猫の額
『手に余る』
#仲花
合肥攻略の頃なので、仲花未満の関係性。仲謀視点。
『手繰った先にあるもの』の続きです。
****************
「それ、一緒に買ったやつ?」
急に真横から掛けられた声に、思わず器を落としそうになる。
「な、ん」
「あ、やっぱりそうだよね」
樽にたっぷりと溜まった水が、柄杓を入れられたことで大きく波立っている。ふと、腕にじとりと不快な感触を覚えて見遣れば、袖が濡れていた。器に入れたばかりの水を溢してしまったらしい。
「私もそれ待ってきたよ」
「……へえ」
「仲謀も使ってるんだ」
心なしか嬉しそうに聞こえるのは自分の願望だろうか。周囲の反対を押し切って合肥まで彼女を連れてきた。とはいえ軍議にもそうそう参加させるわけにもいかず、忙しい合間に見かける彼女はぷらぷらと暇そうにしていた。──即座に天幕で大人しくしていろと通達したはずだが。
「……お前こんなとこで何やってんだよ」
「お水飲もうと思って」
よくよく見れば、彼女も同じ紅い器を手にしている。思わず周囲の様子を窺うが、誰もこちらには注目していないようだった。ほっと胸を撫で下ろして、いや別に見られたところで何も悪いことはない、と頭を振った。
「前のも壊れてないから勿体ないんだけど、やっぱりこっちの方が好きなんだ」
「……そうかよ」
仄かに滲む喜色。手にしたままだった柄杓でもう一度水を汲み上げる。ゆらゆらと形を変え続ける水面を見ながら、花に器を出すよう顎で指図する。当然のように受ける彼女の姿に、少し前まで二人きりで旅をしていた時のことが鮮明に思い出された。とにかく、とにかく腹が立って仕方がない女だったはずなのに――。
「ありがとう」
何のてらいもなく、笑顔で礼を言われて思わず目を逸らす。最初に、この器を買った時に同じ言葉を言わせた。あの時の表情と比べれば、確実に関係も良くなってきているはずだ。
けれど。彼女のことを意識して見れば見るほど、誰にでも愛想良く笑顔を見せていることに気がついた。自分だけが特別ではない。出会った頃とは別の苛立ちに度々支配されるのを感じる。
内心舌打ちしながら、自分の器にも水を注ぎ入れる。
「なんか、一緒のって嬉しいね」
不意打ちのような言葉に、また水を溢しそうになる。
それは、どういう意味だろうか。少しぐらい、他の奴らよりも自分は彼女にとって特別だと思ってもいいのだろうか。
聞きたいのに、聞けない。一歩踏み出せば、望むものが手に入るかもしれない期待と、横にいることすら叶わなくなる可能性にたたらを踏む。
そうか。俺は怖いのか。
すとんと降りてきた思考に納得し、けれども向かい合いたくなくて、誤魔化すように器の中の水を一気に飲み干した。
「危ねえから天幕の中にいろよ」
「ちゃんといたよ」
不満そうに漏らす彼女を正面から見ることも出来ない。近くにいて欲しいと思うのに、いると酷く落ち着かない。居心地が悪い。
――本当に腹立たしい。
「いいか、余計なことに首突っ込むなよ。天幕の中で大人しくしてろ」
「……何で連れてきたの」
何故。そんなの、自分が知りたい。
「役に立つと思ったからだよ」
彼女は"軍師"としてここについてきた。それ以上でも以下でもない。わかっている。この器を求めた時だって、何の意味もなかったことぐらい、わかっているのだ。――だから、苛々する。
「……軍議にも出れないのに?」
「それでも必要だから連れてきたんだよ」
懐から布を取り出し器の水滴を拭う。そのままくるんで定位置に収めたところで、花がぽつりと言葉を零した。
「仲謀は――」
花が何かを言いかけて、止める。
「んだよ」
「……何でもない」
伏せた目からは何も読み取れない。ただ、彼女が楽しそうではないことだけはわかる。
何でもない顔ではないのに。こうやって自分に対して言えない何かを感じるのは、初めてではなかった。それが、気に入らないけれど、踏み込めない。──いや、踏み込みたいのだろうか。そしてどうするのだろう。こんなところまで連れてきて、玄徳軍に帰りたいという彼女を引き止めて、自分は何をしたいのだろう。
ああ、濡れた袖が気持ち悪い。
2021.08.25 13:51:03
三国恋戦記
