猫の額








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『帰る道』 #エース
「エースで甘め」のエアリクで書きました。ハート城ルートで、でユリウスに二人で会いにいった後の話です。




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「なあ、手を繋いでもいいかな?」
「…………は?」
 時計塔に行くという彼に、道案内がてらついていって、ユリウスへ手土産を買って、今回も散々お邪魔をした、その帰りだった。時間帯は昼から夕方に変わり、鐘の音が時折どこからか届いてくる。雑踏を歩く人々も、帰路に着こうとしているのか、どこか忙しない。
「だから。手を繋いでいいかな」
「……い、いいけど」
 別に断る理由はなかった。と、思う。戸惑いながらでも了承を得たのが嬉しかったのか、彼が軽く微笑む。そして手袋をはめたその手を伸ばし、私の右手を握った。
「帰ろっか」
「……うん」
 柔らかな革越しに、思ったよりも暖かな彼の手の温もり。そのことに自然と熱くなった頬を見られまいと俯けば、夕日に照らされ二つ寄り添う影が目に入り、いたたまれない気持ちになってしまう。だって、何だかまるで――。
「ピクニックにでも行こうか」
「は?」
 急な話題に思考を飛ばされエースを仰ぎ見れば、空いた片方の手を顎に当て、唸っているところだった。
「いや、でもそれじゃ違うか……」
「――何なのよ、急に」
 手を繋ごうと言ってきたり、ピクニックに誘ったり。不可解な言動を訝しめば、エースは軽くため息をついた。
「君が、俺に差し入れを持ってきてくれるには、どうしたらいいかなって」
「……さっきの続き?」
 ユリウスに差し入れを持っていったことを、まだ根に持っていたらしい。呆れているのだと態度で表したくて、わざとため息吐きながら答えた。
「俺のことで悩んで、俺のために時間を使って欲しいじゃないか。俺がいないところでも。ユリウスだけなんてずるいだろ」
「……ずるいって。子どもじゃあるまいし」
 と言いつつ、悪い気がしないのがいけないと思う。先ほどと同じ主張を繰り返す彼の言葉に、今度は呆れではなく胸の奥が疼いた。――多分、手を繋いでいるせいだ。いつもより距離が近くて、まるで……恋人同士のようだから。
「……何が好きなの?」
 私の問いに、今度はエースがぱちぱちと不思議そうに目を瞬かせた。
「だから、差し入れ。訓練の合間とか――私が休みで、あなたが仕事しているときに持っていってあげる」
「え、いいのか?」
「だから、好きなもの教えて」
「君だけど」
「〜〜〜〜っ!真面目に答えなさいよ!」
 揶揄われたと怒れば、エースが弾けるように笑う。腕を叩こうにも、手がしっかりと繋がれていて不可能だ。仕方なく睨み上げれば、エースが珍しく心から笑っているように見えて――一緒に笑ってあげるしかないじゃない、と繋いだ手をそっと握り返した。

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『張り紙の効力』 #エース
ピクスクイベントの店舗背景をお借りして描き足させて頂いた、『二人きりの夜間外出禁止』に関するお話です。
ダイヤの「もう少し傍に」EDのその後です。
疑似家族のあれこれを書くつもりが、少年エスアリ寄りのお話になりした。
(多分)ギャグです。




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「……ねえ、あれ何?」

 渡されたコーヒーカップを受け取りながら、お礼を言おうと口を開きかけたときだった。見慣れぬものを見つけ、思わず首を傾げる。クローゼットのドアに貼られた、真新しい紙に書かれた言葉。

