中に触れたままだし、離れる気配がない。
かといって大袈裟に離れるのもなんだと、気恥ずかしさを誤魔化すために思いついたことを口にする。
「あ、あの時に教えてもらえば良かったね」
「あの時?」
「洛陽まで旅したときに――」
ああ、と仲謀が納得する。
「お前鈍臭そうだから、教えたって乗れないと思ってたしな」
「ひどい……」
あの時の彼の態度を思い出し、本当にそう思っていたのだろうことが容易に想像できた。眉尻を下げれば仲謀が声を上げて笑うから、またずきりと胸が痛んだ。
仲謀が笑うと嬉しいのに、その度に罪悪感がじりじりと胸を焦がす。
「……何で、教えてくれる気になったの?」
背中に触れられた手の感触よりも、顔を見なくてもいい体制であることにほっとしている。本当は、迎えにきてくれた理由を聞きたかった。
『もういい』
あの傷つけたときの表情が、声が、ずっと頭から離れない。大人しくしてろと言われたのに、身代わりを引き受けたこと。見張りの目を掻い潜って迎えにきてくれたのに、一緒に行けなかったこと。――そんな私だから、『もういい』んだ。そう、思っていた。
「――別に」
「気になるよ」
意を決して振り返り、仲謀を仰ぎ見れば、空が一段と明るくなっていたことに気が付いた。もうすぐ、夜が明ける。
「……俺も、覚悟しとかないといけないと思ったんだよ」
「?」
言っている意味がわからなくて、首を傾げる。どういうことかを尋ねる前に、仲謀は口端をあげてイタズラっぽく笑った。
「どうせお前は、勝手に厄介ごとに首を突っ込んでいくんだからな」
――どうして。
鼻がツンとする。反射的に目が潤んだのが、自分でもわかった。
どうして、こんな風に笑えるんだろう。
「そのときに、馬に乗れなくて危ない目に遭うぐらいなら、乗れた方がましだろ」
「――乗れる方が大人しくしてないかも」
「その程度でお前のじゃじゃ馬が収まるかよ」
「……人を乱暴者みたいに」
「お前みたいなのは無謀って言うんだよ」
笑いながらぐしゃり、と髪を掻き回される。
「それに」
一転して落ち着いた仲謀の声音に、ゆっくりと顔を上げる。ああ、この顔も知っている。
「自分が正しいって思ったことをやり遂げるお前だから――。俺は、お前がいいんだ」
この国のことを話すときと同じ瞳。その仲謀の言葉が、胸に落ちて、痛みに変わる。そう言ってくれるのは嬉しい。
この人のことが、好きだと思う。この人の期待に、応えたい。
でも、この人を傷つけてばかりの自分に、それができるだろうか。そして、何とも情けない事実に気が付いた。
「……何で泣いてんだよ」
「――泣いてないよ」
言葉とは裏腹に、頬にじとりと涙が伝う。
今更だ。
何度も迎えにきてくれたことも。その手を取らなかったことも。最後の最後まで迷っていたことも。
いつも、怒ったり小言を言ったとしても、最後には笑ってくれる仲謀を、傷つけなければ。
――私は、ここに残ろうと思わなかった。
「……」
頬に、仲謀の指が触れた。ぎこちないその動きに思わず笑えば、何だよと怒ったような声が返ってくる。濡れた場所を拭ったその手に、自分の手を伸ばす。仲謀の手は温かくて、思わずほっとして息がこぼれた。
帰らなかったことを後悔しない、と本が消えたときには思った。けれど、故郷への想いが吹っ切れたわけでもない。心の隅のどこかで、『これで良かったのか』と思う私だって居る。でも――。
目を開ければ、城壁を越え始めた朝陽がオレンジ色に辺りを染め始めていた。仲謀の金色の髪が、濃く染まっている。そして、何も言わずに、でも心配そうにこちらを見つめる青い瞳。
この人の手を取らずに帰っていたら――。一人で、『あんな顔』をさせていたかもしれない。
それなら。
仲謀を傷つけてでも、今、ここにいて良かった。
「ありがとう」
何度も迷う私を。
