猫の額








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『まだまだ』 #仲花

夫婦になってから、少し経ったあとの話。



********************




 夫婦って、複雑だ。
 
 多分、深夜。夜明けは近くないと思うころ、ふと目が覚めた。
 次第に闇夜に慣れた目が、広すぎるベッドの向こう側を捉える。以前ならばぼんやりと見えた壁も、この広すぎる部屋ではただの暗闇のみだ。そして、もっと手前に目線を移し、そっと手を伸ばす。
 暗闇の中でも、金色に見える気がする髪へ。
 さらりと指の間を滑る感触は、ひどく久しぶりな気がした。
「…………」
 ちゃんとした夫婦になって、一緒の部屋で過ごすようになって、これからは当たり前のように一番近くにいるものかと思っていた。けれどもそれは最初の方だけで、朝起きても、夜寝るときも、寝台を使っているのは自分一人。日中は日中で、城内にいればまだ良い方、というぐらい夫となった仲謀はとても忙しいらしい。
 たまに会える本人や、周囲の発言からも部屋に戻ってきていることは確かなのだけれど、完全にすれ違いで会えない日々が続いていた。
 もう一度、指先で金糸をすくう。細く柔らかな髪は、初めて触れたときのことを思い出す。あの頃は、こんな風にこの人に触れたいと思う日が来るなんて思いもしなかった。
 指先だけでは足らなくて、でも起こしたくないから眺めるだけに留める。せめて、常夜灯さえあれば、ちゃんと顔が見られるのに。
 もしくは、月明かりが届く場所にベッドを動かせば――。
 とりとめのない思考は止まらず、どんどん目が冴えていく。
 一日の終わりに顔を合わせて、そのまま別れることなく一緒に過ごせることを知ったせいなんだろう。
 一人で寝るなんて、以前は当たり前だったことが、今はとても寂しいと思う。
 薄く開いた唇から漏れる、静かな寝息がシーツに落ちる。――声が、聞きたいな。
 目の前にいて、触れることもできるのに、会えない間に刻んだ寂しさばかりが浮きぼりになってしまう。つんと鼻の先が痛んだのを合図に、顔をシーツに押しつけ目を閉じた。

   ******

「花です」
 短い応答に、横に控えていた侍女がさっと扉を開けてくれる。そのまま私だけを通すと、一礼して下がっていった。パタンと戸が閉じる音がしても、部屋の奥で書簡を眺める顔は上がらない。最近は、いつもそうだ。
 そのことに胸の疼きを感じながらも、仕方のないことだと腹に力を込めて歩き出す。盆に乗せた茶器がかちゃりと軽く音を立てた。
「お茶、淹れていい?」
「おお」
 いつも通り、すっかり慣れた手順で湯を沸かす。最初は侍女みたいなことを、と嫌がられたこれも、すっかり受け入れられ馴染んでしまった。そして、数少ない仲謀と会える時間でもある。このときは、皆気を遣ってか席を外してくれることが多く、今日も彼一人だった。
 明かり取りのために開いた窓からは、雨の音と湿気が入り込む。静かに耳を打つ雨の音は心地良くすらあるけれど、冷えた外気に腕をさするぐらい寒く感じる。
 ふと、二人で雨宿りしていたときのことを思い出した。
「…………」
 ぱたぱた。しとしと。雨粒が細いのだろうか。音は聞こえても、どこまでも静かだ。
 あの日は、どうだっただろう。二人で雨宿りしたときのことが頭によぎる。貸してくれた外套の暖かさと、ほんの少し触れた背中の熱さが蘇る。ちらりと、書簡に目を落とす仲謀の横顔を盗み見た。――ああ、顔が赤かったんだっけ。今なら、すぐにわかるようなことも、あの頃はよく確信も持てなくて。
 あのときと、今の関係も距離も、随分変わった。
 ――どう、変わった?
 仲謀はまだ書簡に目を落としたまま。あの雨の日とは比べ物にならないほど、遠い。
 ゆっくりと頭を振って、一人小さく笑い、まだ湯の沸かない鍋の前から離れる。
 近寄った私に気づいたのか、そこで初めて仲謀が顔を上げた。茶器も持っていない私を少し不思議そうに見上げるその目は、今日の雨雲と同じ薄い、綺麗なグレーだ。
 靴を脱ぎ、卓の前に座る仲謀の後ろへと回り込み、背中でもたれかかった。
「……何、してんだ?」
「うん」
 何、と言われても、説明し難い。背中から伝わる熱は、あのときと同じで、でも遠慮がない。違う。そのことに、頬が緩む。
「充電かな?」
「……じゅーでん?」
 訝しげなその声に笑えば、不満そうな気配。ぐっと体重をかければ、押し返しもせずそのまま受け止めてくれた。
「あったかいなあと思って」
「……寒いのかよ」
 ごそごそと動き出したかと思えば、ふっと背中が離れる。次いでふわりと掛けられたのは、仲謀の上着だった。
「仲謀は、寒くない?」
「別に」
「――また、くしゃみ出ちゃうよ」
「っ、どうでもいいことばっか覚えてんな、お前は――」
 どうやら仲謀も覚えているらしい。そのことが嬉しくて胸が痛い。
 一拍置いて振り返る。少しだけ、怒ったような、拗ねたような顔。照れたときのだって、もう知ってるから、困るよりも愛しく思う。だって、あのときとは違うから。
 手をついて横に並んで、掛けられた上着の端を仲謀の肩に掛け、身を寄せる。そうして顔を覗き込んだ。
「こうしたら、仲謀も暖かいでしょ。お湯が沸くまで、こうしてていい?」
「……別に」
 寄った眉根に笑いを堪えていると、ぐっと肩が引き寄せられる。背中だけとは大違いの熱に、寒さが完全に吹っ飛んだ。
「茶はいいから、こうしてろ」
「……うん」
 声、震えてないかな。拙くなってしまった返事を気にしながら、背中に手を回し、首元に顔を埋める。昨夜したくても、できなかったこと。昔なら、考えもしなかったこと。今は簡単にできる。
 しとしとと鳴り続ける雨の音に、ぷくぷくと鍋の中で水が弾ける音が重なる始めた。いつの間にか背に回っていた腕の熱は解ける気配がなくて、深く息を吸い込んで目を閉じる。
 隣にいても、遠いのに、ほんの一歩で誰よりも近くに行けるはずなのに。できたり、できなかったり――。
 夫婦って、複雑だ。


三国恋戦記 編集

『口実』
イベント用書きおろし。温泉パニックの後日談です。#仲花



***********************



 陽射しはまだ暑いけれど、日陰にいると、通り抜けた風が汗を乾かしてくれる。こと東屋は、風が通り抜けやすいように作られていることもあり、休憩するなら自然とここが選ばれがちだ。――だから、酷く落ち着かない。
 気まずさに身じろごうにも、膝にかかる重さでそれも叶わない。

「……ねえ、私、今日仲謀突き飛ばしたりしてないよね?」
「はあ? 当たり前だろ! 何度もやられてたまるかよ」

 顔を顰めてそう返す仲謀に、『じゃあ、頭下ろしてくれないかな』とは言えず、こっそり息を吐く。東屋の長椅子に腰掛けた私の腿には、仲謀の頭が乗っていた。いわゆる、膝枕だ――。
 温泉に出かけて、色々あって彼を突き飛ばし昏倒させ……膝枕をしたのが少し前。また行きたいねなんて思い出話を始めたところが、これだ。

「……何だよ、嫌なのかよ」

 強引に膝枕を要求したくせに、揺れる声音でこちらを窺う。きっと、私が本気で嫌なら止めてくれるのだろう。そういうところが、とても、ずるいと思う。

「嫌じゃないけど……」
「はっ。お前はいつもはっきりしねえな」

 かと思えば、今度は呆れたように笑って私の髪に手を伸ばし触れる。――本当に、本当にずるい。そういう風に、自信満々に笑う顔に私が弱いのを、知られているのかもしれない。
 そよそよと風が通り抜け、膝の上の仲謀の髪を揺らす。今日はいつも通りの制服だから、素肌に当たって少しくすぐったいし、何より体温が直に伝わるのが、何とも言い難く居心地が悪い。大体前回は看病も兼ねていたけれど、今日のはそれとは違う。――ただただ、いちゃついてるだけにしか見えないだろう。

「――だって、外だし」

 奥まった場所にあるここは、人通りが多いわけでもない。かといって、ないわけでもないのだ。見つかれば、揶揄われることは必須だった。

「……いや、室内のが問題だろ」
「?」

 首を傾げれば、仲謀はうんざりした顔で長い長いため息を吐いた。

「お前はほんっとに、そういうとこ変わんねえ。少しは意識したかと思ったら――」
「……何のこと?」

 尋ねたことには答えず、仲謀は私をじろりと見上げた。

「もういい」

 と言うなり私の手を取って、指を絡めて握り直す。いわゆる恋人繋ぎに、体温が一気に上がる。

「え、な、何」
「こうでもしとかないと逃げるだろ」
「そんな……」

 真下にある青い瞳が、ぴたりと私を捉えて離さない。膝には仲謀の頭。身動きもできず、ただただ瞬きを繰り返すことしか出来ず、息を潜める。
 呼吸を通して、早くなった鼓動を悟られそうだ。

「膝枕も、これも、嫌じゃないんだろ?」
「それは――そう、だけど」

 だって。『嫌』でもないことを、『嫌』とは言えない。

「なら、お前は人目じゃなくて、俺のことを気にしてろ」

 いつもの笑顔とともに、繋いだ手に力が込められる。逃げないように、なんて口実だとわかるような、そんな触れ方だった。

「……わかった」

 今、この手を離す方が嫌だ。散々揶揄われることを覚悟して、そっと握り返す。すると満足したらしい笑顔に、更に胸が詰まって、口をへの字に曲げて誤魔化すしかできなかった。



三国恋戦記 編集

『あなただから』 #翼徳
夫婦後の翼花です。『色っぽいお話書きたい』アンケートで書きましたのでそういう内容です。




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「ごめんね、花」

 心地の良い温もりの中、意識を手放す寸前。翼徳さんの申し訳なさそうな声に、無理矢理瞼を押し上げた。
 薄暗い闇の中。朧おぼろげにしか彼の顔は見えないけれど、どんな表情をしているのかすぐにわかったことがおかしくて、くすりと笑いを溢した。

「大丈夫ですよ」

 のしかかる熱っぽい重さが、素肌に張り付く。重すぎないけれどもぴたりと寄り添うそれは、『私を潰してしまわないように』という想いが全身に伝わるようで。事を終えたこの瞬間は、いつも満ち足りた気持ちになる。

「でも――、痛いよね」

 不意に触れられた剥き出しの左肩に、思わず眉を顰しかめてしまう。ごめん、と泣きそうに揺れた翼徳さんの声に、安心させるように意図的に笑ってみせた。

「本当に、大丈夫ですよ」

 宙ぶらりんになってしまった翼徳さんの手を掴み、私の頬に擦り寄せる。硬い皮膚の、大きな手。この手も、そしてこの手に触れられるのも、大好きだ。

「すぐ、治りますから」

 ――毎回というわけではないけれど、翼徳さんは私を“食べる”癖がある。
 端的に言えば“噛む”なのだけれど、その表現は何だかしっくりこないのだ。もっと言えば、“食べてしまう”と言った方がぴったりかもしれない。
 花、と熱っぽく私の名前を呼びながら、肩や腕に歯を立ててしまう彼の行為は痛みを伴う。けれど、優しい彼が私を傷つけてしまうほどに我を失っているという事実は、残る痕も含めて『嬉しい』と思ってしまうのだ。
 でも――。

 痛いのに嬉しいなんて、変なのかな。

 湧き出た小さな不安を、幾分か表情を緩ませた翼徳さんの顔を眺めて紛らわせようとしたときだった。

「花も、俺のこと噛んでいいからね」

 もう噛まない、ではなく噛み返しても良いと言われたことが、この行為を受け入れる私ごと肯定されたような気がして息を呑む。込み上げる愛しさをどうしたらいいのかわからなくて、彼の汗ばんだ首に手を伸ばし抱きついた。