『二人きりの夜間外出禁止』

 ユリウスって達筆よね、と思いながらコーヒーを口に含む。好みの香りと程よい苦味。当たり前だった日常が、また形を変えて戻ってきた。

「見ての通りだ」

 幸福感を満喫する私とは対象的に、ユリウスの返事は、ほんの少し苛立ちを含んでいた。
 そこでようやく気づく。

「これ、私達宛?」

 私達の『お付き合い』を勘違いした故のこれなのか。ちらりと本棚に目をやれば、真新しい本が増えている。タイトルを読むまでもない。育児本だろう。

「正確にはエースに、だ」

 ユリウスの言葉を受け後ろを振り向けば、相変わらず勝手に床に広げた敷物の上でくつろぐエースと目が合った。テントよりもささやかなそれを、ユリウスは文句を言いながらも受け入れている。

「ユリウスって本当に面白いよなあ」

 手元のトランプをパラパラと敷物の上にばら撒きながら、エースが明るい声で笑いかけてきた。

「ユリウスが心配しているようなことは、夜にしかできないわけでもないっていうのにさ」
「……言っておくけど、夜だろうが昼だろうが、あなたの考えているようなことは『ない』わよ」
「ええ? 俺の考えていることって、何?」

 矯正可能だと思っていた日々はそう昔ではないはずなのだが、やはり幼くてもエースはエース。段々と大人の彼を彷彿とさせる発言が増えて来ていた。正直、殴りたい。否、今の彼なら殴れる。
 手元のコーヒーをテーブルに置いて、立ち上がるべきかと考えたときだった。コンコン、と扉を叩くと音に重ねるように、ユリウスを呼ぶくぐもった声が聞こえた。ジェリコだ。

「何だ」
「悪いな。ちょっと――って、よお、アリス」

 ドアを開けるなり話し出した彼は、私に気づくと眼鏡の奥の目を細めて軽く手を上げた。最初は、私がここにいる度に軽く驚いていたけれど、居る方が当たり前だと認識するようになったらしい。
 けれどそれも一瞬のことで、張り詰めた空気を漂わせながらユリウスに視線を向ける。ドアの取手に触れたまま中に入ってこようとしない彼の行動に、ユリウスがため息をついて立ち上がった。

「少し出てくる。いいか、私のいない間に――」
「わかってるわ。勝手に部品に触ったりしない」

 そう先に言うと、ユリウスが眉根を寄せた。

「それもあるが――。いや、いい」

 何かを言いかけ、早足にドアへと向かい、振り返ることなく二人で消えてしまった。バタン、と閉まった扉の音が、何だか重く感じる。
 平和なここも、不意にちょっとしたバランスで崩れてしまうのだった。

「いつまで見てんの?」

 やや不機嫌そうな声に、ドアから目線を外し振り返る。敷物の上で胡座をかき、こちらを見つめる赤い瞳は、ある意味よく知っている剣呑な色を含んでいた。

「……ユリウスは駄目だ、って言ったの忘れた?」
「そんなんじゃないって言ったはずだけど?」

 抑揚を削ぎ落とした声に呆れながら返し、殺気未満の、けれどほぼ同様のをそれを受け流しながら立ち上がる。もう彼を殴る気も失せていた。本棚に向かい、慣れ親しんだラインナップに満足し、口元を緩める。

「……君が、ユリウスと仲良くしているとイライラするんだ」
「やきもちってやつじゃない?」

 もちろん、ユリウスにだ。適当に受け流しながら、気になったものを手に取ってみる。その隣にあるのは育児書で、ハートの国とはまた違う、親子のような二人の関係を微笑ましく思う。国が違っても、姿が違っても。関係の在り方が違っていたとしても、二人が一緒にいるという事実に、私はこの上もなく慰められていた。

 ――だって、大事な人と居られるのは、幸せなことだから。

 無意識に重ねた姿に、ずきりと胸が痛む。そのせいで、気付くのが遅れた。

「ねえ。今、誰のこと考えてたの?」

 不意に近くで聞こえた声に、驚き振り向く。と同時に、いつの間にか真後ろに立っていたエースが、右腕を本棚に伸ばす。まるで追い込まれるような形に目をみはった。今、私達の間には抱えた本一冊分の厚みしかない。