自分が正しいと思ったことは、あなたを傷つけてでも選んでしまう私を。
そうでもしないと、あなたがどれだけ大切なのかもわからない私に。
何度でも手を伸ばしてくれて、ありがとう。
言葉にできない思いを抱えて、拭われた涙の残りを、手の甲でこすりながら笑いかけた。
「馬に乗れるようになったら、一緒に遠出したいな」
以前出かけた時みたいに、朝陽を見に行ってもいい。
「あ? ああ。まあ、そうだな」
ようやく、仲謀の目尻が緩く下がった。
乗る馬は違っても、出来るだけ同じ場所に向かって、同じ物を見ればいい。考えることは違っていても、隣にいて、話がしたい。笑ったり、喧嘩したりすることもあるだろうけど、共に過ごしていきたい。
進むときは一人でも、それでもそばに居れば『一緒』なんだと思うから。
この人の作る未来を、『一緒』に見たい。
「もう一回、練習していい?」
「ああ」
泣いていた理由が、気にならないわけではないだろうに、仲謀は何も訊かない。いつもは口うるさいぐらいなのに、こんな風にそっとしておいてくれるのも、彼らしいと思い小さく笑った。
さっきまでオレンジ色だった光は、城壁をあっという間に越えてしまい、無色透明で柔らかな光に変わっていた。あの朝のように、特別でも何でもない。でも、それで良かった。忘れられない一瞬よりも、何気ない日常の方が大事だと思える。
ふと、視界の端に、あの桜に似た花びらが映り込んだ。風に乗ってここまで飛んできたのだろう。
まるで雪のような欠片を見ていると、胸が張り裂けそうに辛くて、泣いていた光景を脳裏がよぎる。
いつのことだろうと記憶を追いかけようとしたけれど、すぐに消えてしまった。多分、必要のないことなのだろう。
「あのね、仲謀――」
きっと、これからも悩むし、足りない覚悟もたくさんあるけれど。知りたいことも、伝えたいこともたくさんある。
まずは、あの花が故郷に咲く花に似ていることから話そう。
後悔をするなら、共に生きる方を選びたいから。
2022.08.28 15:58:24
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長い、夢を見ていた。
羽音と共にさえずった、鳥の鳴き声で目が覚める。窓から細く柔らかく差し込む朝日によって、空中のチリが映し出される様子をぼんやりとした頭で眺めた。
――ああ、夢だったんだ。どこかほっとしながらその内容をなぞろうとして、全く思い出せないことに気が付いた。
胸に重く残る何かに首を傾げつつも、大した夢ではなかったのだろうと、ゆっくり身を起こす。
大きく伸びをして、そろりとベッドから足を下ろす。ひやりとした床を素足で歩き、寝間着を脱いで着替え、簡単に身支度を整える。ふあ、と小さく欠伸が漏れた。
季節は、春も終わる頃。昼間にはカーディガンを着ていると汗ばむ程の陽気で、着るべきか否か少し迷う。
ひとまず気温を確認しようと、自室の窓を開けたときだった。
――雪が、降っていた。
「……え」
ひとつ。またひとつ。
ゆっくりと白い欠片が、右へ左へと揺れながら、まるで舞うように落ちてくる。
目が慣れると、雪だと思ったそれは大量に舞う白い花びらであることに気が付いた。
建物に沿うように配置された木々の花が満開を迎えていて、いつ散ってしまうのだろうと思っていた。今日がその日だったらしい。
自室から眺めるのが、密かな楽しみだったのだけれど――。
残念に思う間にも、白い欠片は絶え間なく上から下へと舞い降りる。雪のように花びらが視界を埋め尽くすその光景は、どこか現実味を欠くほど綺麗だった。
そのまま眺めていると、白い花びらが風とともに部屋に吹き込んだ。
枠に落ちた一枚の花弁を拾い上げる。色や形こそ違えど、薄い手触りといい、散り方といい、本当に似ていると思った。
「……桜みたい」
「何だそれ」