 私がつけた痕に、翼徳さんも同じように嬉しく思ってくれるのなら――。それもいいのかもしれない。

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『七夕』 #翼徳
七夕テーマに書きました。初翼徳さんでした。




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「願い事?」
 ふと七夕のことを思い出して、翼徳さんなら何と願うのだろうと尋ねてみた。
「うーん、願い事、かあ」
 指折り数えては減ったり増えたり。真剣に悩む翼徳さんの姿が微笑ましくて、目を細めて眺める。
「一個だけだよな」
「大抵はそうですね」
「じゃあ、庭の果実がたくさん実りますように」
 翼徳さんらしい答えに、もう我慢できなくてくすくすと笑いをこぼした。
「いいですね」
「で、ぜーんぶ花にあげる」
「え」
 驚いて彼を見れば、にこりと笑った。
「花が好きなものは、たくさんあげたいんだ、俺」
 抱えきれないほどの果物を抱えた彼が、私の名前を呼ぶ姿を想像して、どうしようもなく満ち足りた気分になる。
「……じゃあ、私はそれを半分こにしますね」
「え、何で」
「翼徳さんと食べた方がおいしいからです」

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『何に願えば』 #雲長
エアスケブでリクエスト頂いた「雲花で甘いお話」でした。広生くんではなく、雲長さんで……!で精一杯頑張ってみましたが糖度が足りなかったかも。




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「あ、雲長さん」

 声を掛ければ、角を曲がった先を歩いていた彼が振り返った。私の顔を見て柔らいだ表情に、思わず胸元の書簡を握りしめる。緩みそうになる頬を引き締めて、小走りに近寄った。

「これ、玄徳さんからなんですけど――」
「ああ、ありがとう」

 皆に二人で故郷へ帰ることを告げてから、その離れる準備で雲長さんは前にも増して忙しくなった。何せずっと玄徳さんの右腕として働いてきたのだ。きちんと引き継ぎをしたいという雲長さんらしい。私は、そんな彼のお手伝いをする日々を送っていた。


 
 二人並んで執務室に戻り、書簡を置く。用事は終えてしまった。けれど去り難くて、何か仕事はないものだろうかと、椅子に座った彼を眺める。実のところ、書簡を運んだり、仕分ける以外に手伝えることはほとんどない。

「……明日、遠乗りでもするか」
「え」
「いや……。――息抜きも必要だと思ってな」

 彼が呑み込んだであろう言葉に、気づかないふりをして微笑む。
 きっと、仕事ばかりでは退屈だと思ったのだろう。でも、それだけではないはずだ。
 一緒に、元の世界に帰る。
 けれど、上手くいくか、その先も一緒にいられる保証なんてどこにもない。ときおり、今が幸せであると思えば思うほど、途方もない不安に襲われる。雲長さんも、同じなのだろうか。
 思わず、じわりと熱くなった目に顔を伏せ――そのまま身を屈めて、雲長さんの肩に額を乗せた。

「っ、花……?」

 戸惑う雲長さんの声が珍しくて、笑いがもれた。

「すみません」

 濃い色で染められた袖の上に散る、長い綺麗な髪。そっと手を伸ばして、その腕に触れる。

「少しだけ」

 息を吸い込めば、温もりを含んだ慣れぬ匂い。これを、覚えていよう。元の世界で会えたときに、彼だとわかるように。不確かな証だとわかっていても、すがらずにはいられなかった。

「…………」

 雲長さんは何も言わない。けれど、戸惑いの空気が緩んだ後に、こつりと私の頭に何かがくっついた。――雲長さんが、頭を傾けたのだろう。見えなくてもわかるそのぎこちなさに、くすくすと笑いが抑えきれない。

「――何だ」
「だって」

 じわりと伝わる重さ。開け放たれた窓からは、小さく鳴く鳥の声。柔らかな風が吹き込んで、私達の髪を揺らしていく。――ずっと、このままだったらいいのに。
 会えないかもしれない未来より、今ここで一緒にいたい。そんな我儘を思う。
 でも、帰らなければならない。雲長さんのために。
 彼がこれまで過ごしてきた『時』を思って、震えそうになった唇を引き締めた。

「……遠乗り、行きたいです」
「……ああ」

 滲んでいた涙は引っ込んでいたけれど、揺れた声音までは隠し切れなくて。それでも優しく返した彼の声に、また目が熱くなった。



 この優しい人が、心から笑える場所に帰れますように。

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『還るべき人』 #雲長 #夢
もし花ちゃんが雲長ルートでなかったら……を思うと居ても立っても居られず書いた救済のつもりの夢でした。



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 彼はどこから来たのだろう。ふと、そんなことを考えてしまうことがある。
 夫の関雲長。生まれた場所は勿論知っている。出自が怪しい男なわけではない。あの劉玄徳の義兄弟で、身分もはっきりとしている。そして、どこか懐かしい人――。
 それなのに。時折彼がこの世の人ではないような不思議な感覚に陥るのだ。
 
 門番に名を告げ、城内へと入れてもらう。今の時間は部屋にいるだろうか――。とりあえず寄って、不在ならば荷を置いていこう。滅多に来ない城内へと足を踏み入れたのは、これまた珍しく夫が忘れ物をしたためである。
 迷いのない足取りで夫の部屋へと向かう曲がり角に差し掛かった際、前から少女がやってくるのが見えた。
「――っ」
 思わず、息を呑んだ。
「あの?」
「えっ」
「荷物、落とされましたよ?」
「あ、あぁ、ありがとうございます」
 ――似ている。
 見目形の話ではない。雰囲気が。彼女のまとう空気が、夫のそれと酷似している。
 いつの間にか落としてしまった荷を受け取りながら、心臓が早鐘の様に鳴り続ける。
「――お前。何故、ここに」
 聞き慣れた声に現実に引き戻されると、夫が後ろに立っていた。
「……わ、すれ物を、」
「ああ。すまない。後で使いをやろうと思っていたところだった。助かった」
 小さく笑った彼の顔をまともに見ることができず、震える手で荷を渡し「帰りますね」と小さく告げて踵を返した。
 
 何も手に着かないまま過ごしたその日、いつもより少し早く帰ってきた夫と夕餉を取りながら、乱れそうになる声を押しとどめて尋ねた。
「昼間、見慣れない方がいたのですけれど……」
「……? ああ、軍師だ。花という」
「軍師……。珍しいお召し物でしたね」
「ああ。異国から来たらしい」
 異国…。
 ――あなたと、同じ処から来たのでしょうか。
 そう尋ねたくなる衝動を抑える。何故かそう確信していた。そうとしか思えなかった。
「どうかしたか」
「いえ……」
 不思議そうにする雲長に笑うことで、言いようのない不安を打ち消そうとするが、無理だった。あなたが時折寂しそうなのは、故郷を想っているのだろうか。
 
 あれから住む場所も何度か変わり、ほどなくして天下は三分され太平の世がやってきた。そんな折、あの花という少女が国に帰ったのだという話を夫が始めた。思わず綻びを繕うため針を進めていた手が止まる。
「お国に……」
「ああ」
 一度会ったことがあっただろう、と言われ回らない頭で頷く。
「あなたは――」
「ん?」
「帰、らなくて、も……?」
 夫が目を瞬かせて首を傾げた。
「いえ、その、……お国に――。お帰りには」
「あそこにはもう縁者も誰もいないしな。ここを統治する役目も仰せつかっている」
「そう、ですね……」
 ほっとしている自分と、胃の底から何かがじわじわとせりあがるような感覚。ああ、これは私の醜い気持ちだ。
「それに、俺の帰るところはここだろう」
 その、言葉に。今までつっかえていたものがあふれ出してしまった。
「お、おい、どうした」
「っ、ふっ」
 ぽろぽろと後から後から涙が零れていく。止まらない。ついに肩を揺らして嗚咽するほど衝動は強くなり、夫が背中をさするのも気づかずに泣き続けた。
「何か、あったのか」
 戸惑いつつも優しい声に首を振りながら、泣きすぎて声が出せないことに安心する。
 貴方の幸せを一番に願うことのできない私は、今何を口走ってしまうかわからない。

三国恋戦記 編集

『これからは笑顔で』 #尚香 #仲謀
#三国恋戦記・今日は何の日 『ごめんねの日』
どこかのルートでこういう兄弟もいただろうな、という幕間のお話。




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「すまない」

 聞き間違いかと思うほどの小さな声に、耳飾りをの位置をいじっていた手を止め振り返る。兄の沈痛な面持ちが予想通りで、思わず笑みがこぼれた。何を謝る必要があるのだろうか。この家に女子として生まれたときから、意にそぐわぬ婚姻など覚悟すべきもの。それは兄のせいでもなんでもないのに。

「聞かなかったことにしますね」

 こんな状況ですまない、なんて誰かに聞かれでもしたら、折角の同盟に傷がつく。だが、それでも言わずにはおれない人だということもわかっている。そしてそれは兄だけではなく、今は亡き長兄も、父も――。同じように、私に謝っただろう。そういう、人たちだ。

『皆あなたには弱いものね』

 かつて呆れたように笑った母も、結局は私に甘い。家族が揃って過ごした日など片手で数える機会しかなかったけれど、揃えばいつも笑顔に溢れていたと思う。そう、私は愛されていた。否、愛されている。生まれ育ったこの地を離れても、きっとそれは変わらない。
 ふと熱くなった目頭に、顔を上げて耐える。いつもより念入りに整えた顔を崩すわけにはいかない。それこそ、同盟に要らぬ詮索を与えかねない。
 震えそうな唇を息を止めることでやり過ごし、短く息を吐いて吸い胆に力をこめた。

「兄上」

 毅然と見えるように、背筋をより意識し居住まいを正す。私とは違う色の目が、揺れながらこちらを捉えた。
 お元気で。いいえ、そんなありきたりの挨拶ではなくて。兄上の怒る声が聞けないのは寂しいです。それはだめでしょう。もっと、安心させてあげられるようなことを――。

「私は――、」

 一言発した瞬間、ああだめだ、と思う間もなく目から雫がこぼれ落ちた。

「兄上の妹で、幸せでした」

 平凡で、どこの家族でも交わされるような言葉しか言えない私の幼さが悔しくて。けれども、今だけはたった一人の、ただ家を離れるだけの妹でいたかったのかもしれない。
 頬を伝う熱に失望しながら、口角だけはと引き上げる。

「お元気で」

 こんなことなら練習しておけば良かったと、結局保つことのできなかった口元に手の甲を押し当てた。


 
 ごめんなさい。
 あなたが私のことを思い出すときは、かつての幸せな私でありますように。

三国恋戦記 編集

『日没とともに』 #早安
#三国恋戦記・今日は何の日  『家族』
早安エンド後の話(早花前提の……というCP色薄めの話です)。
当時ほぼ書き上げてましたが、ちょっとテーマとあれかな……と違うもの出してました。



