猫の額
『まだまだ』
#仲花
夫婦になってから、少し経ったあとの話。
********************
夫婦って、複雑だ。
多分、深夜。夜明けは近くないと思うころ、ふと目が覚めた。
次第に闇夜に慣れた目が、広すぎるベッドの向こう側を捉える。以前ならばぼんやりと見えた壁も、この広すぎる部屋ではただの暗闇のみだ。そして、もっと手前に目線を移し、そっと手を伸ばす。
暗闇の中でも、金色に見える気がする髪へ。
さらりと指の間を滑る感触は、ひどく久しぶりな気がした。
「…………」
ちゃんとした夫婦になって、一緒の部屋で過ごすようになって、これからは当たり前のように一番近くにいるものかと思っていた。けれどもそれは最初の方だけで、朝起きても、夜寝るときも、寝台を使っているのは自分一人。日中は日中で、城内にいればまだ良い方、というぐらい夫となった仲謀はとても忙しいらしい。
たまに会える本人や、周囲の発言からも部屋に戻ってきていることは確かなのだけれど、完全にすれ違いで会えない日々が続いていた。
もう一度、指先で金糸をすくう。細く柔らかな髪は、初めて触れたときのことを思い出す。あの頃は、こんな風にこの人に触れたいと思う日が来るなんて思いもしなかった。
指先だけでは足らなくて、でも起こしたくないから眺めるだけに留める。せめて、常夜灯さえあれば、ちゃんと顔が見られるのに。
もしくは、月明かりが届く場所にベッドを動かせば――。
とりとめのない思考は止まらず、どんどん目が冴えていく。
一日の終わりに顔を合わせて、そのまま別れることなく一緒に過ごせることを知ったせいなんだろう。
一人で寝るなんて、以前は当たり前だったことが、今はとても寂しいと思う。
薄く開いた唇から漏れる、静かな寝息がシーツに落ちる。――声が、聞きたいな。
目の前にいて、触れることもできるのに、会えない間に刻んだ寂しさばかりが浮きぼりになってしまう。つんと鼻の先が痛んだのを合図に、顔をシーツに押しつけ目を閉じた。
******
「花です」
短い応答に、横に控えていた侍女がさっと扉を開けてくれる。そのまま私だけを通すと、一礼して下がっていった。パタンと戸が閉じる音がしても、部屋の奥で書簡を眺める顔は上がらない。最近は、いつもそうだ。
そのことに胸の疼きを感じながらも、仕方のないことだと腹に力を込めて歩き出す。盆に乗せた茶器がかちゃりと軽く音を立てた。
「お茶、淹れていい?」
「おお」
いつも通り、すっかり慣れた手順で湯を沸かす。最初は侍女みたいなことを、と嫌がられたこれも、すっかり受け入れられ馴染んでしまった。そして、数少ない仲謀と会える時間でもある。このときは、皆気を遣ってか席を外してくれることが多く、今日も彼一人だった。
明かり取りのために開いた窓からは、雨の音と湿気が入り込む。静かに耳を打つ雨の音は心地良くすらあるけれど、冷えた外気に腕をさするぐらい寒く感じる。
ふと、二人で雨宿りしていたときのことを思い出した。
「…………」
ぱたぱた。しとしと。雨粒が細いのだろうか。音は聞こえても、どこまでも静かだ。
あの日は、どうだっただろう。二人で雨宿りしたときのことが頭によぎる。貸してくれた外套の暖かさと、ほんの少し触れた背中の熱さが蘇る。ちらりと、書簡に目を落とす仲謀の横顔を盗み見た。――ああ、顔が赤かったんだっけ。今なら、すぐにわかるようなことも、あの頃はよく確信も持てなくて。
あのときと、今の関係も距離も、随分変わった。
――どう、変わった?