急に聞こえた声に驚き、振り返る。そこには、同じく花弁を手にした仲謀がいた。
「……入るときはちゃんと言ってってば」
「だから、何回も声かけたんだよ。ぼーっとしすぎだ、お前は」
危なっかしいんだよ、と文句を言いながら、彼は窓枠へと近づき私の隣に立つ。そして外を覗き込んだ。
「もう春も終わりだな」
この花が散ることが、その合図なのだろうか。懐かしそうに目を細めた仲謀の横顔を見つめる。満開になってからというもの、彼は花見と称してこの部屋にお茶を飲みに来ていたが、それももう少しで終わるのだろう。
「……綺麗な花だね」
「ああ、見事だろ」
誇らしげに語るその姿が、国の行く末を語るときのそれに似ていて、思わず頬が緩んだ。
「絶好の花見酒日和だな」
「……本当にお酒好きだね」
結局宴会か、とため息をこぼす。そして、荊州に仲謀が迎えにきてくれた時に開かれた宴のことを思い出し――、頭が痛くなってきたのでやめた。
ほんの少し前まで荊州にいて、元の世界に帰ろうかとすら思っていたのに。
私は今、この人の隣にいる。
「で、“さくら”ってなんだこぼよ」
仲謀の言葉に、聞こえていたのかと目をみはる。何となく、故郷の花に似ていると言うことは躊躇われた。
一瞬の沈黙。ただ、説明すればいいだけなのに。思わず視線を逸らしてしまったこと自体に動揺しながらも、口を開きかけた時だった。
ざわざわと外が騒がしくなり、仲謀が窓の外に視線を遣る。つられて見れば、外から見回りの兵士たちが帰還してきたらしかった。
出迎える人々の『おかえり』という言葉が、ここまで漏れ聞こえてくる。
――おかえり、か。
私も、そうやって出迎える立場になるのだろうか。否、もうなっているのだろうか。
ちらりと仲謀の横顔を盗み見る。こうして、この人の隣にいられることは嬉しい。嬉しい、のだけれど……。
今の、自分たちの関係を何と言えばいいのだろう。
仲謀とともに京城に戻ってきた私は、『玄徳軍の元軍師』ではなく、仲謀の――いわゆる、『婚約者』になっていた。
変わったのは名称だけではない。案内されたのは、今まで滞在していたのとは別の部屋だった。明らかに質の違う調度品。部屋付きの侍女。この待遇はおかしいと、違和感があるといえば最終的には喧嘩になり、こちらが折れた。
更に、近日中に教養係として先生が何人かつくと聞いた。今まで文字も何となくでしか把握していなかったし、この世界についての知識もマシになったとはいえ、まだまだ知らないことも多い。少しだけ仲謀に教えてもらったことのある舞も、本格的な指導を受けることになるらしい。
もちろん、全て必要なことだとはわかってはいる。
けれど、以前とは違う環境、それから人々の目線。立て続けの変化を全て受け入れろというのも無理がある。
自室の窓から見える白い花が咲き誇る絶景だけが、唯一受け入れられるものだったというのに。
その小さな拠り所が散っていく不安と、一つの思いつきに拳を握りしめた。
「……何だよ」
見つめられていることに気付いたらしい彼が、こちらへ向き直り、すぐに目線を逸らす。僅かに赤くなった形の良い耳を眺めながら、たった今思いついたことを口にした。
「馬って、一人で乗るの大変なの?」
「……何の話だ?」
「乗る練習しようかな、と思って」
「はあ?」
予想外にも、仲謀は顔を顰めながら声を荒げた。
「えっ。だ、駄目?」
今まで馬に乗っての移動といえば、誰かに同乗させてもらうばかり。その相手はほとんどが仲謀だ。彼の忙しさはよく知っているし、会えない日だってある。となれば、誰かに迷惑をかけ続けるわけにもいかないだろう。何より、仲謀が喜ぶだろうと思ったのだが――。この反応だ。
「必要ないだろ」
「……そう、かな」
そもそも、馬にも乗れないのかと文句を言っていたのは、後にも先にも仲謀ただ一人なのだけれど。
「俺様と一緒に乗ればいいだろうが」