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 陽が落ちる頃合いが、一番嫌いだった。
 鴉の鳴き声は耳障りだったし、どこかに帰り着く人々を眺めるのも、最悪な気分になったから。
 もっとも、そんな感情なんてとっくの昔に忘れていた。なのに思い出したのは、薬草を集めた帰り、道端にうずくまる子どもを見つけたせいだ。
「…………」
 背格好から察するに、二軒隣のガキだ。どうしたのかと声を掛けるべきなのだろう。
 向こうも立ち止まった俺に気づいていないはずはないが、微動だにしない。意味もなく手を上げ口を開きかけ──何と切り出せばいいかわからず、そのまま頭を掻いた。
 花に会うまで、人の感情なんてどうでもいいと思っていた。別に、相手が何を考えているのかが、わからないわけではない。寧ろ、思考が読めなければ死が待っているような世界で生きてきた。だから『わかる』
だけに、何と言ったらいいのかわからなくなることがある。これが以前の仕事のまま、誰かになりきっていれば、すらすらと言葉は出てくるのだろうが。
 今は『早安』だから、言葉がすぐには出てこない。
 もう一度、鴉が泣く。声を掛けることも、置いていくこともできずに、静かにため息をついて彼の隣に座った。
「……」
「……」
 俺は空を見上げ、ガキはうずくまり顔を伏せ無言のまま。じきに陽が落ちれば、もっと冷えた風が吹くだろう。それは、帰る場所のない自分を惨めに思っていたあの日々を、蘇えらせる。
「……先生、帰りなよ」
 くぐもった声に振り向きも返事もせず、頬杖をついた。
「──何してんの?」
 反応がないことに痺れを切らしたのか、近所のガキは顔を上げた。
「いや、疲れたから休憩中」
「……ふうん」
「お前は?」
「──俺は、」
 ず、と鼻を啜る音。
「……休憩中だよ」
「そうか」
 帰る場所があろうがなかろうが、『帰れない』と思っているのであれば、その気持ちはわかる気がする。
 だから、掛ける言葉もない。掛ける必要もない。どうしてそんなことを思うのだろうか、と考えた瞬間、一つの光景が頭をよぎった。すっかり忘れていた遠い日の記憶。──別に、思い出さなくても良かったとい
うのに。
「──帰るか」
 気づけば、『あいつ』と同じ台詞を口にしていた。
 のろのろと無言で立ち上がる子どもを視界の端に入
れながら、あのとき『あいつ』はどんな気持ちだった
のだろう、と考えて頭を振る。そんなこと、考えたっ
て意味がない。



「あ、お帰り」
 花が、かまどの火加減と格闘しながらこちらを振り向いた。その頬には黒い炭。思わず笑ってしまった。
「……何?」
「ん」
 袖で擦ってやれば、やや薄くなったものの、湯で落とさないと完全には落ちないだろう。
「子どもみたいだな、お前」
「……そんなことないよ」
 半目で口を尖らせる花の頬を摘む。いひゃいよ、と不満を漏らす花を眺めながら、いつも通りに見えるように笑ってみせる。
 けれども思い出してしまった昔のことが頭の隅でち
らつく。近所の子どもの寂しそうな背中が、自分もあ
んな風だったのだろうかと心がざわついて仕方ない。



 失敗すれば容赦なく叱るくせに、夕暮れに一人佇ん
でいると、いつの間にか静かに隣に立っていた。一度
もその顔を仰ぎ見ることはしなかったから、『あいつ』がどん
な表情をしていたのかはわからない。でも──。
『帰りますか』
 必ず、帰る気になった瞬間に一言。ただ、それだけ。
 逃げられたら困るから、居場所を把握していただけ。余計な情などないから、黙っていただけ。思いつくそれらは辻褄が合うし、いかにも『あいつ』らしい。
 なのにさっき繋げてしまった行動と、その中で起こった己の感情は、噛み合わないのだ。

「……どうかした?」
 不安げな花の声に意識が引き戻される。俺を覗き込む瞳が揺れていて、安心させるように目を細めてから抱き寄せる。
「──何でもない」
 そう、何でもないことだ。
 花の体温に、身体が冷えていたことに気がつく。そんな俺の背中を、遅れて宥めるように花が叩き出した。
 子ども扱いされたことに笑いながら、みじめだったあの頃の俺はもういないのだと、肩の力が抜けていく。
 『家族』という言葉で思い浮かぶのは母親だった。ずっと、その一人だけだった。そこに今、花が加わったけれど──。
「……何だったんだろうな」
 あいつとの関係に、名前でもつけていれば良かったのだろうか。そうすれば、今更面倒なことを考えずに済んだのか。
 ぽつりと零した言葉を聞き取れなかったのか、花が身じ
ろぐ。その頭を撫でながら「何でもないんだ」ともう一度呟いた。

三国恋戦記 編集

『猫とあなたと』 #早安
#三国恋戦記・今日は何の日  『猫の日』
エンド後定住前の二人です。




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『猫とあなたと』
(お題:猫の日)
「早安って、ちょっと猫っぽいよね」
 秣陵を出て、二人で暮らす場所を探す中、そこそこ大きな街に立ち寄った。初めて訪れた場所だが活気もあり、治安も良さそうだ。──しかし、暮らすにはやや人の流れが盛ん過ぎる。
 道の端に腰を下ろし、そんなことを考えながら竹筒の中の水を煽ったときだった。両手で頬杖をついた花が、何の脈絡もそんなことを言うものだから、思わず顔をしかめて聞き直す。
「……何?」
 花の視線の先を追えば、道行く人の隙間を器用にすり抜け歩く野良猫。薄汚れた、どこにでもよくいるようなやつだ。
「……」
 ごくりと水を飲み込みながら、ああ確かにと納得する。居場所もなく、誰かと馴れ合うこともない。猫一匹、誰一人気に留めることなどない。いてもいなくても、同じ――。
 自嘲するように口角を上げると、花もくすりと小さく笑いをこぼした。
「動きがしなやかで綺麗なとことか。身軽で、高いとこにもさっと登れ
ちゃうし」
 花の言葉に合わせたかのように、猫はたたっと斜めに立てかけられた板を駆け上がる。花の横顔を見遣れば、目を細め頬を緩ませていた。
「……」
「懐くまでは素っ気ないけど、でもちゃんと見てるんだよね。こっちのこと」
 かわいいなあ。
 愛おしげに呟いたその言葉に、頬が熱くなり、思わず手で口元を覆った。
 猫に向けられた言葉だろうとしても、だ。そこに俺を重ねた上での発言に、動揺しない方が無理だというものだ。それに――。
「……お前だけだしな」
「ん?」
 花が首を傾げ、俺を見る。
 野良猫なんて、誰も気にしない。煙たがられる方が自然なくらいの存在を、慈しむのは花ぐらいだ。
 俺と一緒にいようと思うのは、花だけ。
「――懐いた後は?」
「へ」
「懐いた後は、どういうとこが可愛いわけ?」
 自分ばかり乱されたのが悔しくて、花の顔を覗き込むように近づける。
 花はまずはその距離に驚き、己の発言を振り返ったのか、じわじわと
顔を赤く染めていく。
「え、っと」
「どこ?」
「う……や、優しい、とこ?」
 俺に訊かれても。
 軽く吹き出しながらも、花から目線は逸らさない。
「優しい、ねえ。それって猫が?」
「……今は意地悪だよ」
 頬を染めたまま口を尖らせた花に、今度こそ声を上げて笑った。

三国恋戦記 編集

『あなたと一緒に』 #早安
この頃から早安は書きやすい&楽しいなと思っていました。




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 窓といっても格子しかないこの世界では、屋内にいても外の音や風が容易に入り込んでくる。虫の鳴く声、どこか遠くで嘶く馬、人が地面を踏みしめる音、笑い声……。こうして静かに作業していると、ああ誰か来た、と人の気配は感じられるものだ。――ただ一人を除いては。
「ただいま」
「……あ、お帰り」
 急に戸が開いたために、慌てて振り返る。そこには、薬草が入っているであろう籠を背負った早安が立っていた。一緒に暮らし始めてから少し経つが、彼が帰ってくる気配に気づけたことは一度もない。
「何か変わったことはあったか?」
「ううん。特にないよ」
 荷を下ろしながら、ふと台所に目を向けて早安が顔を顰めた。
「――お前、俺がやるって言ったのに」
「えっと、そろそろご飯の用意しないとと思って……」
 くつくつと煮える鍋を睨むように見ながら、早安が溜息を吐いた。
「手、濡らすなって言っただろ」
「そう、なんだけど……」
 反射的に手を重ねて指先を隠してしまう。板の間に上がってきた彼が近づいて、そっと手を取られた。
「ほら、また酷くなってる」
 修復と傷を繰り返し、皮が剥がれ赤く腫れあがっている指先を指摘され、俯いてしまう。
「これは出来るだけ濡らす頻度を減らすしかないんだよ」
「……ごめんなさい」
 指の傷は、花自身が傷つけたものだった。最初は、少し痒い程度だったのだが、気が付いたら無意識に引っ掻くようになり――この有様である。初期から早安は薬を用意してくれていたが、痛痒い衝動には逆らえず、悪化する一方であった。
 早安は溜息を一つついて立ち上がると、早安が調合した薬と、それから先ほど持って帰ってきた籠からも薬草を持ってきた。古布を割いて作った包帯も。
 無言のまま薬を塗られると、染みて痛むが息を止めて堪える。その上から、いつもはしない薬草を生のままぺたりと貼られ――何だかその様が子どもの頃に「絆創膏だ」と言って遊んだ時のようで、くすりと笑ってしまった。
「? 痛くないのか」
「痛いけど、何か葉っぱが可愛かったから」
「葉っぱ……」
 花の表現に呆気に取られた後、早安も軽く噴き出す。
「お前の方が面白い」
 怒っていたような無表情が柔らかく変わって、約束を破ったことと、手間をかけて申し訳ないという罪悪感が薄れていく。
「ありがとう、早あ――」
 もうこれで処置はお終いだろう、と手を引こうとすると、手首をしっかと掴まれた。
「まだ終わってない」
 そう言うなり器用に花の指先を包帯でくるくると巻いてしまった。――四本の指ごと。
「……早安。これじゃ何にもできないんだけど」
「だからだよ」
 にやりと笑われて、随分と近い距離で話していたのだと、急に意識してしまう。
「このくらいしとけば、無理もできないだろ」
「う、うん。そうだね……」
 早安の笑う顔が好きだ。そう思っているのは本当なのだけれど。たまに見せる、こちらをひたと見据えるような笑みは――、とても、心臓に悪い。
 目を逸らし気味に返事をすると、早安が肩を震わせ――声を出して笑った。
「今更――っ」
「だ、だってっ」
 きっと早安にもわかるくらい顔が赤くなっているのだろう、と思うと何を言っても無駄な気がした。繋がれたままの右手に触れる早安の手はひんやりと心地よくて、熱いのは自分ばかりなのだと思うと余計に恥ずかしい。
「お前は、本当に面白い」
 年相応の少年のように笑う彼に、羞恥心がじわりと形を変える。”今”を見てくれるようになった幸せそうな早安が、そこに居てくれる。
「――早安」
「うん?」
「ありがとう」
「いつでも治してやるよ」
 未だ優しく触れられたままの手のことではなかったけれど。微笑んで頷いた。

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『七夕』 #早安
初書き早安でした。




****************


「ふーん」
 七夕のことなど、さして彼の興味を惹かなかったのだろうか。薬草を選り分ける手はそのまま、今日の夕ご飯は何にしようかと思ったときだった。
「……笹、取ってくる?」
「え、食べられるの?」
 驚いて尋ねると、早安は目を丸くして、そして吹き出すように笑い出した。
「お前、ほんっと食べることばっか」
「え、なんで! そんなことないよ」
 ツボにはまったらしい早安は顔を片手で覆いだした。
「――そんなに笑わなくても」
「花が言ったんだろ。"たなばた"には笹を使う
んだって」
「……興味、あるの?」
「うん?」
 目尻の涙を拭いながら、早安が柔らかく微笑んだ。
「花のことなら、興味ある」
「……そっか」
 おそらく赤くなってしまったであろう頬は、きっと早安にバレているだろうから。
「七夕、したいな」
 構わず、わがままを言った。

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『いついつまでも』 #子龍
#三国恋戦記・今日は何の日 「恋人たちの日」
思いでがえし後のお話です。




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「では、行ってまいります」
「うん。気をつけてね」

 恋人になってからお決まりのやりとりを、今日も繰り返す。まっすぐ私を見つめる瞳にはまだ少し照れるけれど、そのまま見つめ返せば微笑んでくれる――はず、が……。

「あの、花殿」
「なに?」

 いつもと違い、目を逸らしてしまった子龍くんに首を傾げる。

「今日は、その……、一緒に夕餉を共にしてもよろしいですか?」
「え? うん……。勿論だよ」

 朝だけでなく、夕飯を一緒に食べるのはよくあることなのに。何故か緊張している雰囲気の彼に、目を瞬かせる。その間にも子龍くんの白い肌が赤く染まっていく様子に、ふと心配になって手を伸ばした。