仲謀はまだ書簡に目を落としたまま。あの雨の日とは比べ物にならないほど、遠い。
ゆっくりと頭を振って、一人小さく笑い、まだ湯の沸かない鍋の前から離れる。
近寄った私に気づいたのか、そこで初めて仲謀が顔を上げた。茶器も持っていない私を少し不思議そうに見上げるその目は、今日の雨雲と同じ薄い、綺麗なグレーだ。
靴を脱ぎ、卓の前に座る仲謀の後ろへと回り込み、背中でもたれかかった。
「……何、してんだ?」
「うん」
何、と言われても、説明し難い。背中から伝わる熱は、あのときと同じで、でも遠慮がない。違う。そのことに、頬が緩む。
「充電かな?」
「……じゅーでん?」
訝しげなその声に笑えば、不満そうな気配。ぐっと体重をかければ、押し返しもせずそのまま受け止めてくれた。
「あったかいなあと思って」
「……寒いのかよ」
ごそごそと動き出したかと思えば、ふっと背中が離れる。次いでふわりと掛けられたのは、仲謀の上着だった。
「仲謀は、寒くない?」
「別に」
「――また、くしゃみ出ちゃうよ」
「っ、どうでもいいことばっか覚えてんな、お前は――」
どうやら仲謀も覚えているらしい。そのことが嬉しくて胸が痛い。
一拍置いて振り返る。少しだけ、怒ったような、拗ねたような顔。照れたときのだって、もう知ってるから、困るよりも愛しく思う。だって、あのときとは違うから。
手をついて横に並んで、掛けられた上着の端を仲謀の肩に掛け、身を寄せる。そうして顔を覗き込んだ。
「こうしたら、仲謀も暖かいでしょ。お湯が沸くまで、こうしてていい?」
「……別に」
寄った眉根に笑いを堪えていると、ぐっと肩が引き寄せられる。背中だけとは大違いの熱に、寒さが完全に吹っ飛んだ。
「茶はいいから、こうしてろ」
「……うん」
声、震えてないかな。拙くなってしまった返事を気にしながら、背中に手を回し、首元に顔を埋める。昨夜したくても、できなかったこと。昔なら、考えもしなかったこと。今は簡単にできる。
しとしとと鳴り続ける雨の音に、ぷくぷくと鍋の中で水が弾ける音が重なる始めた。いつの間にか背に回っていた腕の熱は解ける気配がなくて、深く息を吸い込んで目を閉じる。
隣にいても、遠いのに、ほんの一歩で誰よりも近くに行けるはずなのに。できたり、できなかったり――。
夫婦って、複雑だ。
2023.10.14 10:00:04
三国恋戦記
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夫婦になってから、少し経ったあとの話。
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夫婦って、複雑だ。
多分、深夜。夜明けは近くないと思うころ、ふと目が覚めた。
次第に闇夜に慣れた目が、広すぎるベッドの向こう側を捉える。以前ならばぼんやりと見えた壁も、この広すぎる部屋ではただの暗闇のみだ。そして、もっと手前に目線を移し、そっと手を伸ばす。
暗闇の中でも、金色に見える気がする髪へ。
さらりと指の間を滑る感触は、ひどく久しぶりな気がした。
「…………」
ちゃんとした夫婦になって、一緒の部屋で過ごすようになって、これからは当たり前のように一番近くにいるものかと思っていた。けれどもそれは最初の方だけで、朝起きても、夜寝るときも、寝台を使っているのは自分一人。日中は日中で、城内にいればまだ良い方、というぐらい夫となった仲謀はとても忙しいらしい。
たまに会える本人や、周囲の発言からも部屋に戻ってきていることは確かなのだけれど、完全にすれ違いで会えない日々が続いていた。
もう一度、指先で金糸をすくう。細く柔らかな髪は、初めて触れたときのことを思い出す。あの頃は、こんな風にこの人に触れたいと思う日が来るなんて思いもしなかった。
指先だけでは足らなくて、でも起こしたくないから眺めるだけに留める。せめて、常夜灯さえあれば、ちゃんと顔が見られるのに。
もしくは、月明かりが届く場所にベッドを動かせば――。
とりとめのない思考は止まらず、どんどん目が冴えていく。
一日の終わりに顔を合わせて、そのまま別れることなく一緒に過ごせることを知ったせいなんだろう。