「……うん」
「何だよ、不満なのかよ」
「そうじゃなくて……」
段々と彼の声に棘が混じり始めている。様々な返答を思い浮かべ、どう言えば意図が伝わるのだろうかと考えを巡らせる。
「……ここで暮らしていくのに、馬に乗れないと不便っていうか。必要なのかな? と思って」
「……」
「だって、いつも仲謀がいるわけじゃないでしょ? その度に誰かに乗せてもらうのは気が引けるし」
「他の男との同乗を許すわけないだろ」
「……ほら」
こうしてはっきりと見せる彼の独占欲に、どう対応すればいいのかわからず視線を逸らす。むずむずとかいうレベルではなく、居心地が悪い。この人は自覚なしに恥ずかしいことを言う。
とはいえ、元々は仲謀も馬に乗れた方が喜ぶだろうと思って訊いたことだ。彼が反対しても乗りたい、というほどでもない。別の何かを探そう。一人そう納得し、話題を変えようとしたときだった。
「……今日、いや明日」
「?」
「……そうだな、明日の朝飯の前ならいけるか。迎えに行くから起きて待ってろよ」
返事をする間もなく、彼は部屋を出て行こうとする。
「……え、何」
唐突な誘いに戸惑う間に、彼は出て行ってしまった。全くもって仲謀らしい――。
結局その日は、もう仲謀に会える機会はなかった。
* * *
朝はまだ冷え込むとはいえ、息を吐いても白くなることはない。毛皮のついた外套を必要とするほどでもない。けれど、いつもの制服とカーディガン、羽織だけではまだ軽装すぎたな、と腕をさすりながら後悔する。
朝陽は城壁の向こう側から昇っているようで、端がぼんやりと明るい。それでも、まだ半分以上は夜の領域だ。そんな中、私は仲謀と二人、薄暗い城内の回廊を歩いていた。
真っ暗闇の中、侍女から名前を呼ばれたときは何事かと思ったが、まさか仲謀がこんな早朝からら来るとは思わなかった。結局どこに行くのかも満足な説明はなく、恨めし気に彼の背中を見つめる。けれど一向に気づく様子はない。
ただ、二人分の足音だけが回廊に響く。
急に心細くなって羽織の袷を握りしめる。そこそこ知っているはずの京城が、知らない場所のように思えた。どこへ向かうのかもわからず、思わず仲謀の裾を掴みたくなったときだった。
「仲謀様」
急に掛けられた声に、びくりと身体が跳ねた。薄暗い回廊の先から、誰かが話しかけてきたらしい。――もう、誰か起きてるんだ。
仲謀はそれに軽く対応し、すぐに歩き出す。かと思えば、仕事をする人々の群れに遭遇した。皆一様に仲謀に頭を下げたり、声をかけたり――。
それに軽く応じる彼の背中に、ああ偉い人なんだよね、と今更な感想が浮かぶ。
そんなことはとっくの昔に知っているし、実感もしているのだけれど、ふとした瞬間に『自分とは立場が違う人だ』と思うのだ。――最近は、特にそうだ。
ここに滞在していたのは短い期間ではない。けれど、以前はあくまでも『玄徳軍の軍師』という『よそ者』の立場だった。尚香さんや大喬さん、小喬さんが仲良くしてくれているとはいえ、まだまだ玄徳軍に比べれば馴染みは薄い場所だ。あそこでは“軍師”の山田花として、皆から必要とされている実感もあった。けれど、今はどうだろう。
何の立場もなく、ただ仲謀が私を必要としていて、私が残りたかったから、ここにいるに過ぎない。私がいることが、呉軍の役に立つわけでもなんでもないのだ。
――ああ、また。
みぞおちの辺りがぎゅっと詰まる。元の世界に帰るんだ、と思っていた頃にはなかったものだ。
仲謀のそばに居たいと、自分で決めたのに。ときおり、『居場所』はどこなんだろうと漠然とした不安に駆られる。――私は、本当にここにいてもいいのだろうか。
いつの間にか下がっていた目線の先に、見慣れたローファーが映る。
私が歩く場所は、ここで良かったのだろうか。