「……熱?」
「え! いえ、そのっ」

 手の甲で触れた彼のひやりとした頬に、そっと胸を撫で下ろす。風邪ではないようだと安堵したところで、子龍くんの驚きで見開かれた瞳に気付いて――びしりとそのまま固まってしまった。

「あ、ご、ごめんね急に……」

 ――これは、多分あれだ。夕餉だけのお誘いではない。
 居た堪れない気持ちになりながら、そそくさと手と目線を下げる。いえ、ともごもごと言葉にならない子龍くんの返事。勘違いなどではないのだろうと、一気に顔に熱が昇った。結婚の約束までしているというのに、こういう雰囲気には未だ慣れない。

「で、ではっ。行ってまいりますね」
「う、うん。気をつけてね」

 二人で同じやりとりをぎこちなく繰り返しながら、せめて見送りだけはと顔を上げる。そこには、真っ赤になっている子龍くんの顔。きっと私も同じように赤くなっているのだろうと思うと、自然と笑いが溢れてしまった。余分な力がすっと抜けていく。

「いってらっしゃい」
「――はい」

 彼も同じなのだろうか。頬を染めたまま、いつものように笑い返してくれた彼に、今日も胸がいっぱいになる。


 
 子龍くんが恋人になってから繰り返される幸福が、いつか形を変えてもずっと続きますように。

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『七夕』 #子龍
七夕テーマでアンケートを取って書いたときのものです。初書き子龍くんでした。



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「それで、花殿はどんな願いごとを?」
 七夕のことを思い出して話してみれば、意外な質問がきて首を傾げた。
「今までのってこと?」
「はい」
「えっと⋯⋯。家族みんな元気で過ごせますように、とかだったかな?」
 最後に書いたのはいつだっただろうか。毎年必ず七夕のことは思い出しても、短冊に願いを書いた記憶は遥か昔だ。
「――そうですか」
 子龍くんの硬い声に振り向けば、彼は悲しそうに目を伏せていた。
「子龍くん?」
「――竹、ですね。少しお待ち頂けますか」
「え?」
「へ?何、え、ちょっと待って!」
 今すぐにでも飛び出していきそうな彼の夜着をはっしと掴む。
「どこに行くの?」
「願い事は笹の葉に吊るすのですよね? 竹を取ってきます」
「え、何で――」
「ご家族の息災を祈らなければ」
 あ、と思わず声が漏れた。
「でも」
「……大丈夫だよ」
 彼の手をとって、ゆっくりと首を振る。
「子龍くんの、その気持ちだけで」
 私は今、こんなに優しい人と暮らしている。
「短冊に書かなくたって、絶対に届くよ」

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『聖なる夜の嘘ひとつ』 #孟徳
#三国恋戦記・今日は何の日
『クリスマス』
エンド後のお話です。ほぼほぼ初めてちゃんとした孟花書きました。




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「どうしたんですか、これ……」

 ちょっと散歩をしよう。凍えるような寒さの日、陽が落ちきると孟徳さんが言った。今からですか? 聞き返すよりも先に暖かな外套を二枚ほど着せられ、ご機嫌な彼に手を引かれる。回廊に出れば一気に芯まで冷え切りそうで、そっと孟徳さんに身を寄せた。辿り着いたのは、いつもの東屋――ではなかった。
 卓に、椅子に、床に。さまざまな形をした灯りが、東屋一面を埋め尽くしている。

「今日、花ちゃんの国だとこういうのが見られるんでしょ」

 本物とは似ても似つかないかもしれないけれど。ツンとする鼻を無視して大きく首を振り否定する。

「……とっても、とっても綺麗です」
「なら良かった」

 嬉しそうな孟徳さんの笑顔が、灯りを受け殊更柔らかい。

「準備してくれたこともですけど――。覚えてくれてたのが、一番嬉しいです」
「俺、花ちゃんのことなら何だって覚えてるよ」

 おどけるような口調に、くすりと笑って繋いだ手に力をこめた。冷たい夜風に時折揺れる灯籠の灯り。元の世界で見たどんなイルミネーションよりも、こっちの方が綺麗で愛しい。

「――寂しい?」

 急な言葉に息を呑んだ私に、孟徳さんが笑った。

「ごめん。意地悪だね」
「……そうですよ」

 答える前に、決めつけないでほしい。そして、傷つくと思いながらも訊かずにはおれない彼の揺れる心に届く言葉を、あえて紡ぐ。

「寂しいです」

 孟徳さんは一瞬驚いたように目をみはって、そして泣きそうに笑う。またひとつ、好きな彼の笑顔が増えた日。

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『つめたくてあつい』 #公瑾
初めて書いた公瑾でした。




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 蝉の声だ。じわりと肌に浮かぶ汗。張り付く衣服をはたはたと動かしていると、耳慣れた音がしていることに気が付いた。書き物の手を止め、窓辺に寄って蝉の姿を探してみるけれど、見つからない。
「花、……どうしました?」
 開け放たれたままの扉の前で、恋人が不思議そうにこちらを見ていた。
「あ、いえ。蝉がいるなと思って」
「蝉、ですか。お好きなのですか?」
「そういうわけではないんですけど。どこにいるのかなって探してました」
「私は苦手ですね。うるさくて頭が痛くなりそうな時があります」
 顰めた顔に、らしいなと思わず笑ってしまう。
「それはそうと──。一休みでもと思って、これを持ってきました」
 そう言われて、公瑾さんが持っていたものに初めて意識を向けた。と同時に驚く。
「かき氷ですか!?」
「……かきごおり、というのですか? あなたの国では」
 少し残念そうな声よりも、興奮が勝り首を縦に振る。
「はい。ここにも氷ってあるんですね」
 まさかの懐かしい食べ物に、どうしたって心が浮き立ってしまう。しかもこの暑さ。
「……溶ける前に食べましょうか」
 円卓に座り、どうぞと勧められるがままに匙を手に取る。少し端が溶け始めており、掬った氷がきらりと光った。
「〜〜〜~っ、おいしいです」
 冷たさが口内にじんわりと広がり、一気に体温が下がったように感じる。上にかかっているのは、蜜を煮詰めたものだろうか。現代では食べたことのない組み合わせだけれど、氷に良く合っておいしい。何よりこの冷たさに感動していると、彼がふっと笑った。
「あ、公瑾さんも。溶けちゃいますよ」
「そうですね」
 公瑾さんが氷を口に運ぶ様子を眺めながら、氷よりも彼を見ている方が涼しいかもしれないと思い直す。この人の所作は暑さを感じさせない。
「どうしました? 溶けてしまいますよ」
 同じ言葉を返されたことに笑いながら、慌てて二ロ目を掬う。──おいしい。
「──お好きなようで良かったです」
 恋人の穏やかな笑みに、思わず自分の頬も緩む。自分のために用意してくれたのかなと思うと尚更嬉しい。
「氷って、貴重なものなんじゃないんですか?」。
「ええ、まあ。でも貴方が喜んでくれて良かった」
 本当は驚かせようかと思っていたのですが、と彼は付け加えた。
「また用意しますよ」
「……ありがとうございます。でも」
 食べる前に溶けてしまった、きらきらと波立つ残りを見つめながら伝える。
「公瑾さんとこうして休憩できれば、それが一番嬉しいので」
 自分のことを思ってしてくれることはやっぱり嬉しいけれど。ただ休憩を共にしようと思い出してくれるだけでも十分だから。
「……貴方は」
「?」
「……いえ、本当に贈り甲斐のない人だなと思いまして」
「え、っと……すみません」
 よくわからないままに謝ると、呆れたように、でもとても優しい顔で彼が笑った。
「貴方のそういう所が好ましいと言っているのですよ」
 じわりと溶け出す氷に呼応するように、体温が上がっていくような気がする。
 何かさらりと言われた。公瑾さんを盗み見れば、やはり涼しい顔でかき氷を口に運んでいる。何だか少し悔しくて──。
「……私も。公瑾さんのわかりにくいところ、……好きですよ?」
 一拍置いて、公瑾さんが盛大にむせた。
「だ、大丈夫ですかっ?」
「ぐっ、げほ、だ、だいじょ、ぶ、です……」
 お水お水と騒いでいたから、小さな声で呟かれたそれを聞き逃してしまった。
「……本当に敵いませんね、貴方には」

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『乙女たちの休息』 #芙蓉姫
#三国恋戦記・今日は何の日 『ファッションショーの日』
芙蓉姫と花の、ある休みの日のお話。
時系列はルート分岐前でも、エンド後でもお好きなように。




****************


 かちゃり、と軽い陶器の音がするだけで、お茶の香りが漂ってきそうな気がする。
 お湯をそっと茶葉に向かって注げば、あっという間に葉が広がっていくから、目でも楽しめる。
 こじんまりとした、けれども手入れの行き届いたことが一目でわかる室内。物が多いわけではないけれど、私の部屋とは違って『自室』であることが感じられるここ――芙蓉姫の部屋――は、友達の自室に招かれた感覚を思い出すから好きだ。
 こうして休みが重なった時は、彼女の部屋でお茶を楽しむことが多い。

「今日のお茶菓子はこれよ」

 私がお茶を配膳する横で、芙蓉姫が手作りのお菓子をテーブルに置いた。たった、それだけ。
 それだけなのに、彼女の動きに合わせてさらりと流れる振り袖や、少しかがめば首元の飾りが軽く音を立てた姿の美しさに、考えるより先に言葉がこぼれていた。

「芙蓉姫の服って、可愛いよね」

 いや、服ではなく芙蓉姫の仕草が綺麗なんだ――。
 言い直そうとして目線を上げれば、心底驚いた表情の彼女と目が合った。

「……あなたって、お洒落に興味があったのね」
「あ、あるよ……」

 あんまりな言葉に眉尻を下げれば、「あらごめんなさい」と悪びれもせず芙蓉姫が答えた。

「だって、あなた全然着飾らないじゃない。宴のときだってすぐに脱いじゃうし」
「別に、興味がないわけじゃなくて……」

 椅子に座り、手元のお茶を一口含む。知らない香りが鼻腔まで届き、ほうっと溜息がもれそうになる。お茶に香りがあることに、すっかり安心するようになってしまった。

「これ、新しいお茶? おいしいね」
「ああ、それ? お父様が珍しいものを見つけたから――って、ほら。やっぱり興味ないじゃない」
「え、あっ。違うんだってば」
「どうかしらね~」

 敢えて意地悪そうに口端を上げる芙蓉姫に、わざとらしく頬を膨らませてみせた。

「ほんとだよ……! ただ、何ていうか――」

 〝お洒落〟といってもピンとこないのだ。宴の時は慣れない服で精一杯。かといって制服にアクセサリーをつける習慣もないものだから、つけてみようなんて思いもしなかった。

「まあ、耳飾りとかならいけるのかなあ」
「あら、試してみる?」
「え」
「そうね、それがいいわ。今日は休みだし――!」

 ぱちりと手を合わせた芙蓉姫が、目を輝かせながら身を乗り出した。

「お洒落、興味あるんでしょ?」
 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 ピンクに黄色、赤や青……。淡い色合いから鮮やかなものまで、芙蓉姫の寝台を彩り埋め尽くしているのは、全て彼女の衣だ。肝心の持ち主はというと、細工の綺麗な箪笥の中をごそごそと探り続けている。

「あ、あの、芙蓉姫……」
「何よ、今忙しいんだから――。って、あー! そういえば、あの帯譲ったんだったわ。あなたには絶対! あれの方が似合うのに」

 芙蓉姫が頭を抱える。うーんと呻いた後、くるりとこちらに振り返った。

「あれがないとなると……。着替えましょう。花」
「え、もう何着目……?」
「だって、手持ちの中ではこっちの帯の方がいいもの。やっぱり最初に着た物が似合うわ」
「別に、これでもだいじょ――」
「全然大丈夫じゃないわよ。もうっ、まだ一着も着れてないじゃないのよ!」