「な、え?」

 あまりの近さに上擦った声にも、彼は関心を示さず眉はしかめたままだ。

「ユリウスのこと?」
「ち、違うわよ」

 迫力に思わずたじろいだ。彼の殺気もどきは慣れていても、こう距離が近く逃げ場がないと、それなりに堪える。顔を伏せ、本を抱きしめ、少しでも距離を取ろうと無駄な足掻きをしてしまう。

「……ユリウスが」

 けれど、続いた言葉は逸らした視線を戻してしまうほど、苦痛に満ちていて。

「ユリウスが、君に心を開いているのがすごく嫌だ」
「……ええ」

 そうでしょうね。返事を飲み込みながら、小さく頷く。
 まるで父親離れしていない子ども、と言い切ってしまえばわかりやすいのかもしれない。けれど、彼の、彼らの関係はそう一言で表せるものではない。もっと、根深く重い。

「――そして、君がユリウスに心を開いているのは……。もっと……、嫌な気がする」

 絞り出されるように紡がれた言葉に、再度頷きかけ――首を傾げた。

「え、ええ?」

 私が呆気に取られて見つめるのにも気づかず、エースは私を本棚に追い詰め、床を睨みつけたままだ。赤いのに、深い海の底みたいな冷たい瞳は、いつの間にかくしゃりと歪んだ顔によって消えていた。

「……ユリウスだけで良かったのに。余計な物が増えた」

 ぽつりと溢した言葉は、ただただ悔しそうだった。思わず、手を伸ばしそうになる。
 エースは、エースだ。
 国が違っても、姿が違っても。厳密には同じ人ではない。それでも、根っこの一番その人がその人たる部分は、同じなのかもしれない。
 そう思ってしまうほど、大切な存在が気持ち悪いと言う彼と、目の前の彼を、とても近くに感じた。
 そして、笑顔という仮面のない、幼い彼の言葉は、まっすぐ私に届く。

 ――『余計な物』……か。

 それはどんな言葉よりも、彼の中で私の存在が大きくなっていることが察せられて、むず痒さを覚えてしまう。
 ふと、静まり返った部屋にカチコチと時計の音が聞こえてくるような気がして、頬が熱を持ち始めた。それだけ近い距離に、居心地の悪さがふつふつと湧き出す。いやいやいや、『お付き合い』ごっこの関係で、何をそんな――!
 一人沸騰し始めた頭を冷ましたのは、ガチャリと鳴ったドアの音だった。

「はあ……。ちっとも仕事が進まな――」

 続いたユリウスのぼやく声が、途中で止まってしまった。エース越しにばちりと合ったユリウスの目は、見たことがないほど大きく見開かれている。

「あ、お帰りなさい」
「早かったんだな」

 エースの声は、先程とは違いいつもの調子に戻っていた。

「っ、な――」
「「?」」

 二人首を傾げたところで、エースの服の衣擦れの音に距離の近さを思い出し――ふわ、と熱がぶり返した。のも良くなかったのだろう。

「なにをしている!!!」
 
 ユリウスの渾身の一喝に、美術館中の人間が駆けつけるのは、この少し後のこと。

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『ゼロから』 #エース
ダイヤの国のアリス、ミラーのエースベストED後のお話です。(多分)ハッピー寄り。



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 さわさわと木の葉が擦れる音の中に、土を踏み締める足音が加わった。
 滅多に人が来ない墓地ではあるが、訪問者がいないわけではない。薄目を開けて木の下に視線を落とせば、見慣れた青と白がチラついた。
 風で流される栗色の長い髪を軽く抑えながら、もう片方の手には紙袋。こちらからは頭上のリボンが見える程度で、彼女の表情までは見えない。

「……」

 彼女はキョロキョロと辺りを見回す。誰かを探しているようだ。
 ――探しているようだ、なんて。
 自分の考えに自嘲し息を漏らす。誰を探しているかなんて明白なのに、『もしかしたら違うかもしれない』なんて臆病風を吹かせる己が、ひどく滑稽に思えたからだ。