後悔なんてしない、そう思っていたのに――。唇を噛みしめ、嫌な考えを切り替えようと意図的に顔を上げれば、厩の方角に向かっていることに気が付いた。
「……出かけるの?」
「そんな時間ねえよ」
「……そう」
ということは、遠出するわけではないらしい。そういえば、もっと寒かった頃、こうして出かたけことがあった。
一緒に見た朝陽の美しさと、凍えながら帰った後に、仲謀が受けていた叱責を思い出す。彼を叱る家臣の言葉は、畏まっているのに、まるで子どもを叱るようだった。そしてそれに慣れた様子で対応する仲謀。彼らが家族のように見えて微笑ましかったなと、こっそり笑いをこぼした。
結局、辿り着いたのは予想通り厩だった。数人がブラシで馬の手入れをしたり、エサをやっている姿が見える。
仲謀は「待ってろ」と言い残すと、一人の厩番に話しかけた後に、一頭の馬を引き連れて戻ってきた。
「……出かけないんだよね?」
「練習するんだろうが」
練習。思ってもみなかった言葉に、目を瞬かせる。
「……乗れなくていいって」
「教えないとは言ってない」
──必要ないってはっきり言ったよ。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。こういう時に何を言っても、自分の主張を通されるのはわかりきっている。朝から無駄なことに体力を使わなくてもいいか、とため息をこぼすのみに留めた。
仲謀が連れてきた馬は、艶のある栗毛の美しい馬だった。いつも仲謀が乗る馬よりも、小柄のようだ。私に合わせてくれたのだろう。
「まずは、一人で乗るところからだな」
そう言って、仲謀は足場となる木箱を持ってきてくれた。
「手綱とたてがみを掴んで、あぶみを踏んどけ。そっからよじ登ればいける」
馬自体にはそこそこ乗りなれていると思っていたが、いざ一人で乗るとなると緊張もあり手間取ってしまう。木箱に乗って言われた場所を掴めば、近づいた馬の熱気に手汗が滲んだ。
怖気付いていても仕方がないと息を吸う。左足を鎧にかけ、右足を蹴った。
「――っ、と」
やや不恰好にぐらついたものの、身体を乗せることには成功した。ずるずるとお尻を引きずりながら位置を調整して、今まで言われてきたように姿勢を正す。最後に目線を上げたところで、背筋がひやりとした。
馬が足を踏み鳴らすだけで、落ちてしまいそうだ。冷えた風が両脇を通り抜け、自然と手綱を握りしめる手に力が篭った。
――怖い。
真っ先に浮かんだのは、恐怖だった。
一人で乗る心細さはもちろん、手綱さばきや判断次第で、自分だけでなくこの馬も危ない目に合わせてしまうかもしれない。その可能性を考えてしまうと、乗ることをやめた方がいいのではという考えがちらつく。
「大丈夫か?」
声とともに、強張った手に温かさを感じる。見れば、仲謀の手が重なっていた。
「あんまり硬くなると、馬も不安がるぞ」
まっすぐこちらを見上げる仲謀の瞳が、光の加減で青く見える。自然と、力が抜けていくのがわかった。
いつもそうだ。普段は、ちっとも私の気持ちなんてわかってくれない、と思うことの方が多いのに。私が不安になったときだけは気づいて、手を差し伸べてくれる。一人じゃないんだって、教えてくれる。
「――大丈夫」
その言葉に、仲謀が笑った。そう言うだろうと、期待通りだとでも言わんばかりに、誇らしげに笑うから。嬉しさと同時に、『もういい』と言った時の彼の顔を思い出して、息が詰まった。
ずっと、迷っていた。
仲謀のことは好きでも、それだけでは駄目だったから。玄徳軍のことも、公瑾さんに言われたことも、私自身の帰りたいという気持ちのことも。
そして、どちらの軍にも与することができないまま、自分が正しいと思った、尚香さんの身代わりになることを選んだ結果――仲謀を、傷つけた。
それなのに。
どうしてこの人は、私を迎えにきたんだろう。