 それは、芙蓉姫があーでもない、こーでもないって着替えさせるから……。
 喉元まで出た言葉を飲み込んで、大人しくまだ羽織っただけだった衣を脱いでいく。短いような長いような付き合いの中で、こうした方がもっとも早く済むであろうことは学習済みだ。

「うん、これでいいわ。その後は髪を結ってお化粧をして」

 最初に着た淡い色の衣に先ほどの帯を当てながら、芙蓉姫が満足そうに頷き私を見上げる。

「城下に行って、一緒にお買い物をしましょうっ」
「……うん」

 彼女の満面の笑みに、じわりと胸が暖かくなる。私を着飾って、そして一緒に出かけることを楽しいと思ってくれる友達がいることに。口元が自然と緩んでしまうほど嬉しい。
 髪型はそうねえ、と真剣な顔で悩み出す彼女の横顔を眺めながら、何かお揃いのものを探そうとこっそり心に決める。
 きっと喜んでくれるであろう顔を想像して、一人笑いをこぼした。

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「この寂しさはどこから」 #玄徳
#三国恋戦記・今日は何の日 『ネクタイ・メガネの日』
過去に飛んだ時の話です。玄花未満。




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「じゃあ、行ってくる」

 私は献帝のお世話、玄徳さんは路銀を稼ぐため外へ。まるで家族のようなやりとりの中、玄徳さんのスカーフが歪んでいることに気がついた。

「あの。ちょっと屈んでもらえますか?」

 瞬きを一つ。不思議そうにしながらも、私の言葉にすぐに応じてくれることがくすぐったい。緩みそうになる口端に気をつけながら、斜めに曲がっていたスカーフに手を伸ばして結び目も整える。ふと、懐かしい光景が蘇り、ちくりと胸が痛んだ。

「――こう、かな。もう大丈夫です。……玄徳さん?」

 首を傾げて顔を覗き込むと、玄徳さんは慌てて身を起こした。

「あ、いや、すまない――」
「いえ。お父さんのネクタイも――。あ、こういう、細長い布を首に巻くものなんですけど。よくずれてたなって……」

 お母さんの呆れた、でも慈しみに溢れた声音を思い出す。

「お父、さん――」
「はい。お母さんが、よく直してました」
「……そっちか」
「え?」
「いや、なんでもない」

 玄徳さんがスカーフに手を添えながら、目を細めて笑う。

「ありがとうな、花」
「いえ。――いってらっしゃい」

 出かける人の無事と、早く帰ってきて欲しいという願いを込めた言葉。密かに痛みつづける胸を誤魔化すために、精一杯の笑顔で口にした。

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『あたらしいもの』 #妟而
エアスケブでリクエスト頂いた『妟而』です。内容は好きに書かせて頂きました。いつか書いてみたい人だったので楽しかったです。

羽扇ルート後のお話です。




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 父親のようだと言われて、気分が良いかと問われれば、否と答えるだろう。それがかつて、手の届かない人だったとしても、だ。
 
「妟而さんは変わらないですね」

 久しぶりに会った彼女は、何がおかしいのか笑みを浮かべながらそんなことを言う。
 長くなった髪を一つに結い上げ、帯を締めたその格好には、道士様の面影はない。いたって普通の娘。けれども、身形や馬を乗りこなすその仕草からは、ただびとではないことがわかる。出会ったあの頃は、そして十年後に会ったときだって、一人で馬には乗れなかったというのに。彼女は、変わってしまった。
 何より一番驚いたのは、彼女が老けていたことだ。いや、『普通』に『それなり』に歳を取ったというべきだろうか。約十年、ずっと心の片隅に居続けた時には、ちっとも変わらなかった彼女を『人』にしたのは誰なのやら。彼女と噂のある人物の顔を思い浮かべ――途中で止めた。

「何だか安心します」
「……口説いてんのかい、それは」

 馬の手綱を握り直しながら適当に返せば、「ほんとに変わらないですね」とまた笑う。
 そんな笑い方も、俺は知らない。

「お子さんはお元気ですか?」
「ああ、元気すぎるぐらいだよ。顔を合わせりゃ『親父は家に帰ってこなくていい』だとよ」
「妟而さん忙しいから、寂しいんですかね」
「……俺の話聞いてたか?」

 そんなものですよ、と彼女が言う。馬の蹄が地面を蹴る音と、遠くで鷹が鳴く声が平原にこだまする。大したことのない任務に、同じ方面に用事があるからとついてきた彼女は、馬上で小さなあくびをこぼした。長安と成都を行き来する身の上は、俺なんかよりよっぽど多忙だ。

「あんたこそ、あっちこっちに引っ張りだこだろ」
「ええ、お陰様で」

 そんな返し方も年相応で、何とも不思議な気持ちになる。俺は誰と話しているのだろうか。ふとそんなことを思う。あの世間ずれした、俺の言葉を胡乱な目で受け流していた彼女は、もういないのだ。

「――それはそうと、身を固めるって話を聞いたが本当か?」
「……妟而さんもその話ですか」

 けれど、半目でこちらを見た表情は、昔のままのそれで。ああ、道士様だ。自然と浮き立つ心を自覚し――同時に悟ってしまった。

「何だよ、色々あんのか? 相談ならいつでものってやるよ」

 人生の先輩としてな。心の底から言えてしまった言葉に、自嘲する。変わったのは、俺もだ。

「結構です」

 にべもない返事。これも、ずっと覚えていた彼女の表情だというのに。――ちっとも心が動きやしねえ。
 別にずっと、未練があると思っていたわけではない。女房と一緒になって、子どもも生まれて、過去の人になっているつもりだった。それでも、どこかで彼女は誰よりも特別で、揺らがないものだと半ば諦めるように生きてきたというのに。
 どうやら違ったらしい。今の俺の特別は、すっかり違うものに入れ替わっていた。

「――まあ、泣かされるようなことがあれば、俺が殴りに行ってやる。いつでも言えよ」

 その言葉に、彼女はきょとんと目を瞬かせた。

「……妟而さんってやっぱり」
「あ?」
「お父さんみたいですね」

 今まで見たことのないほど、晴れやかに笑った彼女に。もう何でもいい、と肩をすくめて笑い返した。

 
 俺の知らない顔をする彼女と、こうして近くにいるのも悪くない。

三国恋戦記 編集

『紅』 #翼徳
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2020/08/07




****************


「あれ、なんか今日の花かわいいな!」
「――翼徳殿、今日、も、の間違いでは?」
 怒気をはらんだ芙蓉姫にまあまあと声をかける。気づいてくれただけでも十分だ。
「あ、そうだよな。花、今日もかわいい!」
「あ、ありがとうございます……」
 改めて言われると照れ臭い。
「でも何でだろ。何か違うよな」
 ずいっと顔を覗き込まれて思わず赤面する。芙蓉姫からは「まあお熱いこと」と置いて行かれてしまった。
「う〜〜ん」
「あの、翼徳さん⋯⋯。実はですね」
「駄目、俺が当てるから言わないで」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯はい」
 ああ、すごく恥ずかしい。俯くわけにもいかず、早く見つけてくれますように、とただ祈った。

三国恋戦記 編集

『紅』 #早安
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2022/03/19




****************

 干し芋に塩。干し肉もすすめられたけれど、私にはまだ品質の良し悪しを見分ける自信がなくて、とりあえず断った。
 早安と二人で暮らす場所を探す道中。店主も行き交う人々も、生き生きとしているこの街は、私達にとってはどうだろうか。
そんなことを、肩に手提げを掛け直しながら考える。
 待ち合わせの場所まで辿り着けば、まだ早安はいなかった。とりあえず壁際に寄ると、早安が真剣な顔をして小物屋を眺めているのが目に入り、微笑みながら近寄る。でも、珍しいことに私には気づかない。何をそんなに真剣に――。そっと横から覗いてみれば、そこには女性ものの小物。
「⋯⋯何か買うの?」
「!?」
これまた珍しく驚いた早安に、くすくすと笑えば彼
は気まずそうに頭を掻いた。
「何見てたの?」
「⋯⋯いや」
ちらりと、一瞬私の顔を見て、目を伏せる。
「⋯⋯同じの、あるかなと思って」
「同じって?」
くし、手鏡、髪飾り。
耳飾りも少し。それらの品を横目で眺めていると、「でもまあ」と早安が呟いた。
「お前は」
早安の手が、私に伸びる。
「そのままでもいいな」
 その言葉の意味は、私にはちっともわからなかったけれど。目を細めて笑った、柔らかな早安の表情と、少しだけ唇に触れた指先に――。
「行こうか」
 笑いを含んだ声に、頬を膨らませてみながら、差し出された手を取る。歩いている内に、顔の火照りも収まるだろうか。

三国恋戦記 編集

『紅』 #孟徳
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2020/08/08 修正:2022/03/19




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「うん。やっぱり似合うなあ」
 隣でにこにこと見つめられて、照れ臭い。先日孟徳さんから贈られた紅を、せっかくだからとつけてみたところに、孟徳さんがやってきた。あまりつけ慣れていないから、自分としては違和感のあるそれも、孟徳さんが嬉しそうだと悪くない気がしてくる。
「あーでも残念だなあ」
「⋯⋯何がですか?」
 はあ、と大仰についたため息。
 けれども、顎に手をつくその表情は、柔らかくまだ私を見つめたままだ。
「中々つけてくれないからさ。今日もつけてなかったら、俺が紅をつけてあげようかなって思ってたんだよ」
 それを聞いて、途端に申し訳なくなる。
 贈ったものに手をつけなければ、不安にもなるだろう。気に入ら
ないと、勘違いされたかも。
「すみませ――」
 けれど、弁解は途中で止められた。
「こうやって――」
 孟徳さんの、小指が。紅を塗った私の唇の上をなぞっていく。
 たった、指先一本。
 そこから伝わる熱に、頭が溶けたように何も考えられなくて。
「君に、触れる口実になるでしょ」
 私の唇と同じ色に染まった、孟徳さん小指の先を。
 ただただ見つめることしかできなかった。

三国恋戦記 編集

『紅』 #孔明
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。

2020/08/07 修正2022/03/19




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「で、この書簡だけど――」
「あ、それはこっちね」
「そうそう。今日はここの整理をお願いするんだった。それは運動がてら僕が持っていくから」
 今日も慌ただしい執務室。朝、少しドキドキしながらつけた口紅のことを忘れるほど。
 いや、やっぱり薄すぎたかな。全然気づいてもらえていない。
「はい、ここ間違ってるよ。やり直し」
「は、はい」
 しかも今日はいつにもまして忙しい。次から次へとやることが降ってきて、気づいてもらえないことに気落ちする暇もない。
「――さて、もうそろそろ遅いし。帰ろうか」
「え、師匠もですか?」
「ちょっとこの書簡を届けにね。ついでに部屋まで送るよ」
「そんな、悪いで――」
「ほら行くよ」
 珍しいこともあるものだなと、部屋の前でお礼を言って別れる。そういえば、結局何も言われなかった。
 もう少し、目立つ色にすれば良かったのだろうか。
 いやそれで気づいてもらえなかったら⋯⋯。嫌な想像に頭を振りつつ、ため息をついた。


◇   ◇    ◇

 一人執務室へと戻る帰り道。
 静かに弟子を見送り、ひとりごちる。
「――まったく。誰に見せたかったんだろうね」
 子どもっぽい己の狭量さに辞易しつつ、明日もつけ
てこられたときの誤魔化し方を考えてしまった自分に、
そっとため息をついた。

三国恋戦記 編集

『紅』 #玄徳
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2020/08/07 修正:2022/03/19