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『手繰った先にあるもの』の続きです。
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「それ、一緒に買ったやつ?」
急に真横から掛けられた声に、思わず器を落としそうになる。
「な、ん」
「あ、やっぱりそうだよね」
樽にたっぷりと溜まった水が、柄杓を入れられたことで大きく波立っている。ふと、腕にじとりと不快な感触を覚えて見遣れば、袖が濡れていた。器に入れたばかりの水を溢してしまったらしい。
「私もそれ待ってきたよ」
「……へえ」
「仲謀も使ってるんだ」
心なしか嬉しそうに聞こえるのは自分の願望だろうか。周囲の反対を押し切って合肥まで彼女を連れてきた。とはいえ軍議にもそうそう参加させるわけにもいかず、忙しい合間に見かける彼女はぷらぷらと暇そうにしていた。──即座に天幕で大人しくしていろと通達したはずだが。
「……お前こんなとこで何やってんだよ」
「お水飲もうと思って」
よくよく見れば、彼女も同じ紅い器を手にしている。思わず周囲の様子を窺うが、誰もこちらには注目していないようだった。ほっと胸を撫で下ろして、いや別に見られたところで何も悪いことはない、と頭を振った。
「前のも壊れてないから勿体ないんだけど、やっぱりこっちの方が好きなんだ」
「……そうかよ」
仄かに滲む喜色。手にしたままだった柄杓でもう一度水を汲み上げる。ゆらゆらと形を変え続ける水面を見ながら、花に器を出すよう顎で指図する。当然のように受ける彼女の姿に、少し前まで二人きりで旅をしていた時のことが鮮明に思い出された。とにかく、とにかく腹が立って仕方がない女だったはずなのに――。
「ありがとう」
何のてらいもなく、笑顔で礼を言われて思わず目を逸らす。最初に、この器を買った時に同じ言葉を言わせた。あの時の表情と比べれば、確実に関係も良くなってきているはずだ。
けれど。彼女のことを意識して見れば見るほど、誰にでも愛想良く笑顔を見せていることに気がついた。自分だけが特別ではない。出会った頃とは別の苛立ちに度々支配されるのを感じる。
内心舌打ちしながら、自分の器にも水を注ぎ入れる。
「なんか、一緒のって嬉しいね」
不意打ちのような言葉に、また水を溢しそうになる。
それは、どういう意味だろうか。少しぐらい、他の奴らよりも自分は彼女にとって特別だと思ってもいいのだろうか。
聞きたいのに、聞けない。一歩踏み出せば、望むものが手に入るかもしれない期待と、横にいることすら叶わなくなる可能性にたたらを踏む。
そうか。俺は怖いのか。
すとんと降りてきた思考に納得し、けれども向かい合いたくなくて、誤魔化すように器の中の水を一気に飲み干した。
「危ねえから天幕の中にいろよ」
「ちゃんといたよ」
不満そうに漏らす彼女を正面から見ることも出来ない。近くにいて欲しいと思うのに、いると酷く落ち着かない。居心地が悪い。
――本当に腹立たしい。
「いいか、余計なことに首突っ込むなよ。天幕の中で大人しくしてろ」
「……何で連れてきたの」
何故。そんなの、自分が知りたい。
「役に立つと思ったからだよ」
彼女は"軍師"としてここについてきた。それ以上でも以下でもない。わかっている。この器を求めた時だって、何の意味もなかったことぐらい、わかっているのだ。――だから、苛々する。
「……軍議にも出れないのに?」
「それでも必要だから連れてきたんだよ」
懐から布を取り出し器の水滴を拭う。そのままくるんで定位置に収めたところで、花がぽつりと言葉を零した。
「仲謀は――」
花が何かを言いかけて、止める。
「んだよ」
「……何でもない」
伏せた目からは何も読み取れない。ただ、彼女が楽しそうではないことだけはわかる。
何でもない顔ではないのに。こうやって自分に対して言えない何かを感じるのは、初めてではなかった。それが、気に入らないけれど、踏み込めない。──いや、踏み込みたいのだろうか。そしてどうするのだろう。こんなところまで連れてきて、玄徳軍に帰りたいという彼女を引き止めて、自分は何をしたいのだろう。
ああ、濡れた袖が気持ち悪い。