玄徳軍の皆と別れるとき。船で京まで戻るとき。京城での扱いが変わったときに、これで良かったのかと揺らぐ自分がいた。――帰らなくて良かったのかと、そんなことを思ってしまった。
だから、何てことのない、桜の話すらできない。
仲謀は、ずっとまっすぐで揺らがないのに、私だけがいつまでも取り残されたままだ。
それでも、ただ一つだけ強く思うことがある。
――もう、あんな顔はさせたくない。
この人が笑うために、私は何ができるんだろう。一緒に生きていくために、何をすべきなんだろう。
「今日は一人で乗る感覚を掴むだけで良い。指示は俺が出すから、落ちないようにしろよ」
頷くと、仲謀の手がそっと離れた。そうして気づいた事実に、乾いた唇を閉じて、唾を大きく飲み込んだ。震えそうになる足に力を入れ、馬の胴体をしっかり挟む。
――ずっと『一緒』なんて、不可能なんだ。
だって、進むときは一人だ。
馬が動き出せば、同乗させてもらう時と同じで大したことはなかった。それは仲謀も見て感じ取ったようで、特に何も言わない。そうして、すっかり空が明るみ始めた頃には、元の場所に戻ってきていた。これから先、指示を足で出したり馬の様子を見たり――。気軽に乗れないかと聞いたけれど、思ったよりも難しそうだ。
「降りる時もさっきと同じ場所をしっかり掴んどけ。逆に考えればいけるだろ」
逆。右足の鎧に体重をのせ、左脚を右側に寄せる。このまま木箱まで身体を降ろせるはず、と思ったところで、たてがみを掴んでいた手が滑った。
「わっ――」
木箱から、足を踏み外す。
「っ、と!」
「あ、ありがと……」
落ちるところを、仲謀に支えられ事なきを得る。反射的にお礼を言えば、呆れた声が返ってくる。
「変なとこで気ぃ抜くな」
ごめんと言おうとしたところで、抱き止められている体制に気が付き、言葉が引っ込む。足は地に着いたというのに、仲謀の手は背中に触れたままだし、離れる気配がない。
かといって大袈裟に離れるのもなんだと、気恥ずかしさを誤魔化すために思いついたことを口にする。
「あ、あの時に教えてもらえば良かったね」
「あの時?」
「洛陽まで旅したときに――」
ああ、と仲謀が納得する。
「お前鈍臭そうだから、教えたって乗れないと思ってたしな」
「ひどい……」
あの時の彼の態度を思い出し、本当にそう思っていたのだろうことが容易に想像できた。眉尻を下げれば仲謀が声を上げて笑うから、またずきりと胸が痛んだ。
仲謀が笑うと嬉しいのに、その度に罪悪感がじりじりと胸を焦がす。
「……何で、教えてくれる気になったの?」
背中に触れられた手の感触よりも、顔を見なくてもいい体制であることにほっとしている。本当は、迎えにきてくれた理由を聞きたかった。
『もういい』
あの傷つけたときの表情が、声が、ずっと頭から離れない。大人しくしてろと言われたのに、身代わりを引き受けたこと。見張りの目を掻い潜って迎えにきてくれたのに、一緒に行けなかったこと。――そんな私だから、『もういい』んだ。そう、思っていた。
「――別に」
「気になるよ」
意を決して振り返り、仲謀を仰ぎ見れば、空が一段と明るくなっていたことに気が付いた。もうすぐ、夜が明ける。
「……俺も、覚悟しとかないといけないと思ったんだよ」
「?」
言っている意味がわからなくて、首を傾げる。どういうことかを尋ねる前に、仲謀は口端をあげてイタズラっぽく笑った。
「どうせお前は、勝手に厄介ごとに首を突っ込んでいくんだからな」
――どうして。
鼻がツンとする。反射的に目が潤んだのが、自分でもわかった。
どうして、こんな風に笑えるんだろう。
「そのときに、馬に乗れなくて危ない目に遭うぐらいなら、乗れた方がましだろ」
「――乗れる方が大人しくしてないかも」
「その程度でお前のじゃじゃ馬が収まるかよ」
「……人を乱暴者みたいに」