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「何か、今日はいつもと違うな」
 廊下ですれ違う際、いつも通りを装って挨拶をして。けれど動きを止めた玄徳さんの言葉に、心臓が大きく鳴った。
「あ、芙蓉姫に紅を借りていて⋯⋯」
 あなたもこのくらいしなさい、と小指でそっとつけられた紅は何だかこそばゆい。それは、宴の日に着飾られたのとは、また違う特別さを含んでいる。
「あぁー⋯⋯、だからいつもと違うのか」
 頭を掻きながら話す玄徳さんの一挙一動に、呼吸がどんどん細くなっていく。
「に、似合いますか?」
 意を決して、言葉を絞り出した。
「ん? ……ああ。そうだな。ーーうん。よく、似合っている」
 ゆっくりと、紡がれた言葉。そこに嘘は一ミリだってないのが伝わって、思わず顔を伏せる。
「⋯⋯そう、ですか。あ、ありがとうございます」
 嬉しさと恥ずかしさが同時に込み上げて、自分がどんな顔になっているのか不安で。一刻も早く立ち去りたくて、「それでは」と返事も訊かずに逃げてしまった。

◇    ◇   ◇

「『何か』ではなく、最初から紅をお褒めになれば良かったのでは?」
「⋯⋯芙蓉」
 後ろから掛けられた声に、驚き振り返る。
「気づいておられることは、真っ正直にお伝えになられた方がよいかと。お節介ながら」
「あ、ああ⋯⋯」
 荒い足音を立て玄徳を追い越す芙蓉の背中を見送りながら、無茶を言うなと、ひとりぼやいた。

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『紅』 #文若
同じテーマで全員分書いた掌編です。一人一ページという縛り付きでした。
一部は友人に書いてもらったため、ここにはありません。pixivに掲載しています。
2020/08/08 修正:2022/03/19




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「⋯⋯落としてこい」
 朝から休む間もなく働き続け、そろそろ昼餉の時間になるかという頃。文若さんの処理を机越しに待っていると、急に強い口調で言い渡された。
「聞こえなかったのか。落としてこい」
「え⋯⋯と、書簡を?」
 返ってたのは大きなため息。
 ⋯⋯どうやら違うらしい。
「その紅だ」
「紅⋯⋯。あ」
 女中さんに「たまにはどうですか」と今朝渡されたそれ。
 「よくお似合いですよ」と言われていたのだけれど、仕事中につけていいものではなかったらしい。
「す、すみません。つけてはいけないものだと知らず
「⋯⋯そうではない」
「え?」
 また、ため息。額を抑えて目を伏せるその仕草は、見慣れたもの。だけどこうも要領を得ない言い方をする文若さんは珍しい。
「似合っているから問題なのだ」
「――す、すみません」
 思わず声音に合わせて、再度反射で謝ってしまった。
 けれど、これは⋯⋯褒められている、のだろうか。いやでも、そういう顔じゃないし――?
 それでも、「似合っている」という言葉に、ふわりと気持ちが上向く。似合っている。そっか、似合ってるんだ。
 緩み掛けた頬を引き締め直し、軽く会釈をして紅を落とすために退室しようと、踵を返したときだった。
「くれぐれも丞相の前には出ないように!」
「は、はい!」
 背中に飛んできた声に押されるように、慌てて部屋を後にした。

三国恋戦記 編集

#三国恋戦記・今日は何の日 とは、2021年9月から2022年3月までTwitter上で行っていた企画です。
お題を予告し、かける時間は自由、また作品は再録でも可としたものでした。
現在は大元となるアカウントは削除しましたが、タグを入力すれば当時皆さんに投稿して頂いたものが見られるかと思います。
ここでは、私が企画向けに書いたものを置いています。

三国恋戦記,三国恋戦記 魁 編集

『白線 ~こちら側~』 #仲花

『白線』 の続きといえば続きのお話です。エンド後。




****************



 長い、夢を見ていた。
 羽音と共にさえずった、鳥の鳴き声で目が覚める。窓から細く柔らかく差し込む朝日によって、空中のチリが映し出される様子をぼんやりとした頭で眺めた。
 ――ああ、夢だったんだ。どこかほっとしながらその内容をなぞろうとして、全く思い出せないことに気が付いた。
 胸に重く残る何かに首を傾げつつも、大した夢ではなかったのだろうと、ゆっくり身を起こす。
 大きく伸びをして、そろりとベッドから足を下ろす。ひやりとした床を素足で歩き、寝間着を脱いで着替え、簡単に身支度を整える。ふあ、と小さく欠伸が漏れた。
 季節は、春も終わる頃。昼間にはカーディガンを着ていると汗ばむ程の陽気で、着るべきか否か少し迷う。
 ひとまず気温を確認しようと、自室の窓を開けたときだった。
 ――雪が、降っていた。

「……え」

 ひとつ。またひとつ。
 ゆっくりと白い欠片が、右へ左へと揺れながら、まるで舞うように落ちてくる。
 目が慣れると、雪だと思ったそれは大量に舞う白い花びらであることに気が付いた。
 建物に沿うように配置された木々の花が満開を迎えていて、いつ散ってしまうのだろうと思っていた。今日がその日だったらしい。
 自室から眺めるのが、密かな楽しみだったのだけれど――。
 残念に思う間にも、白い欠片は絶え間なく上から下へと舞い降りる。雪のように花びらが視界を埋め尽くすその光景は、どこか現実味を欠くほど綺麗だった。
 そのまま眺めていると、白い花びらが風とともに部屋に吹き込んだ。
 枠に落ちた一枚の花弁を拾い上げる。色や形こそ違えど、薄い手触りといい、散り方といい、本当に似ていると思った。

「……桜みたい」
「何だそれ」

 急に聞こえた声に驚き、振り返る。そこには、同じく花弁を手にした仲謀がいた。

「……入るときはちゃんと言ってってば」
「だから、何回も声かけたんだよ。ぼーっとしすぎだ、お前は」

 危なっかしいんだよ、と文句を言いながら、彼は窓枠へと近づき私の隣に立つ。そして外を覗き込んだ。

「もう春も終わりだな」

 この花が散ることが、その合図なのだろうか。懐かしそうに目を細めた仲謀の横顔を見つめる。満開になってからというもの、彼は花見と称してこの部屋にお茶を飲みに来ていたが、それももう少しで終わるのだろう。

「……綺麗な花だね」
「ああ、見事だろ」

 誇らしげに語るその姿が、国の行く末を語るときのそれに似ていて、思わず頬が緩んだ。

「絶好の花見酒日和だな」
「……本当にお酒好きだね」

 結局宴会か、とため息をこぼす。そして、荊州に仲謀が迎えにきてくれた時に開かれた宴のことを思い出し――、頭が痛くなってきたのでやめた。
 ほんの少し前まで荊州にいて、元の世界に帰ろうかとすら思っていたのに。
 私は今、この人の隣にいる。

「で、“さくら”ってなんだこぼよ」

 仲謀の言葉に、聞こえていたのかと目をみはる。何となく、故郷の花に似ていると言うことは躊躇われた。
 一瞬の沈黙。ただ、説明すればいいだけなのに。思わず視線を逸らしてしまったこと自体に動揺しながらも、口を開きかけた時だった。
 ざわざわと外が騒がしくなり、仲謀が窓の外に視線を遣る。つられて見れば、外から見回りの兵士たちが帰還してきたらしかった。
 出迎える人々の『おかえり』という言葉が、ここまで漏れ聞こえてくる。
 ――おかえり、か。
 私も、そうやって出迎える立場になるのだろうか。否、もうなっているのだろうか。
 ちらりと仲謀の横顔を盗み見る。こうして、この人の隣にいられることは嬉しい。嬉しい、のだけれど……。
 今の、自分たちの関係を何と言えばいいのだろう。



 仲謀とともに京城に戻ってきた私は、『玄徳軍の元軍師』ではなく、仲謀の――いわゆる、『婚約者』になっていた。
 変わったのは名称だけではない。案内されたのは、今まで滞在していたのとは別の部屋だった。明らかに質の違う調度品。部屋付きの侍女。この待遇はおかしいと、違和感があるといえば最終的には喧嘩になり、こちらが折れた。
 更に、近日中に教養係として先生が何人かつくと聞いた。今まで文字も何となくでしか把握していなかったし、この世界についての知識もマシになったとはいえ、まだまだ知らないことも多い。少しだけ仲謀に教えてもらったことのある舞も、本格的な指導を受けることになるらしい。
 もちろん、全て必要なことだとはわかってはいる。
 けれど、以前とは違う環境、それから人々の目線。立て続けの変化を全て受け入れろというのも無理がある。
 自室の窓から見える白い花が咲き誇る絶景だけが、唯一受け入れられるものだったというのに。
 その小さな拠り所が散っていく不安と、一つの思いつきに拳を握りしめた。



「……何だよ」

 見つめられていることに気付いたらしい彼が、こちらへ向き直り、すぐに目線を逸らす。僅かに赤くなった形の良い耳を眺めながら、たった今思いついたことを口にした。

「馬って、一人で乗るの大変なの?」
「……何の話だ?」
「乗る練習しようかな、と思って」
「はあ?」

 予想外にも、仲謀は顔を顰めながら声を荒げた。

「えっ。だ、駄目?」

 今まで馬に乗っての移動といえば、誰かに同乗させてもらうばかり。その相手はほとんどが仲謀だ。彼の忙しさはよく知っているし、会えない日だってある。となれば、誰かに迷惑をかけ続けるわけにもいかないだろう。何より、仲謀が喜ぶだろうと思ったのだが――。この反応だ。

「必要ないだろ」
「……そう、かな」

 そもそも、馬にも乗れないのかと文句を言っていたのは、後にも先にも仲謀ただ一人なのだけれど。

「俺様と一緒に乗ればいいだろうが」
「……うん」
「何だよ、不満なのかよ」
「そうじゃなくて……」

 段々と彼の声に棘が混じり始めている。様々な返答を思い浮かべ、どう言えば意図が伝わるのだろうかと考えを巡らせる。

「……ここで暮らしていくのに、馬に乗れないと不便っていうか。必要なのかな? と思って」
「……」
「だって、いつも仲謀がいるわけじゃないでしょ? その度に誰かに乗せてもらうのは気が引けるし」
「他の男との同乗を許すわけないだろ」
「……ほら」

 こうしてはっきりと見せる彼の独占欲に、どう対応すればいいのかわからず視線を逸らす。むずむずとかいうレベルではなく、居心地が悪い。この人は自覚なしに恥ずかしいことを言う。
 とはいえ、元々は仲謀も馬に乗れた方が喜ぶだろうと思って訊いたことだ。彼が反対しても乗りたい、というほどでもない。別の何かを探そう。一人そう納得し、話題を変えようとしたときだった。

「……今日、いや明日」
「?」
「……そうだな、明日の朝飯の前ならいけるか。迎えに行くから起きて待ってろよ」

 返事をする間もなく、彼は部屋を出て行こうとする。

「……え、何」

 唐突な誘いに戸惑う間に、彼は出て行ってしまった。全くもって仲謀らしい――。
 結局その日は、もう仲謀に会える機会はなかった。



   *   *   *

 

 朝はまだ冷え込むとはいえ、息を吐いても白くなることはない。毛皮のついた外套を必要とするほどでもない。けれど、いつもの制服とカーディガン、羽織だけではまだ軽装すぎたな、と腕をさすりながら後悔する。
 朝陽は城壁の向こう側から昇っているようで、端がぼんやりと明るい。それでも、まだ半分以上は夜の領域だ。そんな中、私は仲謀と二人、薄暗い城内の回廊を歩いていた。
 真っ暗闇の中、侍女から名前を呼ばれたときは何事かと思ったが、まさか仲謀がこんな早朝からら来るとは思わなかった。結局どこに行くのかも満足な説明はなく、恨めし気に彼の背中を見つめる。けれど一向に気づく様子はない。
 ただ、二人分の足音だけが回廊に響く。
 急に心細くなって羽織の袷を握りしめる。そこそこ知っているはずの京城が、知らない場所のように思えた。どこへ向かうのかもわからず、思わず仲謀の裾を掴みたくなったときだった。