一人で寝るなんて、以前は当たり前だったことが、今はとても寂しいと思う。
薄く開いた唇から漏れる、静かな寝息がシーツに落ちる。――声が、聞きたいな。
目の前にいて、触れることもできるのに、会えない間に刻んだ寂しさばかりが浮きぼりになってしまう。つんと鼻の先が痛んだのを合図に、顔をシーツに押しつけ目を閉じた。
******
「花です」
短い応答に、横に控えていた侍女がさっと扉を開けてくれる。そのまま私だけを通すと、一礼して下がっていった。パタンと戸が閉じる音がしても、部屋の奥で書簡を眺める顔は上がらない。最近は、いつもそうだ。
そのことに胸の疼きを感じながらも、仕方のないことだと腹に力を込めて歩き出す。盆に乗せた茶器がかちゃりと軽く音を立てた。
「お茶、淹れていい?」
「おお」
いつも通り、すっかり慣れた手順で湯を沸かす。最初は侍女みたいなことを、と嫌がられたこれも、すっかり受け入れられ馴染んでしまった。そして、数少ない仲謀と会える時間でもある。このときは、皆気を遣ってか席を外してくれることが多く、今日も彼一人だった。
明かり取りのために開いた窓からは、雨の音と湿気が入り込む。静かに耳を打つ雨の音は心地良くすらあるけれど、冷えた外気に腕をさするぐらい寒く感じる。
ふと、二人で雨宿りしていたときのことを思い出した。
「…………」
ぱたぱた。しとしと。雨粒が細いのだろうか。音は聞こえても、どこまでも静かだ。
あの日は、どうだっただろう。二人で雨宿りしたときのことが頭によぎる。貸してくれた外套の暖かさと、ほんの少し触れた背中の熱さが蘇る。ちらりと、書簡に目を落とす仲謀の横顔を盗み見た。――ああ、顔が赤かったんだっけ。今なら、すぐにわかるようなことも、あの頃はよく確信も持てなくて。
あのときと、今の関係も距離も、随分変わった。
――どう、変わった?
仲謀はまだ書簡に目を落としたまま。あの雨の日とは比べ物にならないほど、遠い。
ゆっくりと頭を振って、一人小さく笑い、まだ湯の沸かない鍋の前から離れる。
近寄った私に気づいたのか、そこで初めて仲謀が顔を上げた。茶器も持っていない私を少し不思議そうに見上げるその目は、今日の雨雲と同じ薄い、綺麗なグレーだ。
靴を脱ぎ、卓の前に座る仲謀の後ろへと回り込み、背中でもたれかかった。
「……何、してんだ?」
「うん」
何、と言われても、説明し難い。背中から伝わる熱は、あのときと同じで、でも遠慮がない。違う。そのことに、頬が緩む。
「充電かな?」
「……じゅーでん?」
訝しげなその声に笑えば、不満そうな気配。ぐっと体重をかければ、押し返しもせずそのまま受け止めてくれた。
「あったかいなあと思って」
「……寒いのかよ」
ごそごそと動き出したかと思えば、ふっと背中が離れる。次いでふわりと掛けられたのは、仲謀の上着だった。
「仲謀は、寒くない?」
「別に」
「――また、くしゃみ出ちゃうよ」
「っ、どうでもいいことばっか覚えてんな、お前は――」
どうやら仲謀も覚えているらしい。そのことが嬉しくて胸が痛い。
一拍置いて振り返る。少しだけ、怒ったような、拗ねたような顔。照れたときのだって、もう知ってるから、困るよりも愛しく思う。だって、あのときとは違うから。
手をついて横に並んで、掛けられた上着の端を仲謀の肩に掛け、身を寄せる。そうして顔を覗き込んだ。
「こうしたら、仲謀も暖かいでしょ。お湯が沸くまで、こうしてていい?」
「……別に」
寄った眉根に笑いを堪えていると、ぐっと肩が引き寄せられる。背中だけとは大違いの熱に、寒さが完全に吹っ飛んだ。
「茶はいいから、こうしてろ」
「……うん」
声、震えてないかな。拙くなってしまった返事を気にしながら、背中に手を回し、首元に顔を埋める。昨夜したくても、できなかったこと。昔なら、考えもしなかったこと。今は簡単にできる。
しとしとと鳴り続ける雨の音に、ぷくぷくと鍋の中で水が弾ける音が重なる始めた。いつの間にか背に回っていた腕の熱は解ける気配がなくて、深く息を吸い込んで目を閉じる。
隣にいても、遠いのに、ほんの一歩で誰よりも近くに行けるはずなのに。できたり、できなかったり――。
夫婦って、複雑だ。