「アリス」

 彼女の肩がぴくりと震え、上を仰ぎ見る。そうして目が合った彼女の表情に、思わず目を細めた。
 ただ、俺を見つけて笑っただけだというのに、狂わないはずの秒針がブレた気がしてしまう。ただ見かけただけで、俺を見つけたら、笑ってくれることを期待してしまう。

「それ、何?」
「ああ、えっと」

 木から飛び降り、彼女の手荷物について訊ねる。横髪を耳に掛け直しながら、アリスが目を泳がせた。けどそれは一瞬のことで、真正面から俺を見据える。

「一緒に、食べようと思って」
「へえ。じゃあお茶にする?」

 歩き出した途端、「そっちは墓地の奥でしょう」という言葉とともにコートを引っ張られる。最近よく行く湖は、墓地の奥だった気がしたが、彼女がそう言うのなら間違いないのだろう。

「連れて行ってよ」

 振り返り手を差し出せば、アリスが驚いたように目を瞬かせ、そしてゆっくりと微笑んだ。



  ◇  ◇  ◇



「はい、どうぞ」

 すっかり通い慣れてしまった湖畔を眺めていると、エースがコップを差し出した。つい今しがた、火を起こすとこから用意してくれた紅茶だ。――この人がコーヒーを淹れることはないのだなと、ふと思う。

「ありがとう」

 受け取り、エースが自分の分を飲み始めたのを見て、私もそろそろと口をつけた。まだ熱過ぎるけれど、口内から喉に至る頃には、じんわりと身体を温めてくれる。エースの淹れる紅茶は至って適当に見えるのに、何故だかほっとする。

「で、何を持ってきてくれたんだ?」
「あ、うん」

 紅茶で緩んでいた身が、緊張で引き締まる。ちらりと、紙袋に視線をやった。
 一緒に食べようと言ったお菓子は、衝動買いしたものだ。かつ、彼のことを思い浮かべて買った。だけれど、これをエースと食べるべきではないのかもしれないとも思う。――それでも、迷いながら持ってきてしまった。
 コップを簡易テーブルの上に置き、がさがさと紙袋からそれを取り出す。パッケージが見えたとき、わずかに彼が反応した気がした。

「……クッキー?」
「……ええ」

 ――わかるんだ。
 エースが、好きだと言っていたクッキー。こちらの国の、エースが、だ。
 これは甘くないから好きなんだ、とユリウスの部屋で喜んでいた姿が印象的で。何よりユリウスがエースのために用意していたことが、自分のことのようにすごく嬉しくて。今日ここに来る途中に、同じパッケージのこれを偶然見つけて買ってしまったのだ。
 もしかしたら、『エース』も『ユリウス』と食べていた思い出の味かもしれない。高揚した気分で買い物を済ませ店を出て、改めてエースに会いに行こうとしたところで気がついた。
 もし、このクッキーが思い出の味だったとして。それ、嬉しいのかしら――と。

「……食べたこと、ある?」

 たとえ食べたことがなかったとして、この国のエースが好んでいることを知っていたら、いい気はしないかもしれない。
 踏み込み過ぎだと思う。
 それでも、仮にこれが好きだったお菓子だとして。それを懐かしむことぐらい、彼が彼に許してくれればいいと、思ってしまう。――同時に、これはそうあって欲しいと願う、私のエゴでしかない。単なる押し付けだ。
 でも、それですら今の彼は受け入れてくれる気がして、甘えるように持ってきてしまった。

「……どうだろう」

 ぽつりと溢した声は色がないのとも違うけれど、ここではなく遠くに向かっていて。
 ――傷つけて、しまっただろうか。
 謝るのは違う気がして、代わりにきゅっと口を引き結んだ。紙袋の中から、違うお菓子も取り出そうと手を差し込む。