「仲謀様」

 急に掛けられた声に、びくりと身体が跳ねた。薄暗い回廊の先から、誰かが話しかけてきたらしい。――もう、誰か起きてるんだ。
 仲謀はそれに軽く対応し、すぐに歩き出す。かと思えば、仕事をする人々の群れに遭遇した。皆一様に仲謀に頭を下げたり、声をかけたり――。
 それに軽く応じる彼の背中に、ああ偉い人なんだよね、と今更な感想が浮かぶ。
 そんなことはとっくの昔に知っているし、実感もしているのだけれど、ふとした瞬間に『自分とは立場が違う人だ』と思うのだ。――最近は、特にそうだ。
 ここに滞在していたのは短い期間ではない。けれど、以前はあくまでも『玄徳軍の軍師』という『よそ者』の立場だった。尚香さんや大喬さん、小喬さんが仲良くしてくれているとはいえ、まだまだ玄徳軍に比べれば馴染みは薄い場所だ。あそこでは“軍師”の山田花として、皆から必要とされている実感もあった。けれど、今はどうだろう。
 何の立場もなく、ただ仲謀が私を必要としていて、私が残りたかったから、ここにいるに過ぎない。私がいることが、呉軍の役に立つわけでもなんでもないのだ。
 ――ああ、また。
 みぞおちの辺りがぎゅっと詰まる。元の世界に帰るんだ、と思っていた頃にはなかったものだ。
 仲謀のそばに居たいと、自分で決めたのに。ときおり、『居場所』はどこなんだろうと漠然とした不安に駆られる。――私は、本当にここにいてもいいのだろうか。
いつの間にか下がっていた目線の先に、見慣れたローファーが映る。
 私が歩く場所は、ここで良かったのだろうか。
 後悔なんてしない、そう思っていたのに――。唇を噛みしめ、嫌な考えを切り替えようと意図的に顔を上げれば、厩の方角に向かっていることに気が付いた。

「……出かけるの?」
「そんな時間ねえよ」
「……そう」

 ということは、遠出するわけではないらしい。そういえば、もっと寒かった頃、こうして出かたけことがあった。
 一緒に見た朝陽の美しさと、凍えながら帰った後に、仲謀が受けていた叱責を思い出す。彼を叱る家臣の言葉は、畏まっているのに、まるで子どもを叱るようだった。そしてそれに慣れた様子で対応する仲謀。彼らが家族のように見えて微笑ましかったなと、こっそり笑いをこぼした。


 結局、辿り着いたのは予想通り厩だった。数人がブラシで馬の手入れをしたり、エサをやっている姿が見える。
 仲謀は「待ってろ」と言い残すと、一人の厩番に話しかけた後に、一頭の馬を引き連れて戻ってきた。

「……出かけないんだよね?」
「練習するんだろうが」

 練習。思ってもみなかった言葉に、目を瞬かせる。

「……乗れなくていいって」
「教えないとは言ってない」
 ──必要ないってはっきり言ったよ。

 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。こういう時に何を言っても、自分の主張を通されるのはわかりきっている。朝から無駄なことに体力を使わなくてもいいか、とため息をこぼすのみに留めた。
 仲謀が連れてきた馬は、艶のある栗毛の美しい馬だった。いつも仲謀が乗る馬よりも、小柄のようだ。私に合わせてくれたのだろう。

「まずは、一人で乗るところからだな」

 そう言って、仲謀は足場となる木箱を持ってきてくれた。

「手綱とたてがみを掴んで、あぶみを踏んどけ。そっからよじ登ればいける」

 馬自体にはそこそこ乗りなれていると思っていたが、いざ一人で乗るとなると緊張もあり手間取ってしまう。木箱に乗って言われた場所を掴めば、近づいた馬の熱気に手汗が滲んだ。
 怖気付いていても仕方がないと息を吸う。左足を鎧にかけ、右足を蹴った。

「――っ、と」

 やや不恰好にぐらついたものの、身体を乗せることには成功した。ずるずるとお尻を引きずりながら位置を調整して、今まで言われてきたように姿勢を正す。最後に目線を上げたところで、背筋がひやりとした。
 馬が足を踏み鳴らすだけで、落ちてしまいそうだ。冷えた風が両脇を通り抜け、自然と手綱を握りしめる手に力が篭った。

 ――怖い。

 真っ先に浮かんだのは、恐怖だった。
 一人で乗る心細さはもちろん、手綱さばきや判断次第で、自分だけでなくこの馬も危ない目に合わせてしまうかもしれない。その可能性を考えてしまうと、乗ることをやめた方がいいのではという考えがちらつく。

「大丈夫か?」

 声とともに、強張った手に温かさを感じる。見れば、仲謀の手が重なっていた。

「あんまり硬くなると、馬も不安がるぞ」

 まっすぐこちらを見上げる仲謀の瞳が、光の加減で青く見える。自然と、力が抜けていくのがわかった。
 いつもそうだ。普段は、ちっとも私の気持ちなんてわかってくれない、と思うことの方が多いのに。私が不安になったときだけは気づいて、手を差し伸べてくれる。一人じゃないんだって、教えてくれる。

「――大丈夫」

 その言葉に、仲謀が笑った。そう言うだろうと、期待通りだとでも言わんばかりに、誇らしげに笑うから。嬉しさと同時に、『もういい』と言った時の彼の顔を思い出して、息が詰まった。

 
 ずっと、迷っていた。
 仲謀のことは好きでも、それだけでは駄目だったから。玄徳軍のことも、公瑾さんに言われたことも、私自身の帰りたいという気持ちのことも。
 そして、どちらの軍にも与することができないまま、自分が正しいと思った、尚香さんの身代わりになることを選んだ結果――仲謀を、傷つけた。
 それなのに。
どうしてこの人は、私を迎えにきたんだろう。
 玄徳軍の皆と別れるとき。船で京まで戻るとき。京城での扱いが変わったときに、これで良かったのかと揺らぐ自分がいた。――帰らなくて良かったのかと、そんなことを思ってしまった。
だから、何てことのない、桜の話すらできない。
 仲謀は、ずっとまっすぐで揺らがないのに、私だけがいつまでも取り残されたままだ。
 それでも、ただ一つだけ強く思うことがある。

 ――もう、あんな顔はさせたくない。

 この人が笑うために、私は何ができるんだろう。一緒に生きていくために、何をすべきなんだろう。

「今日は一人で乗る感覚を掴むだけで良い。指示は俺が出すから、落ちないようにしろよ」

 頷くと、仲謀の手がそっと離れた。そうして気づいた事実に、乾いた唇を閉じて、唾を大きく飲み込んだ。震えそうになる足に力を入れ、馬の胴体をしっかり挟む。

 ――ずっと『一緒』なんて、不可能なんだ。

 だって、進むときは一人だ。


 
 馬が動き出せば、同乗させてもらう時と同じで大したことはなかった。それは仲謀も見て感じ取ったようで、特に何も言わない。そうして、すっかり空が明るみ始めた頃には、元の場所に戻ってきていた。これから先、指示を足で出したり馬の様子を見たり――。気軽に乗れないかと聞いたけれど、思ったよりも難しそうだ。

「降りる時もさっきと同じ場所をしっかり掴んどけ。逆に考えればいけるだろ」

 逆。右足の鎧に体重をのせ、左脚を右側に寄せる。このまま木箱まで身体を降ろせるはず、と思ったところで、たてがみを掴んでいた手が滑った。

「わっ――」

 木箱から、足を踏み外す。

「っ、と!」
「あ、ありがと……」

 落ちるところを、仲謀に支えられ事なきを得る。反射的にお礼を言えば、呆れた声が返ってくる。

「変なとこで気ぃ抜くな」

 ごめんと言おうとしたところで、抱き止められている体制に気が付き、言葉が引っ込む。足は地に着いたというのに、仲謀の手は背中に触れたままだし、離れる気配がない。
 かといって大袈裟に離れるのもなんだと、気恥ずかしさを誤魔化すために思いついたことを口にする。

「あ、あの時に教えてもらえば良かったね」
「あの時?」
「洛陽まで旅したときに――」

 ああ、と仲謀が納得する。

「お前鈍臭そうだから、教えたって乗れないと思ってたしな」
「ひどい……」

 あの時の彼の態度を思い出し、本当にそう思っていたのだろうことが容易に想像できた。眉尻を下げれば仲謀が声を上げて笑うから、またずきりと胸が痛んだ。
 仲謀が笑うと嬉しいのに、その度に罪悪感がじりじりと胸を焦がす。

「……何で、教えてくれる気になったの?」

 背中に触れられた手の感触よりも、顔を見なくてもいい体制であることにほっとしている。本当は、迎えにきてくれた理由を聞きたかった。

『もういい』

 あの傷つけたときの表情が、声が、ずっと頭から離れない。大人しくしてろと言われたのに、身代わりを引き受けたこと。見張りの目を掻い潜って迎えにきてくれたのに、一緒に行けなかったこと。――そんな私だから、『もういい』んだ。そう、思っていた。

「――別に」
「気になるよ」

 意を決して振り返り、仲謀を仰ぎ見れば、空が一段と明るくなっていたことに気が付いた。もうすぐ、夜が明ける。

「……俺も、覚悟しとかないといけないと思ったんだよ」
「?」

 言っている意味がわからなくて、首を傾げる。どういうことかを尋ねる前に、仲謀は口端をあげてイタズラっぽく笑った。

「どうせお前は、勝手に厄介ごとに首を突っ込んでいくんだからな」

 ――どうして。
 鼻がツンとする。反射的に目が潤んだのが、自分でもわかった。
 どうして、こんな風に笑えるんだろう。

「そのときに、馬に乗れなくて危ない目に遭うぐらいなら、乗れた方がましだろ」
「――乗れる方が大人しくしてないかも」
「その程度でお前のじゃじゃ馬が収まるかよ」
「……人を乱暴者みたいに」
「お前みたいなのは無謀って言うんだよ」

 笑いながらぐしゃり、と髪を掻き回される。

「それに」

 一転して落ち着いた仲謀の声音に、ゆっくりと顔を上げる。ああ、この顔も知っている。

「自分が正しいって思ったことをやり遂げるお前だから――。俺は、お前がいいんだ」

 この国のことを話すときと同じ瞳。その仲謀の言葉が、胸に落ちて、痛みに変わる。そう言ってくれるのは嬉しい。
 この人のことが、好きだと思う。この人の期待に、応えたい。
 でも、この人を傷つけてばかりの自分に、それができるだろうか。そして、何とも情けない事実に気が付いた。

「……何で泣いてんだよ」
「――泣いてないよ」

 言葉とは裏腹に、頬にじとりと涙が伝う。
 今更だ。
 何度も迎えにきてくれたことも。その手を取らなかったことも。最後の最後まで迷っていたことも。
 いつも、怒ったり小言を言ったとしても、最後には笑ってくれる仲謀を、傷つけなければ。

 ――私は、ここに残ろうと思わなかった。

「……」

 頬に、仲謀の指が触れた。ぎこちないその動きに思わず笑えば、何だよと怒ったような声が返ってくる。濡れた場所を拭ったその手に、自分の手を伸ばす。仲謀の手は温かくて、思わずほっとして息がこぼれた。
 帰らなかったことを後悔しない、と本が消えたときには思った。けれど、故郷への想いが吹っ切れたわけでもない。心の隅のどこかで、『これで良かったのか』と思う私だって居る。でも――。
 目を開ければ、城壁を越え始めた朝陽がオレンジ色に辺りを染め始めていた。仲謀の金色の髪が、濃く染まっている。そして、何も言わずに、でも心配そうにこちらを見つめる青い瞳。
 この人の手を取らずに帰っていたら――。一人で、『あんな顔』をさせていたかもしれない。
 それなら。
 仲謀を傷つけてでも、今、ここにいて良かった。

「ありがとう」

 何度も迷う私を。
 自分が正しいと思ったことは、あなたを傷つけてでも選んでしまう私を。
 そうでもしないと、あなたがどれだけ大切なのかもわからない私に。
 何度でも手を伸ばしてくれて、ありがとう。
 言葉にできない思いを抱えて、拭われた涙の残りを、手の甲でこすりながら笑いかけた。