「お前みたいなのは無謀って言うんだよ」
笑いながらぐしゃり、と髪を掻き回される。
「それに」
一転して落ち着いた仲謀の声音に、ゆっくりと顔を上げる。ああ、この顔も知っている。
「自分が正しいって思ったことをやり遂げるお前だから――。俺は、お前がいいんだ」
この国のことを話すときと同じ瞳。その仲謀の言葉が、胸に落ちて、痛みに変わる。そう言ってくれるのは嬉しい。
この人のことが、好きだと思う。この人の期待に、応えたい。
でも、この人を傷つけてばかりの自分に、それができるだろうか。そして、何とも情けない事実に気が付いた。
「……何で泣いてんだよ」
「――泣いてないよ」
言葉とは裏腹に、頬にじとりと涙が伝う。
今更だ。
何度も迎えにきてくれたことも。その手を取らなかったことも。最後の最後まで迷っていたことも。
いつも、怒ったり小言を言ったとしても、最後には笑ってくれる仲謀を、傷つけなければ。
――私は、ここに残ろうと思わなかった。
「……」
頬に、仲謀の指が触れた。ぎこちないその動きに思わず笑えば、何だよと怒ったような声が返ってくる。濡れた場所を拭ったその手に、自分の手を伸ばす。仲謀の手は温かくて、思わずほっとして息がこぼれた。
帰らなかったことを後悔しない、と本が消えたときには思った。けれど、故郷への想いが吹っ切れたわけでもない。心の隅のどこかで、『これで良かったのか』と思う私だって居る。でも――。
目を開ければ、城壁を越え始めた朝陽がオレンジ色に辺りを染め始めていた。仲謀の金色の髪が、濃く染まっている。そして、何も言わずに、でも心配そうにこちらを見つめる青い瞳。
この人の手を取らずに帰っていたら――。一人で、『あんな顔』をさせていたかもしれない。
それなら。
仲謀を傷つけてでも、今、ここにいて良かった。
「ありがとう」
何度も迷う私を。
自分が正しいと思ったことは、あなたを傷つけてでも選んでしまう私を。
そうでもしないと、あなたがどれだけ大切なのかもわからない私に。
何度でも手を伸ばしてくれて、ありがとう。
言葉にできない思いを抱えて、拭われた涙の残りを、手の甲でこすりながら笑いかけた。
「馬に乗れるようになったら、一緒に遠出したいな」
以前出かけた時みたいに、朝陽を見に行ってもいい。
「あ? ああ。まあ、そうだな」
ようやく、仲謀の目尻が緩く下がった。
乗る馬は違っても、出来るだけ同じ場所に向かって、同じ物を見ればいい。考えることは違っていても、隣にいて、話がしたい。笑ったり、喧嘩したりすることもあるだろうけど、共に過ごしていきたい。
進むときは一人でも、それでもそばに居れば『一緒』なんだと思うから。
この人の作る未来を、『一緒』に見たい。
「もう一回、練習していい?」
「ああ」
泣いていた理由が、気にならないわけではないだろうに、仲謀は何も訊かない。いつもは口うるさいぐらいなのに、こんな風にそっとしておいてくれるのも、彼らしいと思い小さく笑った。
さっきまでオレンジ色だった光は、城壁をあっという間に越えてしまい、無色透明で柔らかな光に変わっていた。あの朝のように、特別でも何でもない。でも、それで良かった。忘れられない一瞬よりも、何気ない日常の方が大事だと思える。
ふと、視界の端に、あの桜に似た花びらが映り込んだ。風に乗ってここまで飛んできたのだろう。
まるで雪のような欠片を見ていると、胸が張り裂けそうに辛くて、泣いていた光景を脳裏がよぎる。
いつのことだろうと記憶を追いかけようとしたけれど、すぐに消えてしまった。多分、必要のないことなのだろう。
「あのね、仲謀――」
きっと、これからも悩むし、足りない覚悟もたくさんあるけれど。知りたいことも、伝えたいこともたくさんある。
まずは、あの花が故郷に咲く花に似ていることから話そう。
後悔をするなら、共に生きる方を選びたいから。