「あの、他のもあるんだけど――」

 けれど、すっと伸びてきた彼の腕に言葉を詰まらせた。あっという間に、私の膝に置いていたクッキーを取り上げ、パッケージを破いてしまう。ふわりと漂った香ばしい匂いに、ユリウスの部屋で喜んでいた、幼いエースの顔が浮かんだ。
 一連の行動をただ眺めるしか出来なかった私を、一度も見ることなくエースはクッキーを一つ摘んで、口の中に放り込んだ。

「……うん」

 もぐもぐ、と口を動かす横顔は、何だか幼く見える。

「――やっぱり、甘くなくて美味しいよ」
「…………そう」

 美味しい、と言う彼の声は、私のよく知るいつも通りの彼のものだった。嘘っぽすぎるほど爽やかで。あのときのように、わかりやすく気持ちを話してくれた彼とは違う。夢と現実の狭間ではないからだろうか。それとも、たわいのない思い出は話だから? まだ、遠い。
 そこまで考えて、自覚した思いに、きりきりと胸が締め付けられた。
 エースに昔を懐かしんで欲しいとか、そんなんじゃなかったのだ。ただ、この人に近づけたことを実感したかっただけなんだわ。
 あまりにもどうしようもない、子どもじみた行動を恥じる。それでも、このクッキーを食べたことがあることを隠さなかったことに、高揚してしまう。彼が、私を好きだという言葉に嘘がないのだと、思いたい。

「ねえ」

 続けてもう一つ、クッキーを摘んだ彼に話しかければ、やっとこちらを見た。赤い瞳の奥に潜む感情を、私はまだ明確に言葉には出来ない。前よりはわかるようになったけれど、それでは足りない。予想するのでもなく、偶然居合わせるのでもなく。

「あなたの、好きなものを教えてよ」

 ようやく、色んなことを見せてくれて、向き合う覚悟ができた今だからこそ。
 今、目の前にいるあなたの口から、聞きたいことがたくさんある。

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『五十歩百歩』 #エース
ハートの国のアリス15周年で書きました。このCPに15年狂ってる……。




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「……どう?」
 サクリ。
 軽い音を立てて、彼の口の中に飲み込まれたパイ。その瞬間、ほんの少しだけ目を見開いたような気がする。いや、私の期待が見せた幻覚かもしれない。
 相手に気取られぬように一旦視線を逸らして、給仕するために使ったトレーを握り直した。
「──すごくおいしい」
 驚きに満ちた、と言ってもいい声音。
 抑えきれぬ高揚を内にありありと感じて、口元がゆるまぬよう引き締めた。
「で、でしょう。ちょっと色々研究してみたのよね」
 あえて高慢に返しながら、垂れた横髪を耳に掛け直す。おいしい、と言われた事実に浮き足立つ心を隠すことができなくて、彼に視線を向けられない。
それが、いけなかった。
「研究、ね。
何回も作ったの?」
「そりゃ、まあ」
 会いたいと思ったときに会えるわけではない人。ちょっと待っててと言ってそのまま迷子になり何十時間帯も会えない、なんてこともザラにある。それがエースという男だ。
 彼に会えたタイミングで食べさせるために、それは何度も何度も作ったのだ。
 よりおいしく作るための実験だと称して――。
「へえ」
 さっきまで浮かれていた心が、たった一言で嘘のように冷え切る、低い声音。
 続いて、いつの間にか背後に回っていた彼に抱き寄せられた。
「ちょっ」
「誰のために作ってたの?」
 ──誰の。
 耳元で囁かれ、普通なら顔を赤らめるような場面なのだろう。でもちっとも甘くない。
 ただただ、『痛い』。
「――あなたのためよ」 
 わかってもらえない。どこまでも。
 私が、あなた以外の人に、手作りのパイを食べてもらいたいとでも?
 唇を噛みしめ目線を落とせば、赤いコートの袖と、白い手袋が映る。
 はっきり言葉にしても、この男に私の言葉は届かないのだろう。喜んでたって、笑っていたって。それは表面だけだ。
 気軽に触れてくるくせに、エースの奥底を動かす衝動に、私はなり得ない──。
「……そっか」
 拍子抜けしたような声音に、痛みがじくじくと増す。欠片ばかりも自分のためにとは思わなかったのだろう。なんなのよ。あなた以外の誰に作ると思ってたの。
 痛みが段々、苛立ちへと形を変え始めたときだった。
「じゃあ、今まで作ったやつは誰が食べたの?」
「は──?」
 思わず、首だけで振り返って彼の顔を見てしまう。赤い瞳が、私を捉える。そこに冷たさはない。
「……ビバルディとか、ペーターとか、同僚のメイドたちとか」
「ふうん」
 面白くなさそうに口をへの字に曲げた彼の子どもっぽい表情に、くすぶり始めていたイライラが収まり始める。
 ──これは、妬いていると解釈していい?
 そう思った途端、頬が熱く、息が苦しくなる。今のこの態勢がいたたまれなく、でもコート越しとはいえ伝わる熱が、どうしようもなく心地良い。
「ねえ。もう、俺以外に食べさせないでくれる?」
「──あなたが、作る間くらい待っててくれたらね」
 たまにしか会えないこの人に、そのままそばにいてと正直に言えば──。
 彼はいてくれるのだろうか。
 でも、そんなことを言える可愛げさも勇気も、私は持ち合わせていない。
 だから、近づく瞳に無言で応じて目を閉じた。