「馬に乗れるようになったら、一緒に遠出したいな」

 以前出かけた時みたいに、朝陽を見に行ってもいい。

「あ? ああ。まあ、そうだな」

 ようやく、仲謀の目尻が緩く下がった。
 乗る馬は違っても、出来るだけ同じ場所に向かって、同じ物を見ればいい。考えることは違っていても、隣にいて、話がしたい。笑ったり、喧嘩したりすることもあるだろうけど、共に過ごしていきたい。
 進むときは一人でも、それでもそばに居れば『一緒』なんだと思うから。
 この人の作る未来を、『一緒』に見たい。

「もう一回、練習していい?」
「ああ」

 泣いていた理由が、気にならないわけではないだろうに、仲謀は何も訊かない。いつもは口うるさいぐらいなのに、こんな風にそっとしておいてくれるのも、彼らしいと思い小さく笑った。
 さっきまでオレンジ色だった光は、城壁をあっという間に越えてしまい、無色透明で柔らかな光に変わっていた。あの朝のように、特別でも何でもない。でも、それで良かった。忘れられない一瞬よりも、何気ない日常の方が大事だと思える。
 ふと、視界の端に、あの桜に似た花びらが映り込んだ。風に乗ってここまで飛んできたのだろう。
 まるで雪のような欠片を見ていると、胸が張り裂けそうに辛くて、泣いていた光景を脳裏がよぎる。
 いつのことだろうと記憶を追いかけようとしたけれど、すぐに消えてしまった。多分、必要のないことなのだろう。

「あのね、仲謀――」

 きっと、これからも悩むし、足りない覚悟もたくさんあるけれど。知りたいことも、伝えたいこともたくさんある。
 まずは、あの花が故郷に咲く花に似ていることから話そう。


 後悔をするなら、共に生きる方を選びたいから。

三国恋戦記 編集

『小さな一歩』 #仲花

#三国恋戦記・今日は何の日  
3/9「ありがとう」

雨宿りイベントの後のお話です。




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「あの、これ⋯⋯」
 雨が止んで、馬を繋いだ木まで後少しというところ。
 くじいた足はまだ痛むけれど、仲謀も心なしかゆっくり歩いてくれているようで、そんなに辛くはない。ふと、まだ上着を借りたままだったことに気がつき、脱いでから声を掛けた。
「あ? ああ……」
 仲謀の応える声は、今までよりも少しだけ柔らかくなった気がする。彼は立ち止まり、上着を受け取ろうとして──思いっきり顔を顰めた。
「……お前の上着は濡れてるんだよな」
「そうだね。ちょっとまだ着れないかも」
 水分をしっかりと含んだそれは、とても重たい。とりあえず軽く絞ってはいるけれど、今日中には乾くのは無理だろう。
「なら、まだ着てろ」
「え、でも」
「いいから着てろ」
「寒くない? 私カーディガンもあるし――」
「俺様がいいって言ったらいいんだよ!」
 声を荒げて突っ返され、困惑する。何で急に怒ったんだろう。
 やっぱり、何にも変わってないかも。
 けれど、そんな彼にも慣れてもきた自分もいる。
「少し早いが、次の街で宿を取る。それまで貸してやるから着ろ」
「でも」
「いいか? これは命令だからな」
 強い口調で捲し立てられれば、頷く他ない。それを確認した仲謀は踵を返し、馬の元へと足を速めてしまう。釈然としない気持ちでその後ろ姿を眺めていると、彼の耳が赤いことに気がついた。
 ──照れてるのかな。
 先程の雨の中のやりとりと、背中の熱がふと蘇った。
「……」
 すぐ怒るし、優しくないし。文句ばっかりだと思っていたけれど、彼の背中の温かさを思い出すと、それだけでもないことも浮かんでくる。野犬のときも、おぶってくれたことだって、行動だけ見れば助けてくれているわけで――。
「あの」
「まだ何かあるのかよ!」
「ありがとう」
 私の言葉に仲謀は足を止めて、少しだけ振り返る。その顔が、予想通りの渋面で思わず笑ってしまいそうになる。
「……別にいい」
 ふいっと前を向いた仲謀の耳が、さっきよりもはっきりと色づいたのが見えて、こっそり笑いをこぼした。
 目線を少し上げれば、雨が降っていたのなんて嘘のように空は晴れ上がっている。森を抜けて陽も当たれば、気温も上がるだろうか。
 仲謀が風邪を引きませんように、と心の中で祈った。

三国恋戦記 編集

『必ず幸せに』 #仲花
夫婦後の二人です。少し経ってから謝ると思う。




****************



「……何だよ。気持ち悪ぃな」
「えへへ」

 忙しい執務の合間、急に降ってわいた空き時間。東屋に花を呼び出せば、彼女はいたくご機嫌だった。
 聴き慣れた水音と、陶器が軽くぶつかる音の中、茶の香りがふわりと漂う。すっかり慣れた手つきで茶を淹れる花の手元を眺める。

「そんなにこの菓子が好きなのかよ、お前は」

 機嫌の良い花に呆れるような言葉をかけながらも、そんな姿を前に悪い気はしていない。
 桃色と黄色と乳白色の、石ころのような形をした焼き菓子。城下でも人気があるのだと、大喬や小喬とよく食べていると聞いた。よっぽど気に入っているのだろうと緩みそうな頬を引き締めているところに、茶器がそっと目の前に差し出される。
 花が着席したのを横目に、器を手に取り口付け、鼻を通り抜ける茶の香りに満足した瞬間だった。

「だってこれ、仲謀が買ってきてくれたんでしょ」
「っ、! げほっ、ごほっ」

 思いもよらぬ言葉に思いっきり咽せかえった。咳き込みながら呼吸を整える中、花は構わず「このお茶おいしいね」など感想をのたまわっている。

「おまえっ、何で――」
「私の情報網、甘く見ない方がいいよ」

 初めて見る悪戯っぽい表情。小首を傾げたその姿に、目を奪われた。

「ねえ、仲謀」
「――あ?」

 意図せず見惚れてしまっていたことに気がつき、バツの悪さに荒い声を返す。そしてやたらと嬉しそうだった原因が、単に好みの菓子を食べられるということではないことに思い至り、堪らず手で口元を覆った。
 ――それくらいは、自惚れてもいいだろう。

「ありがとね」
「……これくらい、いつだって買ってきてやるよ」

 そう、〝これくらい〟だ。たった、それだけ。そんなことで喜ぶ妻が愛しく、けれどそれだけ構ってやれていない事実の裏返しでもある。

「これ、仲謀と食べたかったんだ」

 幸せそうに笑う花に、ちくりと痛む胸から目をそらす。
 今だけ。今だけは彼女の幸せに、己も共に浸っていたくて。

三国恋戦記 編集

『いつもの春の終わりに』 #仲花
#三国恋戦記・今日は何の日 『いい夫婦の日』

仲花夫婦後のお話です。




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 ふわりと香った花の匂いと、柔らかな風。また好きな季節が巡ってきたことを実感して、ゆるりと微笑んだ。 
 手元に視線を落とせば、琥珀色の液体が揺れる盃に映った月があまりにも綺麗で。ねえ見て、と隣の彼に声をかけようとして、ふと違和感を覚えた。
 いつも通り、自室で二人きりで興じる月見酒。頬杖をつきながら夜空の月を見上げる彼の仕草に特に変わりはない。
 また、風が吹いた。今度は少し強めのそれに、満開の桜に似た木々の花びらが舞い散り、仲謀の髪を揺らしたところではっとする。

「……髪、伸びた?」

 盃を持たない方の手を伸ばし、彼の耳の後ろの金糸を掬い取り――怒られた。

「おっ、前なあ! こぼれるだろうが!」
「……別にくすぐろうと思ったわけじゃなくて」

 その柔らかな髪に触れたかっただけなのに、と釈然としない気持ちを抱えながら謝る。仲謀のぼやきは聞き流しながら、首元を庇うように覆った手の下に、思いを馳せる。

「……もしかして、伸ばしてるの?」
「……」

 図星らしい。いくら首が弱かろうと、隠したままなのは明らかに変だった。

「何で? 珍しいね」

 出会ったときからずっと、仲謀の髪は短かった。
 ――あのときは王子みたいなんて思ったりしたっけ。
 瞬時に浮かんだあれこれに、懐かしいなと目尻が下がった。昔のことを思い出すと、夫婦になったことが心底不思議であると同時に、なるべくしてなったのだろうとも感じる。それぐらい、こうして横にいることが当たり前になってしまった。

「……別に」

 こちらを見ることなく、仲謀もまた盃を傾ける。

「もういいかな、と思っただけだよ」

 何が『もういい』のか。短くない付き合いの中の、彼の言葉や周囲の声が浮かんでは消え――。ある一つの予測に辿り着く。けれど、それはお酒とともに流し込んでしまった。

「そっか」

 風と共に、月明かりに照らされた花びらが舞い散る。一緒にふわりと揺れた金糸を、心から綺麗だと思った。

「どっちも好きだよ」

 髪が長くても、短くても。
 そこにどんな心境の変化があって、その理由が気にならないわけではないけれど。何もかも伝えればいいとも思わなくなった。
 今、こうして隣にいることの意味の大きさを教えてくれたのは、他でもない仲謀だから。
 私の言葉を受けて、光の加減で青く見える仲謀の瞳が私を捉える。ああこの色も好きなのだと、思わず口元が緩んでしまった。
 仲謀が、何かを言おうとして口を開いて、閉じて。そして息を吐くように笑って、私の長い髪を一房手に取った。

「まあ、俺も。どっちも好きだな」
「……うん」

 好きと言って返されたくすぐったさを、彼にもたれかかることで誤魔化す。春の風は暖かくとも身体は冷えていたらしい。当然のように抱えられた頭と身体から伝わる体温の心地良さに、そのままゆっくりと目を閉じた。

三国恋戦記 編集

『色めく欲のまま』 #仲花
夫婦後仲花です。『色っぽいお話書きたい』アンケートで書いたお話なのでそういう感じのです。
大分慣れてきたころの夫婦なので、仲謀が若干あれです。




****************






「ちょっ、と待って」

 手のひらに吸い付くような柔肌の感触に没頭していたものだから、そこそこ聞き慣れてしまった台詞に眉を顰めることすら煩わしい。なんだよ、と反射のように出た声は想定していたよりも低く、己の余裕のなさにため息をつきたくなった。

「皺になるから……」
「別にいいだ――」
「よくない」

 先程まで顔を赤らめしおらしくしていたというのに、食い気味に反論する声音はいつもの花だった。強めの否定に、肩と裏腿を撫で上げていた手を離し、距離を取る。それを了承と受け取った花が、自身の帯の紐を緩め始めた。
 しゅっ。
 甲高い衣擦れの音がやけに大きく響いたものだから、酒に酔っていた頭が幾分か冴えてくる。
 『待て』と言われることは多々あれど、大抵は夜着で事に及ぶから、花が衣服の皺を気にすることなどあまりない。今日は珍しく酒も飲まないくせに同席した宴から共に戻り、着替える前に寝台になだれこんだところだった。
 思えば、いつもは優先度の高い事項に気を取られながら服を剥ぎ取るばかりで、こうしてゆっくり眺めることなどない。きっと煩わしいとさえ思う衣を止めるいくつかの紐も、花が一つ一つ外していく様は扇情的だった。待つのも悪くない――と思い始めたところで、花が居心地が悪そうに手を止めた。

「あ、あんま見ないで……」

 待て。見るな。本当に注文が多い。
 結局それに従ってしまう己への舌打ちを堪えつつ、目線を転じようとした視線の端。先刻さっき、待てと言われる前に捲り上げていた裾から覗く、花の白い足に目が止まった。

「……わかったよ」

 一度待ったし、脱ぐところを見なければいいのだ。やや乱暴な言い訳だと頭の隅では理解していながら、まだ酔いの残った状態では些細なことでしかない。
 組んでいた腕を解いて寝台に手をつき、花との距離を縮める。そして、今はもう日中は露わになることはない膝小僧に口付けた。

「、な」
「見てないから早くしろよ」

 視線を落とし、そのまま白い肌に唇を滑らせる。これ以上我儘を言ったとしても聞いてはやれない。

三国恋戦記 編集

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