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『待ち焦がれていた人は、』 #エース
スぺアリカウントダウン企画参加で書きました。
どの国でも、エースのことを待っていたらいいなと思っています。




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 ひっかきほつれた、ボロボロの裾。時間が経てば元通りになるというのに、彼のコートの裾はいつでも酷い有様だ。修復すら追いつかないほど、悪路を通っているということだろうか。それとも、路みちのせいだけではないのだろうか。

「……相変わらずみたいね」

 動きかける心を勤めて均ならせば、思ったよりも無愛想な声が出た。
 カチン、と甲高い金属のぶつかる音。そこそこ地位が高いらしい騎士にしては、簡素な造りの鍔つばが鞘に納められた。
 そこで初めて彼がこちらへ向き直る。相変わらずの、ずっと見たかった笑みを携えて。

「心配してくれてるの?」

 ぱたりと、彼の赤い赤い裾から雫が落ちる。すぐに土に染みて黒く変わったそれは、一時も経てば何の痕跡も残さず消えてしまうのだろう。

「全然心配なんかしてないけど」
「へえ」

 そっか、と対して感心を含まない声に、こちらが傷つく。私のことなど、そこらに転がした刺客と大差ないのだろう。

「……探してはいたわよ」
「……そっか」

 少しだけ色を帯びたその声に後押しされて、一歩を踏み出す。ポケットからハンカチを取り出しながら、躯むくろの間を通り抜ける。

「しゃがんで」
「?」
「早く」

 意味もわからないまま素直に従う彼の顔は、年相応に見えた。
 何も含むところのない、真っ当な騎士。
 ――頬についた返り血を除いて。
 ずっと見たかった顔にその赤は邪魔に思えて、壊れものに触れるように、そっとハンカチを押し当てた。

「……汚れちゃうよ」
「洗うからいいわよ」

 彼の側までくると、血の匂いでむせ返りそうだ。思わず顰しかめた眉に対してなのだろうか。彼は微笑んで、ハンカチを持つ私の手に大きな手を重ねる。
 血に染まった手袋で。
 ぬるりと、何とも言えない感触が手の甲を這う。

「君は変わってる」
「あなたには言われたくないわ」

 
 周囲を染める赤よりも、久方ぶりに会えた赤しか目に入らなくて。
 思ったよりも重症なのだと、震える胸の様をありありと受け止めるしかなかった。

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